第4話 たのしい訓練

「おぼぉええええぇぇぇぇ…………」


 ビチャビシャビシャシャシャ……と固形物の混ざった液体がバケツ内に注ぎ込まれる。

 千夏の、口から。

 正確には、千夏の胃の中から。


「えほっ、げほっ、えほっ、おほっ……」

「よーし、よしよし、よーく頑張った。頑張った頑張った。偉いぞー、お疲れー」


 バケツを抱え込み、涙目になりながら嘔吐する千夏を見下ろしながら、光輝が笑顔で労いの言葉をかける。

 勿論、これはドSな彼が千夏を嬲って喜んでいる訳ではない。

 新人である彼女の、体力づくりの一環なのだ。

 グラウンドを地獄のダッシュとランニング。

 慣れればそうでもないのだが、慣れるまでは心臓も肺も潰れてしまったかと錯覚するほどに辛い。

 ランニングでは、遅いと背中に背負ったリュックに重りを追加され、更に走る周回も増やされる。

 その遅いの基準も指導役の気分次第というとんでもない話だ。

 ちなみに今の指導役というのは、言うまでもなく光輝だ。

 新人だからと何割か増しで厳しくしている。

 最初は光輝も含め同じ隊のメンバーが一緒に走っていたのだが、皆はもう自分のノルマを終えてそれぞれ違う訓練に向かってしまった。

 連帯責任制で同じ隊の皆を巻き込むような訓練をしてもいいのだが、気の弱い千夏の場合それをやると本当に潰れてしまう可能性があるので、流石にそこまではしない。


「大丈夫?」


 上はTシャツ、下はジャージ姿の光輝が心配そうに声をかける。

 自分がやらせておいて今更だが。


「……はっ……ぁ……は、ぃ……」


 光輝同様上はTシャツだが、下はスパッツ姿の千夏がコクコクと頷く。

 一応はいと答えているが、全然大丈夫じゃないのは見れば明らかだ。

 吐き気は収まったようだが息はまだ整わず、地面にへたり込んだまま全く立ち上がれない。


「んー……どうしようか。この後にまだ他の訓練もあるし、このままだとなぁ……。……仕方ない。じゃあ、これは頑張った青山さんに特別サービスね」


 そう言って光輝が千夏の背を手を当てる。

 ピクッ、と少しだけ千夏の体が震える。


「あ、セクハラじゃないからね? 勘違いしないでよ?」


 まるで豪雨の中にいたかのように汗で濡れたTシャツ。

 触れた瞬間、光輝の手にべちゃっと水っぽい感触があり、運動によって熱い位にまで高まった千夏の体温が、じわじわと伝わってくる。

 

「ゆっくり息を吸ってー……吐いてー……そうそう。今俺の術で息を整わせるのを手伝ってるから、大分楽になってきたでしょ? これ、あんまりしょっちゅうやると癖になっちゃうから、さっきも言ったけど今回だけの特別サービスね」

「はぁ……はぁ……」


 千夏がコクコクと頷く。

 確かに効いているらしく、先程よりは千夏の顔色がよくなってきた。


「そうそう、そうやってゆっくり…………え!? 何!?」


 だが、そこで突然、千夏が光輝の手を強く掴んだ。


「てちょ、えぇ!?」


 しかもその掴んだ手を、千夏はなんと自分の胸に強く押し付けた。

 会議の時に皆で騒いだだけの事はある。

 千夏の胸は大きい。

 その大きな胸に、光輝の指が沈み込む。

 走る時に胸が揺れないよう彼女はスポーツブラを着用していた。

 胸を抑えている筈なのだが、それでも感じるこの柔らかさは一体どういう事なのか。

 そして、背中に触った時も思ったが、汗でビショビショになった衣類が肌にピッタリと密着しており、千夏に触れると体温と感触が意識せざるを得ないレベルで、ダイレクトに伝わってくる。


「はぁ……はぁ……はぁ……!」


 変な意味ではないとわかっていても、胸をわし掴みにされながら瞳を潤ませて荒い呼吸を繰り返す千夏を見ていると、光輝だって妙な気分になってくる。


「……あ、あのさ、青山さん。そのぉ、さ。流石にこれは、ちょぉ~っとマズいかなぁ~? なんて……」


 そもそも、どうして胸に手を押し付けさせたのか。

 背中からのままでいいじゃないかと光輝は思うが、千夏の考えでは「苦しいのは心臓や肺なのだから、直接胸に手を置いてもらった方が効果も届きやすいだろう」という事らしい。

 どう考えても背中からの方が心臓にも肺にも近い。

 千夏の場合、前には大きな障害物が二つくっついているのだから。

 結局、いつまで経っても光輝の手は解放されず、お願いしますお願いしますと千夏が目で訴えるので、そのまま胸をわし掴みにした状態で彼女の体を癒す事になった。

 それからしばらくして、千夏の意識がはっきりしてくると、やっと自分の大胆すぎる行動に気付いたのか、顔色を急速沸騰させて、首から上が飛んで行きそうな程の勢いで激しく何度も頭を下げた後、何かわからぬ謎の言葉を発しながら、バケツを手に取り、疲労困憊な筈が全速力で走り去っていった。


「………………」


 それをぼうっと見送った光輝は、千夏の胸を掴んでいた手をジッと見つめながら、その手にしっかりと記憶されてしまった感触と、深く脳に刻み込まれてしまった色っぽい表情をどうしたら忘れられるだろうかと考えた。







 定例会議を行ったところよりも小さな会議室。

 そこに勇気と千夏がいた。


「さ、ここからは楽しい座学の時間よ」

「はい、よろしくお願いします」


 ホワイトボードの前で伊達眼鏡をかけた勇気がホワイトボードマーカーをくるくると回す。


「ごめんね? 青山さん。本当なら一番最後に座学をやった方がいいんだけど、私今日用事あって早くここを出なきゃいけないのよ」


 いつもは最初にグラウンドを走った後他にも汗をかく訓練が色々あるのでそれを先にやるのだ。

 そうやって汗をかく訓練を全て終わらせた後、シャワーを浴びてから座学を受ける。

 他の訓練はともかく座学を汗まみれの状態で受けるのは、年頃の少女には少々辛いものがあるからだ。

 あの酷い走り込みでゲロった後に汗をタオルで拭いただけでこれというのは流石に酷だ。

 だから今回のこの順番だと、座学の前に一回と帰る前にもう一回で、二度シャワーを浴びる羽目になる。

 

「いえ、大丈夫です。むしろすみません。用事あるのにお時間使ってしまって」

「あー、それはいいのよ全然。可愛い後輩の為だもの。それより、今日みたいに何度もシャワーを浴びる時はシャンプーとかボディソープ、あんまり使わない方がいいらしいわよ。私も最初の頃は普通に使ってたんだけど、なんかネット見たらそういう事すると頭皮とか肌の油分がとれ過ぎちゃってよくないんだって。ほら、夏とか家でも寝汗流す為に朝シャワー浴びたりとか、回数増えるじゃない? それと合わさると身体の……ってその話はいいか、時間無いし」


 パシ、パシとマーカーを手に叩きつける。


「じゃ、改めて。始めるわね」


 千夏がノートを開いてシャープペンシルを手に取る。


「ではまず、前回までのおさらいをしましょうか。早速ですが青山さん、質問です」

「はい」

「そもそも私達は、一体何をする為にここに集まっているのでしょうか?」

「はい」


 返事をして千夏が椅子を引く。


「あ、立たなくていいわよ、そのままで。座ったまま答えて」

「あ、はい。ではそのままで。……私達は、超自然生命体と呼ばれる、異世界からやってくる謎の生物達と戦う為にここにいます」

「ええ、そうね。はい、正解です」


 勇気がホワイトボードに『超自然生命体』と書き、横にガオーと叫んでる怪獣みたいな絵を描く。


「超自然生命体とは、世界各国で好き勝手呼ばれていた彼らの名前を共通させる為に作られた呼び名ですね。では、日本で昔から呼ばれていた呼び方は何ですか?」

「はい。日本では超自然生命体の事を、遠い昔では神や妖怪、物の怪などと呼び、近代化してきてからは総称して『魔物』と呼ぶようになりました」

「うん、正解。国内では今でもこっちの魔物って呼び方の方が多く使われてるわね。じゃ、次。この国内での呼び方の延長で、今度は国内での魔物の分類を答えてみて」

「はい。魔物は日本だと大きく分けて、三つに分類する事が出来ます」


 勇気がペンの蓋を開けてホワイトボードに向かい、文字を書く準備をする。


「まず一つ目は、『魔獣』。私達の世界の動物とは全く違う構造をした生き物で、凶暴で、とても危険です」

「そうね。青山さんがここに来る切っ掛けとなった、あなたを襲った生物の分類もこの魔獣。大宮君が間に合って本当に良かったわ」

「………………」


 その時の事を思い出したのか、千夏の表情が少しだけ曇る。


「じゃ、次をお願い」

「はい。次は、『魔族』。これは、基本魔獣と明確に分ける基準がありません。ただ、魔獣の中でも高度な知性を持った者が、違う呼び名で魔族と呼ばれます」

「うん、そうね。ただこの違いって、結構重要な事なの」


 ホワイトボードに犬みたいな怪物と、隣に眼鏡をかけた犬みたいな怪物の二頭が描かれている。

 魔獣と魔族の違いを表しているつもりなのだろう。


「今私達が彼ら魔物とこうして戦えているのは、彼らがいくら強靭な肉体を持っていようと、所詮は動物並みの知性しか持っていないからなの。もしこれで彼らが戦略を練って、作戦を立てて、戦力を蓄えてから人と全面戦争を、と考えた場合、私達は負けてしまうかもしれない。単体で見ると人はとっても弱くて、彼らの方がずっと強いの。ただ頭が良いってだけで別な分類を用意して、ここまで大袈裟な位に危険視してるのはそれが理由。だから魔族を発見したら、発見次第例えどんな犠牲を払ってでも必ず倒さなければいけないわ」


 犬の群れの後ろに、孔明のコスプレをした犬が描かれる。

 その下にDANGERと大きく赤字で書くと、勇気が振り向く。


「はい。じゃあ最後の一つは?」

「最後の一つは、『魔人』です。私達『魔力保持者』が、自分勝手に魔力を使って犯罪行為を行った場合にこう呼ばれるようになり、犯罪者どころか魔物と同じ扱いをされるようになってしまいます」

「うん、そうね。だから青山さんも変な事考えちゃ駄目よ? 内容によっては本当にあっさりと魔人認定されちゃうから」


 勇気が魔人、と文字を書いた後、隣に悪い顔をした人の絵を描く。


「こんなところかな、復習は……あ、でも最後にもう一個だけ。肝心なとこ忘れてた」

「?」

「そもそもの、私達が所属している組織名は何と言うでしょう?」 

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