Take-33 『美女と野獣(Beauty and the Beast)』(2017,1946)は面白かったのか?
ガッシャ……ガッシャ…………ザクッ、ザクッ……
「隊長……自分はもう駄目であります。先に行ってください」
「何を言う、さあ立つんだジャン=ポール。もう少しじゃないか頑張るんだ!」
「私はもう歩けません……私のことなど気にせず、先へ……」
「バカっ、眠るんじゃない、眠ると死ぬぞ!」
「いいんです、もう、楽になりたいんですよ。隊長……今までありがとうございました……」
「温かいスープと暖炉がきっと待ってる。さあ、起きろ! 起きて歩くんだ、死ぬんじゃない、ジャン=ポーーーール!」
ガクブルと震えながら雪の中を歩く時、昔からわしゃはこんなことを脳内で再生しながら歩く癖がある。すれ違っていく人たちもまさかわしゃがこんなことを考えながら歩いているなど露ほども思ってはいまい。ふっ……ふっふっふ、あ~
いや~東京にも久しぶりに雪が積もりましたね。ジャン=ポールは還らぬ人となってしまいましたが皆様は無事、生存してらっしゃいますでしょうか。
そんなわけで地域に優しい政治を、住みよい社会を、皆様のペイザンヌでございます。お父さん、行ってらっしゃい! お嬢ちゃん転ばないようにね。あ、どーも、ありがとうございます! ペイザンヌ、ペイザンヌでございます。
てなわけで今回は『美女と野獣』。
個人的にはD・ボウイのあのめちゃカッコイイ『Beauty and the Beast』という曲をフト思い出してしまったりもします。
ちょうど、あの大雪の夜に見ておりました。てゆーか、なんか『雪』のイメージのあるものを観たいな~と思って借りてきたうちの一本でありまして、今回の『美女と野獣』はその中で所謂《優しい雪・side》といったとこでしょーか? もう一本はまた次回にでも書こうかと思っております(勘のいい方でしたらもうおわかりですかね?)。
『美女と野獣』=ディズニーとか、『美女と野獣』=ミュージカルというイメージになってしまったのはまだまだごく近年のような気もしますね。『オペラ座の怪人』や『クリスマス・キャロル』なんかもしかり、ミュージカルやオペラにはちょっとしたオカルト要素というか不気味なモンスターのようなものが似合うのかもしれません。
ディズニーのアニメ版が公開されたのが1991年、ブロードウェイでミュージカルの公演が始まったのが1994年(その後、9年という歴代4位のロングラン)です。その前まではどちらかというと『美女と野獣』ってモンスター系……というか少し暗いイメージがあったような気がします(個人的に)。幻の東宝特撮映画『獣人雪男(1955)』のようなイメージが……て、こんなん誰も知らないか、少なくとも現在のようにきらびやかなイメージではなかったはず。
ディズニー以前はどうしてもモノクロ版、フランスの詩人ジャン・コクトーが監督した『美女と野獣(1946)』の方の印象が強かったですからね~。最も美しい古典ホラーファンタジーなどという謳い文句で語り継がれていたものの、派手なアミューズメントパークで扱うようなものとはちと違っていたような──と言わざるを得ません。
コクトー版はもう随分前に一度観たきりなので正直うろ覚えであります。ググればおわかりでしょうが、1946年版の
ちなみに原作の有名な
かといってアニメ版の“
ちなみに1976年のジョージ・C・スコットがイノシシ型の野獣を演じた、アメリカのテレビドラマ「Beauty and the Beast」というものがあります。(おそらく)これが初めてダンス・シーンがあった『美女と野獣』だと言われてるそーです。へぇー。
そんなわけなんで個人的には今回の2017年版の
今回、この『美女と野獣』の歴史を個人的に紐解いてて──いや~、初版の原作から比べると時代と共に、ストーリーの変革及びいろんな見方をされてきてるのが実に面白いなと。
たとえば、“小説家になろう”の方で現在開催中の〈if童話〉みたいに『美女と野獣』を二次創作するとしましょう。『実は少女ベルの方が
はい、実はそれヴィルヌーヴ夫人による初版『美女と野獣(La Belle et la Bete)』のストーリーなんですね。
へぇ~と思いましたわ。
野獣も少女ベルも互いに呪いをかけられてる設定なんですね。しかも全部が全部本人たちのせいってわけでもなく彼らの母親や父親のせいで──といった世代を
ほとんど『犬神家の一族』の世界。
ま、まあ、てゆーか、神話そのものが全て横溝正史っちゃあ、そうですからね。うん。
んで、次にボーモン夫人が継いで書いた──いってみりゃ二次創作版の──『美女と野獣』こそが現代版の基礎となってるってんですから世の中何が起こるかわからないもの。現在であれば著作権争いのひとつでも起こりそうです。
原作の設定は“三人姉妹”です。そんなところもお決まりの童話ぽいですやね。んで、やっぱり姉二人は最後に石像にさせられたりとろくなことになりません(なんかいつも可哀想……)。
さて、この「
怪談でも『食わずの女房』ってのがありましたね。昼間は何も食わない女房が夜中になると後頭部にあるでっかい口で握り飯をむしゃむしゃ隠れて
どうです? あなたもひとつそれで書いてみたくなってきたのでは?(笑)
モノクロ版、コクトーの監督した『美女と野獣(1946)』に戻りますが、絶賛されたのはやはりその美術。これは今やブランドのロゴなんかでしか見かけなくなりましたがピエール・カルダンが担当しております。詩人と
「早とちりする知性の眼を閉じて、早とちりしない心の眼を開けてください──なすがままに任せて」とはコクトーの言葉ですが、このコクトー版の『美女と野獣』は近年のものやオリジナルと比べてテーマも少し変わってるんですね。
主人公ベルがあれだけ避けていたガストン(コクトー版ではアヴナン)と
主人公ベルは人間となった野獣から「ガストンを愛していたのか?」と聞かれた時も「Yes」と答え、また「野獣(だった自分)も愛していたのか?」と聞かれた時も「Yes」と答えます。そのベルの最後の表情が序盤の「少女」の顔から変化している──このことが、コクトー版の深いところなんですね。
ベルはつまり『野獣(力強さ、冒険の象徴?)』と『美女(美男子? または美しいもの)』を同時に求めている(いた)のです。そう考えると『美女と野獣』というのはまさにベル本人の中に存在する二つのものを指すのかもしれませんやね。
こうなると二つの原作者がどちらも女性というところもまたミソです。
なるほど、と思ったのは野獣の呪いがとける場面。監督のコクトーは
理想が現実に、恋愛が結婚となることを“瞬間”として捉えたのかも、などと思わざるを得ませんよね。
個人的には──子供も見るだろうし夢のある話ですから、まあ仕方ないでしょうけれど──ディズニー版を観ている時、少し野獣をカッコよく描きすぎなのではないかなとも少し思いましたね。あの野獣だったら普通に惚れてまうでしょ(笑)一方で、ガストンをあまりに悪いやつにし立て過ぎなのでは……とも。野獣はやはり野獣であり、ガストンはやはり人間。その辺の境目が御都合的に曖昧すぎるというのもハタシテどうなんだろうなと頭によぎったのも確か。
原作で野獣は本などの知識、教養もありません(それも呪いのひとつであります)。ただ「自分何も知らないことを知っている(所謂、
ひょっとすると本来この物語というのは誘拐犯に恋してしまう「ストックホルム症候群」を示唆してる部分も少なからずあるのかもしれません。もちろん当時、そんな言葉はありません(ストックホルム事件は1973年)。だからこそですが、そういう“当時言葉としてなかった潜在願望的なもの”が実は物語の闇に隠れ潜んでいることも考えられます。
そう──受け取り方によるとこれってやっぱりとても怖い話なんですよね、やっぱり。いくらディズニー版といえども、疑うことを知らない子供たちに簡単に見せていいのだろうか? と少し心配にもなります。
あ、こういう話をしておいて今さらなんですが、ちゃんとうるっとしましたけどね(笑)。見てる途中、フト「あれ? わしゃ、ベルと
氷に閉ざされた城がカメラが一周するうちにぐわわーんと元に戻っていくシーンは圧巻でしたね。CGも善し悪しでしょうがこういうのを見てしまうとやっぱり褒め称えたくもなるってもんです!
ちなみにディズニーアニメには決まりごとがあるのって知ってました?
それは──
悪者は必ず「落ちて(落下して)」死ぬということ(笑)
剣で刺されるなどといった直接表現を子供たちに見せてはいけないんですね。実写ではありますが今回もやっぱりというか、ちゃんと落ちましたね。何気に『スター・ウォーズ』も落ちて最後を遂げる人が多いんだけど……あれは配給がディズニーになる前からそうか(笑)
そんな感じで今回は『美女と野獣』の歴史を少し紐解いて考察してみました。2012年のオーストラリア版だけ観てないものでスミマセンm(__)m
こうしてみると同じ『美女と野獣』という物語であっても、その歴史自体に甘い(美女)も酸い(野獣)も混在しているところこそ時代の変化に順応していける強みなんでしょうね。まさに雪と同じく……そう、雪は美しいだけではございません。次回は恐ろしい『冷たい雪・side』あたりが書ければなと思っております。
めっきり寒い日が続いておりますが皆様、風邪やインフルエンザにはお気をつけくださいませ。
(^ー^)
では、また♪ キガムケバ~♪(こらこら)
【本作からの枝分かれ映画、勝手に三選】
★『キャット・ピープル』(1942,1982)
……パッと思い出すのはやはり1982年版。人間と愛し合えば豹に変わり、その人を食い殺さなければもとに戻れない“猫族”たちの悲哀、ミステリーを描いた作品。
主演のナスターシャ・キンスキーといえば当時、“艶なまめかしい”とか“エロティック”とか、そんなことすら言ってはいけないような──そりゃもう触れることさえ許されないような(まあ、普通に許されないんですがね……)神々しさを放つ本当に美しい女優でした。相手役には『時計仕掛けのオレンジ(1971)』のアレックス役、マルコム・マクダウェル(へぇ~、そうだったのか……)。トリビアですがこのマルコム・マクダウェル、あの伝説のクソ映画としていまだ愛されている『北斗の拳(1995)』にもリュウケン役で出てます(笑)
製作はミスター・ヒットメイカー、誰もが一度はクレジットで目にしているジェリー・ブラッカイマー(へぇ~、そうだったんだ……)。
ただ、アイデアが抜群にいいのにちょっとまどろこしいのが残念……この映画こそ、そろそろ三度目のリメイク、やってみたらどうですかね?
★『エレクトリック・ドリーム』(1984)
……今回三選は“異類婚姻譚”でまとめようと思ったわけですが、う~ん、となると人魚姫の現代版『スプラッシュ(1984)』あたりか……と思いつつ、やはり現代的にA.I.との異類婚姻をひとつ入れたい!ってことで。
そうなると、ぶっちゃけ『ブレード・ランナー(1982)』だって異類婚姻譚になるわけですわな。本来書くべきは近年の『her/世界にひとつの彼女(2013)』あたりがいいんでしょうけど、あえて30年以上前のこの作品を。
すご~くチャチです(笑)なんたってマイコンとか言われてた時代ですからね。A.I.どころじゃないです。デスクトップ型の“マイコン”に生命が宿り持ち主の彼女に恋をするラブコメディ。モニターにメールの顔文字のようなものが表情として出ますが、それも、
『(・_・)』こんな感じなんで(笑)
ただ、この映画を観た時、とても不思議な感じがしたのを覚えてるんですよね。未来へとレールが繋がったのが垣間見えた……と言うと大袈裟ですが、『これまでとは違う、こんな感じの生活へと突入して、さらにその中を生きていかねばならないのだな』という漠然とした──やや不安寄りの期待──そういった感じを受けたのをはっきりと覚えております。そして、今やそれは──現実であるわけです。不思議。
インターネットも一般に普及されてないくらいの時代です。これを今見るとこの30年の間の『ギャップと進化』をものすご~く感じられると思いますね。
ただ現在、こんな映画の需要自体がそもそもは無さそうなので放映もされないだろうし販売もされてるのかどうやら。なので映画としてはむしろ貴重な一本……かもしれませんね。
★『マックス、モン・アムール』(1986)
……個人的に異類婚姻譚で真っ先に思い出したのはこの映画なんですね。チンパンジーと女性のラブ・ストーリーです。SFでもコメディでもありません。ガチなのです。
フランス映画という名目ではありますが監督はあの奇才、大島渚。主演はイギリスを代表する名女優、ミセス“
共同脚本にブニュエルの映画やカルトの名作『ブリキの太鼓(1979)』(私はあの独特な雰囲気がどうにも怖くてもう一度見れないんすよね……)などの ジャン=クロード・カリエール。
そしてなんとダミーのチンパンジー製作をあのリック・ベイカーが担当してるってわけですから考えてみると凄い映画なんすよね……。
リック・ベイカーといえば──ダース・ベイダーのマスクの型どりをしたとも言われており(あくまで型どりです、『スター・ウォーズ(1977)』の頃は助っ人くらいだったらしいですね)、『狼男アメリカン(1981)』でアカデミー特殊メイクアップ賞を獲得。メイクアップの歴史を根本的に覆した方ですね。あとはググってみてください。少なくとも誰もが観てる映画が5本~10本くらいは必ずあります。
ちなみにこれもトリビアですが、彼の妻、イレーヌ(エレイン)・ベイカーは『帝国の逆襲』で(リメイク前の)銀河皇帝を演じております。
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