核暦初めの情報戦

商品を作ることがよいとされる社会では商品の質は生活の便利さによって評価される。この場合便利さは科学技術の発展とともに進歩していくと見られるのであって、そうでなければ生活上のリスクをひたすらわめきたてることに終始することになる。もし仮に商品が生活の便利さではなく欲望に対応した玩具を作ることにあるとするなら、生産は宣伝のために利用されるに過ぎないのであって、雇用に対する需要だけが正当性を担保するものになる。ところで玩具を欲しがるのは社会的に立場のない子供達だけでよいのだろうか。生産の需要を増やすためには明らかに大人が子供に玩具を買ってあげるだけでなく大人が欲しいと思う玩具を作らなくてはならない。玩具にとって宣伝は欲望に対して不可逆的な効果をもたらさなくてはならないが、玩具が生活上で余計なものであるという前提条件は動かしがたい。したがって玩具の生産条件を安定させるには玩具を生産する立場の労働者あるいは起業家への夢をメディア媒体で商品の宣伝とともにアピールする必要がある。仮にこれによって玩具産業が広く社会的に認知される職業の一つになったとしたら、もう誰も生活の便利さとは別の余計なものを生産しているという非難を受けなくてすむだろう。芸術を作ることがよいとされる社会では芸術の質は売り上げによるか人気による購買の促進効果でしか評価されない。この場合、芸術批評は党派的な階級闘争の性格を決定的に帯びる。芸術の場合は何が生活に必要で何が必要でないかを宣伝で決めたり広めたりすることはできないからである。ところである芸術が特定の階級や生産条件に対して脅威となる場合、これを軍事的に弾圧することは生産の優位性と真っ向から対立するのだから現実的に脅威が浸透していくまで無視するか批評によって脅威の芸術を排除しなくてはならない。もしこれに失敗した場合は無視したり悪評を書いた側がゴミ箱か博物館行きになる。するとそれまで芸術や玩具を生産していた人々は失業する上に生産総人口も大幅に減少することになる。しかも本来の意味で生活に便利な商品を生産することに戻ることは非実際的である。宣伝の機会はもはや失われている。彼らには労働組合のような組織もないし安定した供給が見込める生産の技術もない。宗教的神秘主義やジャーナリズムへの迎合は一つの選択肢ではあるが根本的な絶望への治療ではない。ではどうするのか。おそらくは資本主義に反対するということになろう。

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