火曜日
10.いま座っているこのベンチの存在を、信じるか
理事長室での長い懇談が終わって家に帰りついたのは、夜九時近かった。
家まで送ってくれたハルとキョウに、食事でもしていくかと誘われたが、昼間の疲れでだいぶまぶたが重くなっていたので辞退した。
(もうちょっと、話してみたい人たちだったな)
家に帰ってから少し残念に思ったが、本当に疲れていたらしい。風呂に湯を張るのも待てずにシャワーで済ませたまでは覚えているが、そこから先の記憶がない。
気づいたら、畳んだ布団に上半身を預けて眠っていた。
代わりに夜中に目が覚めて布団を敷き直してからは、夕方以降のあれこれを
一連の出来事の後で、軽く――でもなくパニックに陥っている心境で、あんな話を聞かされたから。雰囲気に飲まれて最後のほうは信じ切ってしまっていたが、一人になって考えてみれば、やっぱり話が荒唐無稽に過ぎる。
だって――超能力を持った高校生が、犯罪者と戦う? 学園のトップたる副理事長が、裏の仕事を持っていて、超能力者たちの治安を守っている?
だけど、いくらなんでも――超能力だって?
悪い人たちには見えなかった。自分を助けてくれた。嘘を言っている様子ではなかった。だいいち、伊織を騙したって、なんの得がある?
けれどそう考えるのは感情的な部分で、一方で理性的な部分が「そんな話あるわけないじゃないか」と否定する。言われるとホイホイ信じてしまうのは、伊織の悪いクセだ。もっと冷静に考えろ。超能力だぞ?
(でも。――もしも本当だったら……)
思考は同じ場所をぐるぐる回り、最終的にはそこにたどり着く。横から「そんな馬鹿な話」と警戒を促し続ける理性的な自分を押しのけて、結局は「これが本当だったらいい」と思っている感情的な自分が勝つのを、伊織はうつらうつらとしながら認識していた。
寝不足気味で迎えた火曜日。
伊織は前日までとさほど変わらない一日を送っていた。授業の難しさに不安になり、口をきく友人も多くはなく。ただ、後ろの席の上野とは、もう少し会話を交わすくらいの仲にはなっていて。
初めて集団の中で昼食をとった。上野に誘われ、数人で机を囲んで昼休みを過ごしたのだ。内部進学生が中心で、学内の噂話やゲームやアイドルの話にはほとんどついていけなかったが、それでも昼休みを大勢で過ごすというのは初めてで新鮮な経験だった。
同じように上野に誘われたものの話に入っていけないらしい、外部進学生の生徒――中西と言ったか――と、一瞬目が合って、苦笑を交わした。
神月悠は相変わらず忙しそうで口をきく機会はなかったが、休み時間に一瞬目が合った。
悠は理事長室で見せたのと同じ微笑を投げかけてきたが、曖昧な笑いで返した。悠のそれが、秘密を共有している人間に向けた特別な笑顔なのか、それともただ目が合っただけの普通のクラスメイトに向けたものなのか、判断がつかなかったから。
放課後――それでも神月悠の名に反応してしまったのは、やはり昨日のことが心に引っかかっているせいだ。
帰り支度をしているところに担任の村上がやってきて、「神月くんは?」と誰にともなく声を掛けたのに、さっと目を上げてしまったのだ。
「もう帰っちゃったのかな。明日授業で使う教材が、間違ってほかの荷物と一緒に大学の売店の方に届いてしまったみたいだから、取りに行ってもらおうと思ったんだけど……」
そんな言葉を聞いてしまったら、無視するわけにもいかないのが伊織の性格である。幸い神月悠という人物でなくても役はこなせそうな用事ではないか。
「俺、行ってきましょうか?」
後ろの席でほかの生徒たちと話していた上野が、「一緒に行ってやろうか?」と話しかけてくれたが、大した用事でもなさそうなので遠慮した。高校校舎を後にして歩き出してから、上野と一緒にキャンパス内を歩くのも悪くなかったかな、と思ったが。
売店は思っていたより近く、教材を受け取る仕事は簡単に終わった。
包装紙に包まれた冊子の束を抱えて高校校舎の職員室に向かい、昨日何時間も滞在してしまった学園事務棟の脇を通った時だった。
足を止めたことに、深い理由はない。何かに引かれたような気もするが、少なくとも意識に上りはしなかった。
学園事務棟の裏手の中庭に差し掛かり、なにげなく視線をやった先。
中庭の隅に置かれたベンチに、成宮香の姿を見つけたのだ。
キョウは、ベンチの上に
ざわり、と周囲の木の葉が動く気配を感じた。
伊織の視線は、ベンチの上のキョウに引き付けられていた。
目を閉じて黙座するキョウが、薄っすらと、淡い青緑色の気体に包まれているように見えたからだ。
立ち上る湯気のようでもあり、身を包む膜のようでもある、その色付きの気体がなんであるのかを考える前に、「綺麗だな……」と感じていた。それは、初夏の新緑を思わせるような、海の深さを思わせるような色合いで、キョウの体の周りを揺らめいて離れ、空気に溶け込んでいた。とても静かで、清浄で、心地よいものに見えた。
声を掛けていいのかどうか、ためらわれる。それは自分の領分を越えて、キョウの世界に踏み入っていく行為であるような気がした。眠っているのを起こすのとも違う。無遠慮に触れてはいけない。そんな気配が――。
ああ、これがキョウのオーラなんだな――
そう感じた直後に、伊織は慌てて我に返る。
(なんだ、オーラって!)
なんとなく聞いたようなそんな言葉が、一瞬ものすごくしっくりと来た。だけど、そんなもの、色付きで目に見えるようなものなのか?
あたふたと、たったいま自分が感じたことを否定する。どうも完全に、昨日の話に毒されている。
教材の包みを両手に持ったまま首を横に振るって、目を閉じ一回深呼吸して、もう一度目を開ける。
キョウを包んでいた青緑色の気体はもう見えず、もしやそれすらも幻覚なのでは……と思ったキョウの姿は、まだ変わらずにベンチの上にあり――
そのキョウが、目を開き、ゆっくりとこちらに視線を向ける。覗き見がバレたような気分で気まずく硬直した伊織だったが、そんな伊織の気持ちを拭い去るようにキョウは小さく笑いかけてきた。
「よぉ」
そのまま立ち去るわけにも行かず、伊織はベンチのほうに歩み寄る。
キョウは近づいてくる伊織を特に不審に思った様子もなく、笑顔の余韻を残したまま迎えて、
「
確認するように、呼ぶ。フルネームで声に出されたことに一瞬戸惑うと同時に、名前をしっかり覚えてもらっていることが、なんだか嬉しい。
「何してんの、こんなとこで」
「あっと……先生にお遣い頼まれて、大学の売店に行ってきた帰り。明日の授業で使う教材が、間違ってそっちに届いちゃったって……」
持っている荷物を少し持ち上げて見せる。
「ふうん」とキョウは一瞬だけその荷物に目を向けたが、すぐに興味を失ったように正面を向いた。
「えっと……キョウ、は?」
曖昧に笑いを浮かべながら、世間話みたいにして話しかける。
考えてみればここは、高校の敷地内ではない。昨夜の学園事務棟の理事長室に入っていった時の慣れた様子からして、高校校舎外を自由に歩く姿を想像することも難しくはないが、日常の放課後という時間に高校生の領域外で自然に振舞うキョウに興味を覚えた。
「日向ぼっこ」
キョウはそう答えて、目を上げる。
太陽は西に傾き「日向」を作るほどの力はもうないように見えたが、中庭は、昼間の日差しを芝生が吸い込んで保存しておいたかのように暖かく、その緑を目の前にしたベンチはたしかに気持ち良さそうだった。
だから自然に。深い意味もなく、
「横、座ってもいい?」と聞いていた。
聞いた自分に少し驚いたが、キョウは気にする様子もなく「どうぞ」と左隣を示して少しだけ右に寄る。もともとそこにはひとり座る分くらいのスペースはあったので、体をずらしたのは場所を空けるためではなく「客」を迎えるサインなのだろう。
荷物を両腕で抱えたままベンチに座ってはみたが、何から話したらいいのか分からない。
聞きたいことがたくさんありすぎて、頭の中を渦巻いて、どこから取り出したらいいのか分からないのだ。物が乱雑にいっぱいに詰まった引き出しを開けるみたいだ。少し開けた瞬間に、きっとそれまで押し込められていた、なんだか分からないものが、飛び出してくる。
だから、不用意に引き出しを開てしまう前に、一呼吸置くことにした。
「……昨日はどうも」
「ん。こっちこそ、どうも」
キョウは表情を変えずに応じる。
「ええっと……二度に渡り助けてもらったようで、……どうも」
「別に。大したことしてねえよ」
キョウは相変わらずぶっきらぼうに答えるが、その表情からも、伊織を快く隣に迎えてくれた様子からも、拒むような雰囲気は感じ取れない。横目で窺いつつ、引き出しの中いっぱいに渦巻く疑問を少しでも解消できたら、と、次の会話の端緒を考える。――と。
キョウは胡坐を解き、左足はベンチに乗せたまま片肘を背もたれに載せて伊織のほうに体を向けた。その体勢で例の、笑っているようないないような真顔で真っ直ぐ伊織に視線を向けてくる。
その綺麗な瞳で見つめられると、やはり一瞬たじろいでしまう。口から出る言葉よりも、目に映る感情を見透かされているような気持ちになるのだ。
「えっと……?」
「……聞きたいことがいっぱいあるって顔してっから」
ベンチの背に頬杖をついて、キョウは目を細め頬を緩める。にやり、と言った表情だ。
伊織はまたひとつ、大きく深呼吸した。
「……あります」
答えて、そろりと心の引き出しの取っ手に手をかける。一番手前に入っているものは、なんだ? 飛び出して来ないように、注意深く。
「いや、ぶっちゃけね、いっぱいありすぎて何から聞けばいいのか……」
「ん」
「正直だいぶ、混乱してます。昨日、聞いた話。理解したつもりなんだけど、どうなのかな……完全には……」
信じていいのかどうか分からない、という正直な気持ちは、そのままぶつけることはためらわれた。しかし、伊織のためらった言葉を理解したかのように、キョウは笑う。
「だろうな」
「……疑ってるわけじゃないですよ?」
「疑えよ」
「え……だってさ……」
「普通の反応だろ」
キョウはわずかに目を細め、面白そうな表情をしている。
「ああ、もしかして、こういう他人の反応に慣れています?」
「なんで敬語なの?」
「なんか、次元の違う人たちなのかなって思って……」
「んなことねえよ」
「だって、凄い人なんでしょ?」
「信じたの?」
キョウはますます面白そうな顔になる。伊織はふう、とため息をつく。そうなんだよなあ……。
「……昨日の……楠見さんの話は、全部本当なの?」
「本当だよ」
あっさりとした口調で、キョウは即答した。
「さっきは疑えって言った」
「ん」
「でも、本当だって言う」
「本当だからな」
「どっちがいいの? 信じていいの?」
「好きなほうにしろよ」
言葉は突き放しているが、面白そうな表情は変わらない。からかわれているんだろうか……?
そんな疑惑の目を向けると、キョウは笑いを引っ込めて目線を宙に上げる。
「でも……そうだな。普通はあんな話はしない。能力使ったとこを他人に見られても、『気のせいだろ?』で済ますな。お前に話したのは、無関係じゃないからってのもあるけど……なんとなく、話しても大丈夫そうな感じがしたからかな」
「俺が話を信じそうっていうこと?」
「そうじゃない。信じても信じなくてもどっちでもいい。楠見もそう言っただろ?」
「よく分からないなあ……」
「んー。こっちが信じてるってことかな」
「……え?」
楠見や、ハルやキョウが、伊織のことを信じている? 考えてもみなかったことだ。自分が彼らの話を信じるのかどうかということしか頭になかった。
考えがまとまらず、次の言葉を捜しあぐねるうちに、キョウがまた人懐こい笑いを浮かべて伊織に視線を戻した。
「もしもお前が、大して知りもしないのに『サイ』をハナっから否定してかかるようなヤツだったら、俺たちは自分たちのことを話さない」
「うん……」
「逆に興味本位で話合わせてくるようなヤツだったら、それでもやっぱり話さない」
「うぅん……」
分かったような分からないような……だけど、信用してもらっているというのは、喜んでいいことなのだろうか? でも――と伊織は戸惑う。俺は、彼らの信用に足る人間だろうか? だって……。
「俺は……」
言っては不味いのかな、と思ってた言葉が、決壊しようとしている。パンパンに詰まった引き出しの中から、勝手に飛び出してくる。
「信じられない……のかな。ううん、信じたいんだよ。そういうのがあったら、凄いなって思うんだ」
そう言って少し首を傾げる。言葉を選ぶ。
「でもやっぱり……うん……ごめん、信じ切ってはいないかも。疑ってるってのとも違うと思うんだけど……」
言ってしまってから、恐る恐るキョウの顔を見る。信用できないなどと言ったら相手を怒らせて、人間関係はそれで終わりだろう。それなのに、今はなんとなく、そう言っても許されるような。そんな気がした。
相手がキョウという人間だからだろうか。根拠はまったくないけれど。でも、信じてもいないのに上っ面だけ繕って話を合わせることは、もっとできない。きっと、見抜かれてしまうから――。
案の定、キョウは笑った。
「それでいいよ」
「……そう……?」
「ん。たぶん、これからいろいろある。それ全部見てから決めりゃいいだろ」
「怒らないの?」
「なんで怒んの?」
「だって、キョウたちは超能力があるって信じてるんだろ?」
キョウは頬杖をついたまま、少々難しい顔になって視線を離し、「んー……」と考えるように中庭の芝生に目を向けた。それから、少し真顔になって、伊織に向き直る。
「お前はさ。いま座ってるこのベンチの存在を、信じるか?」
「え……?」
一瞬、質問の意味を掴み損ねる。
が、キョウは真剣な表情で真っ直ぐに伊織の目を見て、答えを待っていた。
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