ひなとゆうた

菜美史郎

第1話 

 後藤ゆうたがひとつ年下の神崎ひなと出逢

ったのはほんの偶然だった。

 ある日、ゆうたは地下鉄の電車に乗ろうと

急こう配の長いエスカレーターをくだってい

た。

 突然後ろからジーンズの脚にぶつかって来

たものがある。

 ゆうたは、最初、それが人間だとは思わな

かった。

 まったく、声をあげなかったからだ。

 サッカーボールか何かだと思った。

 都内のある私立大学のラグビー部に所属し

ているゆうたである。

 脚の筋力が人並み外れていた。

 まさか人が転がって来て、衝突したとは思

えなかった。

 「まったくもう、かかしみたいにいつまで

突っ立ってるのよ。なんとか言って抱き起こ

してくれたらどうなのよ」

 甲高い声に驚き、ゆうたがふり向いた。

 短髪で顔のほっそりした若い女が、下から

彼をにらみつけている。

 ひらひらしたスカートが、彼女の腰の方に

向かって大きくめくれ上がっている。

 前と後ろにたくさんの人が列をなし、何が

あったんだろうと、好奇の目を向けた。

 彼女が何者かわからない。

 ゆうたは素早く前に向きなおり、黙ったま

までいることにした。

 「ばかっ、あんた、あたしをなんだと思っ

てんの。ゴミ扱いしてんのね。痛いのよ、怪

我したかしんないわ」

 痛いのはこっちだと、ゆうたは思う。

 急な角度をもったエスカレーターである。

 ゆうたは緊張し、両足を踏んばっていた。

 そうじゃなければ、彼女に衝突されたとき

ボーリングのピンのようにいっしょに倒れて

いただろう。

 「だいじょうぶだよ、それくらいで済んで

良かったね。俺がいなくちゃ、ひどく身体を

痛めていただろうけど」

 ゆうたは正面を向いたまま言った。

 「このやろう。ちゃんとあたしの顔を見て、

あやまったらどうなの。あんた、ひょっとし

て変態じゃないの」

 彼女は立ち上がると、ゆうたの背中をドン

と押したが、彼はびくともしない。

 「ぶつかったのはそっちだろ。ごめんなさ

いと言ったら」

 ゆうたが落ち着いて答えると、

 「うるさい。どいてよ忙しいんだから。見

てよ、このほっぺ。すりむいちゃったじゃな

い」

 とわめいた。

 彼女はやせていた。

 ちょっと病的だなと、減量で苦しんだ経験

のあるゆうたは思う。

 「何よ、人の顔をじろじろと。おぼえてら

っしゃい」

 「ああ、覚えてるよ。一生忘れない」

 彼女はふんと言い、ぺろっと舌を出したか

と思うと、床に落としたポーチを拾うやいな

や、狭いエスカレーターの中で、プラットホ

ームに向かって走り出した。

 見る間に着地すると、彼女は未だにエスカ

レーターに乗っているゆうたの方を見て、に

やにやした。

 なんて人騒がせな女だろう、あんなのほっ

とくにかぎると、ゆうたはやっと我に帰った。

 彼女は、なかなか立ち去らないでいる。

 ポーチから黒い札入れを取り出し、二三度

振った。

 あっと思い、ゆうたは後ろのポケットに左

手をまわした。

 札入れがなかった。

 あわてて、彼女を追いかけはじめた。

  

 

 

 

 

 

 

 

  

 

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