聖杯戦争のルール説明

考え始めるとはどういうことか。認識や判断ですらコストとして見なされる状況で方法的懐疑は大量の情報を前に役に立たない。考えることは手段なのだから意識が常にいっぱいになっているのは良くない。一つの目的を発明することで思考を利用できるようにするのはどうか。生存の、名声や承認の、貨幣への意志など。ただしその事を意志したところでそれらの所有が保証されるわけではなく、方向性を与えることができるだけである。これが覚悟のための覚悟や決断のための決断になってしまうと他者に危害を加えることになってしまう。他者は目的であると同時に手段でもなければ神や道具になってしまうが、だからこそ他者に危害を加えることは快楽をもたらす。他者を自身と同じ意志を持っていると見なすことは連帯の意志表明になる。他者が目的になると考えることは他者の考えを真似するだけになり意志が失われる。快楽を諦めない場合は思考は意志とは関係なく快楽に従属してしまうことになる。他者を他者として利用するためには貨幣を目的とした労働力にしなければならないが貨幣を媒介として考えるだけでは他者は手段とはなり得ない。人身売買は人間身体を道具として考えるのだから他者を買っていることにはならない。人間を買うためにはどうしたらいいのだろうか。むしろ「買いたい!」の意志表明はいかにしてなされるのか。これは全くわからないのである。つまりカリスマとかオーラとかが説明としてだされる。逆のケースである「食べたい!」の場合は愛の告白によって他者を動物にする。もちろんこちらもなぜ愛せるのかはわからない。性欲は対象を喚起するのだから意志の反対である。つまり異性に対する欲望があるのではなくどのような対象のイメージを創るかによって衝動の質が変わるということである。したがって対象自体や性欲を求めると不能になる。妄想で対象を復元すれば快楽が保証されるという考えは不毛である。性欲で身体を生産するのでなく幻想を流通させようとすれば道具は武器あるいは玩具になる。それは破壊するか遊ぶことしかできない。仮に玩具に意志を持たせたり対象として愛したりすればそれは貨幣か人形になる。どちらも交換されるために存在する。彼らを人間にするには視線か声を与えなければならない。すると今度は我々が彼女らに視線と声で買われることになるのだ。結婚のシミュレーションか冒険の旅のゲーム。

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