第3話
プラットホームの雑踏は、ひなの狩場のひ
とつだったところ。
わるいことをしてしまったと、ゆうたの姿
を探し求めているうちに、昔の思い出がそこ
ここから立ち上がって来る。
それらに小躍りしている自分に気づき、一
度ついた癖は容易に直せないものだと観念す
るのだった。
前から、目をきょろきょろさせ、よろけた
調子で歩いて来る五十がらみの男に、わざと
右肩をぶつけた。
ぶつかった拍子に、わざと大げさに転んだ。
彼はおのぼりさんだ、都会人らしく見せよ
うと、身につけるものを、上から下までわざ
わざ豪華なものにしている。
「あっ、すんません」
男の方が先にあやまり、彼女の手を取ろう
としたが、彼女はそれを拒んだ。
とっさに、彼女は大芝居をうつことにする。
いつになく、言葉づかいに気をつけた。
「まったく、あなた、どこを見て歩いてる
んですか。危ないじゃありませんか」
彼女は怒った調子で言う。
「すんません、すんません」
男は何度もかぶりを振ってから、
「いやもう、迷ってしまいましてね。大都
会は慣れないものですから」
と答えた。
一応標準語らしいしゃべり方である。
でも言葉のはしはしになまりがのぞいた。
「それは大変ですね。あたし、もう大丈夫
ですから。気にしないでください。では、お
気をつけて」
彼女は、彼の背広の内側のポケットにしの
ばせてあった札入れをすでにすっている。
用は済んだと、さっさと立ち去ってしまい
たかった。
意識しようが、しまいが関係ない。
彼女のからだが勝手に動いていたのである。
「あ、あのう」
彼女は背中に声をかけられ、ぎくりとした。
こうなったら、あくまでも知らんふりでい
るしかない。
彼女はふり向くと、にこっと笑い、
「まだ何かご用でしょうか。あたし、急ぎ
ますから」
「こんなことを言ったら、どうかと思うんで
すけど、ぶつかったのも何かの縁ですよね」
「えん?ですか」
「そうだんべ。あんた、親におそわんなかっ
たかね」
急に男の口から田舎の言葉が飛びだしたので、
彼女はふき出しそうになった。
「ぜんぜん。そんなこと聞いたことがありま
せんわ」
それじゃしかたなかんべな、とつぶやき、彼
はその場を立ち去ろうとした。
物を盗むことで、いっとき心の平安を保とう
とするが、すぐに罪悪感がおしよせてくる。
彼女はためらいながらも、つかつかと彼に歩
み寄った。
「あたしで良かったら、何かお手伝いしまし
ょうか」
と声をかけると、彼はふり向き、
「いや、そうしてもらったら、大助かりです
がな」
暗かった彼の顔がいっぺんに明るくなった。
こんな正直な人の財布をするなんて、罪深い
ことだと思うが、今さら返せない。
とにかく隙を見て、彼から離れるしかないと
思った。
「喉が渇きませんか。ちょっと売店に寄って
ください。それからあなたの目的地に向かいま
しょう」
「願ったりかなったりですがな。見ず知らず
の人にそんなことしてもらっていいもんでしょ
うかね」
ホームの片隅に売店があった。
男は背広の内側をまさぐりはじめたから、
「あっ、いいです。ここはあたしが買います
から」
彼女はあわてて、ヴィトンのバッグにあるポ
ーチから小銭をだし、缶コーラを二個買い、男
にひとつ渡した。
「あっいいんですか。すみませんね。俺が買
ってやらないといけないのに」
「いえ、いいんです」
財布がないのに気づかれたら、大変なことに
なるところだった。
売店わきに小さなベンチがある。
ふたりの会話が聞こえたのだろう。
ベンチに腰かけ、競馬新聞を広げていた若い
男が、急に顔をあげた。
ひなの顔を認めるとにやっと笑い、すぐにま
た新聞に顔を隠した。
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