第67話 不倫と文化



 かなり前のことだが、俳優の石田純一氏が女優の川島なお美さんから聞いた話として「文化や芸術といったものが不倫から生まれることもある」との内容を話したところ、『不倫は文化』だと話が一人歩きしてしまい大きなバッシングを受けたという経緯から生まれた言葉とされる。

 しかし、現実の社会を見れば退廃的だと言っても良いのかも知れないが、世の中には不倫という行為が溢れているのも事実であろう。そして、この状況自体は最近増えた訳ではなく昔から姿形や呼び方を変えながらも存続しているという現実もある。倫理的側面から頑なに否定する事はたやすいが、だからといってその状況に劇的な変化が見られる訳でもない。

 一方で、不倫自体が社会で当たり前のように語られるレベルまで地位を固めているかと言えば、これもまた事実ではない。基本的には裁判においても不貞行為は有責理由として明確なものであって、世間が何となく感じているよりもずっと不倫というものはメリットが低い。吊り橋効果ではないが、危険な状況に自らを置くことが一時的とはいえ多大な満足に繋がっている面は否定しがたい。だからこそ、遠い昔から現代までいつの時代にも消えることはない。


 さてこの良く用いられる「不倫」という言葉ではあるが、定義を明らかにしようとするとこれがなかなか容易ではない。基本的には配偶者(あるいは婚約者)がいるにも関わらず別の異性とのアバンチュールを楽しむ状況のことを指す。ただ、問題としては肉体関係がそれなのかあるいは精神的なもの自体がそれに当たるのかが意見が分かれているようだが、法律的には肉体的な関係(離婚理由としては原則として複数回)が必須とされる(あくまで裁判上の話であり当事者間の合意があれば離婚は成立する)。浮気とは不倫の俗表現ではあるが、現状不倫と評される内容と比べれば幾分言葉が持つ範囲は広い。

 浮気には不倫と同様の意味も当然含有されるが、それ以上に広い意味で用いられることが多い。心の移ろいには明確な証拠が残りにくいこともあって、事実が確実に認定されるものが不倫として抽出されていると言っても良いかもしれない。


 さて、日本は一夫一婦制であるため不倫という言葉が用いられるが、一夫多妻制の地域ではどのように取り扱われるのであろうか。もちろん一夫多妻が制度的に認められているからと言って無秩序に逢瀬を重ねることができるわけではない。一夫多妻制は、厳しい環境下での子孫繁栄を目指した一つの形態であるにすぎず、妻という立場は一定以上厳格に保護される。すなわち、建前上ではあろうが妻は平等に愛され財産の配分も平等に受けるということである。もちろんその状況が維持できる財力は必須である。そして、きちんとした手続きが踏まれないものはやはり不倫なのであろう。もっとも、多妻を実現できる財力があるということはそれを揉み消すこともできるということでもあり、このあたりの状況は日本も同じではないだろうか。

 そして一夫多妻制度ではない日本の場合でも、同じような生活は事実婚として当人たちが認めるならば(倫理的な側面は別として)成立する。非嫡子の相続差が法的に解消された今、籍を入れるということ以上に違いが発生しない状況にある。

 どちらにしてもかつての日本でも家系の維持を目的として側室制度は存在したし、現代の倫理に適合するかは別にしてシステムとして許容されている範囲内ではこうした重婚的な行為も存在しうる。逆に言えば、不倫は常に許容されない形での行為だと言える。


 不倫に至る意識が如何に形成されるのかの提示は経験がないためできないが、思考実験としては十分可能でもある。不倫の形態は多種多様であり典型例を持ち出しても意味はないが、その後の苦難を理解した上での略奪婚に至るような本気の場合を除けば、「浮気」という言葉が示すように心の移ろいが行為を引き起こす要因として存在する。

 移ろいの原因は多くの場合は現状における不満がそれであり、一部には自己認識がある恋愛依存症のケースもあろう。当然のことではあるが、異性との関係が不倫であってその原因は夫婦(あるいはカップル)間の不満(あるいは物足りなさ)が取り出される。ただ、これも強烈な不満の積み重ねにより生じるものもあれば、相手に対する責任感の欠如という認識論に起因するケースもある。前者は夫婦関係にありがちで後者は結婚前の恋愛状態によく見られる。

 ただ、不満というものはあくまで個人的な認識に立脚しており、第三者からすれば独りよがりな判断とみなされるケースは多い。こうした不満は基本的に相手側を理由として吐き出されるものではあるが、同時に自分自身への不満の裏返しでもあることが多い。一方的に相手側が悪いと言える場合もない訳ではないが、その場合には何らかの依存状況があるようなケースを除けば不倫により解消する必然性は高くない。

 むしろ、自分自身の相手方に対する興味が一時的かもしれないが薄れたことが不倫への一歩を踏み出す主因であり、その責が自分に帰されることを無意識のうちに免れようとする(認めたくない)という感情が相手方の不満となり現出する。最も重要なのは、自らが自分自身の心理的な飢えを満たせないという吐露をしているに等しい。夫婦にしても恋人にしても、自己の心理的満足は本来自分で充足しなければならず、その主体性がお互いにマッチした時に望ましい関係が生まれる。

 だから、不倫に至る心理は自己の精神的充足を他者に求め続けるところから生まれている。もちろん不遇な環境から心理的に追い込まれるようなケースもあるだろうが、結局のところ自分の満足感は人任せにはできない。


 経済的な側面を別として、不倫が社会の中に一定の地位を占める状況が生まれるとすれば、それは自己の責任感(自律した状況)と向かい合わなくても生きてゆける時代背景があるのだと思う。その全てが否定されるべきとは思わないが、それを文化かと問われれば確かに文化の一部ではあったとしても、生み出す文化的背景は必ずしも良いものとは思えない。

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