第55話 「好き」の効用



 いつも感じることではあるが、「好きこそものの上手なれ」と言う言葉は間違いない真理だと強く思う。別に、好きだから常に能力が高いと短絡的に結びつけるものではないのだが、それでも「好き」でいることは十分条件ではないものの必要条件である。嫌いでも上手な人の反例ならいくらでも挙げられるかもしれないが、本当の意味でそれが嫌いなら継続は容易ではない。仮に、あくまで一時的に反例としての条件を満たしたとしても、そこには継続性という重大な要素を欠いている。

 「好き」であるということは真面目に取り組むことを意味し、同時に続けられるという面が最も大きい。そして、継続するからこそ人により速度は違うであろうが技術も見える世界も上昇し変わっていく。道の先を見たいのであれば、努力することを目指すのではなく好きで居続けることに腐心する必要がある。


 とは言え、「好き」は感情であるが故に自らの思い通りにはなり難い。「好き」でいたくてもいられないことなど男女の仲ではごく普通にあることだろうし、「好き」だからこそ許せないと言うこともよく聞き及ぶ。

 一方で、「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」と言われるが、それは正しくもあり間違ってもいる。感情の振れ幅としての「好き」と「嫌い」は正反対の位置に存在するが、そこに執着しているという点で同類でもある。「無関心」は執着という軸において「好き」とも「嫌い」とも対立するが、それは対象に時間や手間を割くという関わり自体を否定しているが故のものである。

 関わりの否定は、結果的にその問題を避けるという行動に繋がりそのための理由付けを必要とする。一度も気づいたことない存在に対する「無関心」は純粋なものと言えるだろうが、関わりや関心を抱いたそれに対する「無関心」は意図的な排除なのだ。この意図的な排除は「嫌い」の感覚と比較的似ている。

 だとすると、「嫌い」と「無関心」は同じカテゴリーに加えられるのかと言えば、おそらく「嫌い」にも「無関心」にも二つ存在するのだろう。それは「形式的な排除」と「強烈な排除」である。「好き」なのに「無関心」を装うなどと言うのは子供の頃の定番であるし、「生理的に受け付けない」というのは有無を言わせない「強烈な排除」である。


 さて、今回は「嫌い」の感情を考えるのが目的ではなく、その逆の「好き」という感情が有する効用について考えている。私は今までのエントリで何回か、物事には「幅(広さ)」と「深さ」と「長さ」があることについて書いてきた。これは人間の三次元的な感覚故の認識方法なのかも知れないが、「好き」という感情においても同じ様な分類は可能である。

 一時的に燃え上がる情熱的な恋は、狭く深く、、、そして短いというのが定番ではあるが、もちろん現実にはそれが長く続く人もいるであろう。一時的とは言えある分野に興味を抱いて猛烈に勉強して一流になる人も同じ様なものと言える。飽きて別の分野に移るかどうかは別にして、一時的でも強く願い努力すれば一定のレベルには達するケースも少なくない。強烈な「好き」はそれが一時的なものではあっても人によっては熟練度を上げてくれるが、問題はそれが個人の資質にも大きく依存することであろう。仮に恋愛で考えれば二人の相性と言えなくもない。

 一方で、そこまで強烈ではなくとも長く「好き」であればこれも上手に至る道筋である。最初に継続性について触れたが、一途に好きであり続けること。これこそがまさに歩みは鈍くとも効用を発揮する最も大きな条件だと思うのだ。なぜなら、それは必ずしも個人の資質や相性に影響されないからである。


 もっとも、「好き」で居続けられると言うことはそれこそが心理的な相性を示していると考えれば、燃え上がるようなものでは無くとも大きな満足感を当人に残すのは当たり前なのかも知れない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます