マスターシーン

草間千早 ~虐げられる娘二人

 草間家の親子関係は、おそらく十人中九人が『仲がいい方じゃない?』と評する物だった。小学生で父がサンタをやっていたことを知り、、中学生に反抗期でギクシャクし、そして高校で娘の反抗気が終わって穏やかになり。

 朝は挨拶を交わし、時間が合えば一緒に夕飯を共にし。誕生日は祝い祝われ、父の日や母の日は安いながらも贈り物をして、年に一回家族で旅行に行き。

 そんな関係が急に壊れた。

 最初は『お父さんお酒の量が多いなぁ』程度の物だった。仕事がうまくいっていないのかな、と母は言っていたが千早には理解できない事だった。――後で知ったことだが、父の会社が不祥事を起こし、社会的にバッシングを受けていたらしい。

 最初は睨む程度だったが、それが怒鳴るようになってきた。

「そんなに怒鳴らなくてもいいじゃない。お父さん、近所迷惑だよ」

 耐えかねていった千早の一言。それが父の何かを逆なでしたのだろう。遠慮のない平手打ちが飛んできた。

 最初は一発だけだった。父も自分が理不尽であることを理解していたのだろう。目をそらし、部屋を出て行った。

 だが、そこからは毎日のように暴力を振るった。一度殴ったことで、歯止めが無くなったのだろう。

 曰く、態度が気に入らない。曰く、男の言うことに口を出すな。曰く、仕事を知らない子供に何が分かる。曰く、説教しているときに目を逸らすな。曰く、謝らないお前が悪い。曰く、父に逆らった。曰く――

 言いがかりだ。だけどそれに反論すれば、それを理由にさらに暴力が振るわれる。

 無論、母はその理不尽な行為に怒り、父を止めようとした。だが父の暴力に屈してしまう。その後、娘を執拗に攻め立てる。

 繰り返される暴力に疲弊する母娘。それは肉体的にでもあり、そして精神的にでもあった。

 冷静に考えれば、誰かに相談するという選択肢が浮かんだだろう。あるいは逃げるという選択肢も、だ。

 だが、二人はそれができなかった。優しかったころの父を知っているからだ。これは何かの間違いで、何時かあの優しかった父に戻ってくれる。だから今は耐えよう。お父さんだって好きでこんなことをしてるんじゃないんだ。

 そう信じていた。否、そう信じたかった。

 その思考こそが、父に『二人は何をしても逃げない』『自分の方が上位なんだ』と思わせてしまい、暴力を加速させてしまうのだと知らずに。


 北欧神話の女神、ヘル。

 体の半分が黒く腐りかけていた為、生まれてすぐ主神オーディンによりニブルヘイムに追放された。父のロキはそれを助けようとせず、神話の終了になっても声もかけなかったという。

 父に捨てられた。父に助けてもらえなかった。その怨念がヘルには積もっていた。神々の黄昏ラグナロクと呼ばれる北欧神話最終戦争の時、彼女は死者の爪で作った船で神の国に攻め込み、全てを壊そうとした。

 長い間極寒の地に閉じ込められていた彼女が、何を思い軍を率いたのかは分からない。自分を追放した主神オーディンの打破か、父ロキへの援軍か。それ以外の何かか。

 だが結局のところ、神話の終わりではオーディンはフェンリルに飲み込まれ、ロキはヘイルダムに討たれた。彼女がこの戦争で何かを為しえたという事はなく、その最後も知れない。

 ヘルが父ロキに対して抱いた思いは憎しみか、愛か。それは誰にもわからない。両方とも持ち得なかったのか、あるいは両方と持ち得ているのか。


 父に暴力を振るわれながら、しかし父を信じるちはや

 父に助けてもらえず、しかし父を助けようとしたヘル

 二つの心は、静かに重なり合っていく。


 町は静かに、冷え始めていた。

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