第38話 男らしさ、女らしさ



 性差としての「らしさ」を強調することはめっきり減ってきた。

 というか、「男の娘」だとか男性の女性化が著しい世の中でもある。

 これがジェンダーフリー教育のたまものなのか、それとも社会の成熟の生み出した結果なのかについてはいろいろな意見もあるだろうが、その大部分は社会の安定化がもたらした結果だと考えている。


 社会の成熟が結果としてもたらした安定は、私達に性差を必要としない環境を提供した。

 元々、性差は生物学的な違いに起因してオスが安全をメスが安定を確保するという役割分担がスタートだと思う。それは、厳しい環境を生き抜く上での種の存続をかけたドライで非常な選択だったのではないだろうか。

 逆に言えば、社会が安定すればするほど個体における性差を強く保つ必要性は薄れてくる。安全や安定は個体が確保するのではなく社会が代わりに確保してくれるのだ。


 性差には、おそらく生物学的な性差と文化的な性差が存在する。

 生物学的なそれは、男女の筋肉量や体躯の差、生殖行動や方法の違いなど目で見てもわかる部位が存在するが、男女間の差が個体の差を凌駕しないがためにいろいろと考え方の違いが生じてくる。

 文化的なそれが、「男らしく」あるいは「女らしく」と言われるような性差に関する社会の反応に結びついてくる。

 フェミニズムの見地からすれば、生物学的な差異は個体間の差異を下回る(すなわち、強い女性の方が弱い男性より強い)のであるから生物学的な性差は実際には影響が少なく、文化的なそれが圧倒的である。文化的なそれは人間の取り決めなのだから不当な性差はなくすべきだ。。。なんて話になるのかもしれない。

 ちなみに、私はその論理も尊重すべきだとは思うものの、生物学的な差異はそこまで矮小化できるものだとは思わない。


 文化的なそれ、すなわち社会が性差の存在をことさら強調する必要があるのは、男女間の差別を維持する意味もあるとは思うがそれは副次的なものだと考えている。それよりも、一時的な社会の安定により性差が縮小してしまい突発的な異変の時に種の安定が保てなくなることを畏れての対応ではないかと考えたりしている。


 「男らしさ」とはいざと言うときに戦う存在となるための心構えを叩き込む精神訓だったのであろう。もっとも、強さを誇示するのは生物学的なセックスアピールとも繋がっているとも考えられる。だから、単純に文化的な側面のみで「男らしさ」という概念が成立しているわけではないだろう。同様のことは「女らしさ」にも言える。

 そして、これらは社会倫理とも深く結びつく形で成立してきた。それは、生物学的な性差のみが強調されるのを抑制するという意味も有していたのかもしれない。


 世界的にも小規模な地域紛争はあるものの、第二次世界大戦後の60年以上はかつて無いほど平和が長く続いている時期であるとも言える。日本においてのみ言えば、江戸時代の安定の方が長いのかもしれないが、それでも科学技術などの発達によって自然の脅威からも逃れることができるようになったと言う意味では、生きていくという意味での安定した時期はおそらく今の方が長い。

 その社会的にも安定した平和な期間は、人々の生活に異常事態に対する危機感を遠ざける。そのことを気にしなくても良くなれば、ことさら「男らしさ」を強調する必要性も薄れそのカウンターパートである「女らしさ」も並行して薄まっていく。結果的に文化的に生み出されていた性差は縮小する方向へ向かい、社会もそれを意識しがたくなっていく。


 生物としてのそれが消えるわけではないので、性差そのものが完全になくなるわけではない。ただ、文化的なそれが縮小すれば個体差の方が目立つため、性差をわざわざ強調する社会的意義も低下するのは間違いないであろう。

 それは、言葉やファッションなどに顕著に表れてくるのではないかと私は思う。

 また、文化的な性差はセックスアピールとしてではない性差を保持していたが、それが取り払われたときには生物的なセックスアピールを強調した性差が目立つ可能性もある。だとすれば、フェミニズム運動によって男女の差を無くそうとすればするほど、結果的に露骨なセックスアピールが目立つようになるのかもしれない。それは、どちらかと言えば退廃的にも感じられるのではないだろうか?


 歴史的に、退廃した社会は倒錯した性を例としてあげられることも多い。性差を意識しないような教育を受け個体差が強調されながらも文化的な性差が薄まれば、結果的に本能に近い性が浮き上がってくる。それを倒錯したと捉えるのがよいのかどうかはなかなか難しいものではあるが、少なくとも倫理的な規範からは逸脱する方向に向かうのではないだろうか。


 「男らしさ」や「女らしさ」という言葉は、文化的な側面が強い言葉である。それは、一種の差別(区別)として社会制度的に存在し、同時に無軌道な性の噴出を抑える役割も果たしてきた。ただ、社会の安定が続くことで倫理を保つ必然性が薄れつつあるのかもしれない。


「安定の後には混乱が来るのが世の常である。性差無き社会が混乱にどのように反応できるのか。ある意味で人間を対象とした社会実験と言えるかもしれない。」

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