第399話 《黄金》の決意②

 空には、輝く綺麗な月。

 そこに時折、大きな雲がかかる。

 とても静かな夜だった。

 時刻は、午前二時を少し過ぎた頃か。


 ――ピクリ、と。

 彼女は、重たい瞼を上げた。


「………」


 無言のまま、上半身を起こした。

 肩にかけていたシーツが落ち、大きな胸がゆさりと揺れる。

 ここはベッドの上か……。

 窓に目をやると、月明かりが射しこんでいた。

 どうやら、いつの間にか寝入ってしまったようだ。


「……私、何してるんだろう」


 彼女――サクヤは、深々と嘆息した。

 酷く億劫な気分だった。

 自分なりに覚悟を決めて、この国にやって来たつもりだ。

 しかし、何という体たらくか。

 一歩さえも踏み出せずに、ただ無為に時間だけを費やしていた。


「……私は」


 ギュッと強く拳を固める。

 ずっと、ずっと彼に逢いたかった。

 奇跡のような機会を得て、自分はこの世界に戻ってきた。

 すべては彼に再会するためだ。

 なのに――。

 彼に逢うのが怖かった。


「私は、トウヤを傷つけた」


 静かに唇を噛む。

 あの炎の日。

 あの日から、彼はずっと戦い続けてきた。

 多くの人が死んだ。

 沢山の人を殺した。

 それも全部、彼女のせいだった。


(私は幸せになってはいけない)


 ステラクラウンに戻ってきてから、サクヤはずっとそんなことを考えていた。

 自分は大量殺人者だ。

 自分の意志でなかろうが、その事実は覆せない。

 サクヤのせいで死んだ人間は確かにいるのだ。

 そして、最も不幸になったのは彼だろう。


(私はトウヤに逢ってはいけない)


 心のどこかでそう思う。

 自分がすべきことは贖罪ではないのか。

 こうして再び生を得た以上、自分のやるべきことは――……。


「………」


 サクヤはベッドの上から下りた。

 窓辺に目をやった。ただ、月明かりだけを見つめていた。

 と、その時だった。


「………え?」


 サクヤは目を瞠った。

 突如、月明かりで描かれていた室内の影が大きく歪んだのだ。

 ――ズズズズズズ……。 

 蠢く影。それは床と壁に沿って伸べていき、サクヤの後ろへと移動した。

 サクヤがハッとして振り向くと、そこには大きな影が生まれていた。

 室内中の物の影が一つに集約されたのである。

 しかも、その巨大な影の形はまるで……。


「ま、まさか……」


 蠢く影に、サクヤは再び目を瞠るのだった。



       ◆



「〈……むふっふゥ、むふっふゥ〉」


 深夜の大通り。

 人気のないその場所に、楽しげな声が響いた。

《冥妖星》オルドス=ゾーグの鼻歌である。


「〈雲こそあるが、今宵の月は美しいのである〉」


 酔っ払いさえもいない静かな道を、異界の魔神は上機嫌に歩いていく。

 指先には、小さなメモを摘まんでいた。

 カテリーナから手渡された、彼女の居場所を記したメモだ。


「〈しかし、本当に僥倖であるな〉」


 困り果てたところに、頼りになる同僚がいたこともそうだが、そもそも今回の一件そのものが僥倖だった。


「〈予定よりもずっと早く、小生の花嫁を迎えることが出来るのである〉」


 オルドスは、逸る心を抑えきれないように呟く。

 ――神の子を宿す資格を持つ花嫁。

 実のところ、オルドスの花嫁候補は二人いたのである。


 しかし、何ということか……。

 オルドスが迎えにいく前に一人は死んでしまったのである。


 まさに、痛恨の極みだった。

 もっと早く彼女の存在に気付き、行動しておけば――。

 あの時の無念は、今でも忘れない。

 けれど、近年になって吉報が届いたのだ。

 驚くべきことに、死んだはずのもう一人の候補が復活したというのだ。

 神であるオルドスでさえ、死者蘇生を目の当たりにするのは非常に稀なのだが、どうやらこの情報は真実らしい。


『〈おおおお……〉』


 その一報に、オルドスは歓喜で震えたものだ。

 まるで無くした指輪を、思いがけない場所で見つけたような気分だった。

 オルドスは、すぐさま彼女を迎えに行く決意をした。

 もう一人のまだ幼い候補と違い、彼女ならば、すぐにでもオルドスの精を受け入れられることだろう。その上、彼女の容姿は実に素晴らしい。


 なにしろ、彼女は、たゆんたゆんなのだ。

 もう一人の候補や、シーラも持ち合わせていないモノ。

 ――そう。たゆんたゆんなのである。


 勿論、もう一人の候補も、時機がくれば迎えに行く予定だ。

 だが、今回のところは、目的は彼女の方だった。


「〈さて。ここら辺りであるな〉」


 オルドスはメモを一瞥する。大通りに並ぶ幾つかの店舗。数秒も経たないうちに、オルドスは目的の宿を見つけた。三階建てのそこそこ大きな宿だ。


「〈おお……ここであるか〉」


 オルドスは感嘆の声を上げた。

 が、流石に正面から入るのはまずい。

 オルドスは翼を広げて、開いている上階の窓を探すことにした。


「〈さて。今迎えにいくである〉」


 と、意気揚々に呟いた時だった。

 ――ぞわり、と。

 背筋に悪寒が奔った。


「〈……ッ!?〉」


 オルドスは翼をたたみ、ゆっくりと振り向いた。

 すると、そこには――。


「〈……何者であるか?〉」


 遥か大通りの先。月光を背に小さな人影が見えた。

 恐らく子供程度のサイズの人影だ。

 だが、その威圧感は、異常なレベルだった。

 すると、突如、人影が揺らぎ、巨大な影となって大通りに連なる建屋へと移動した。

 影はゆっくりと姿を変える。そうして数秒後には形が整う。

 大通りと左右の建屋に映り込む、三つの巨大な影。

 それは、誰もが知る有名なシルエットだった。


「〈……これは驚いたのである。そなたは……〉」


 と、オルドスが呟いた時、


「……ワレコソ、キキタイゾ」


 建屋に映り込んだ、アギトを持つ巨大な影が語り出す。


「……ココ二、何ノヨウダ。異界ノ魔神ヨ」


「〈……いや、なに〉」


 オルドスは肩を竦めて答える。


「〈小生の花嫁を迎えに来ただけである〉」


「……花嫁、ダト?」


 影はおもむろに宿を一瞥した。


「……ココ二、ウヌノ花嫁ナド、オラヌ」


「〈それは、小生自身の目で確認するのである〉」


 オルドスは影に向かって言い放つ。


「〈魔王の中の魔王。かの神殺しの怪物が、何のつもりなのかは知らないであるが、人の恋路は邪魔するものではないのである〉」


「……フン」


 影は双眸を細めた。


「……ワレガ、何者カヲ知ッテ、ナオ、吠エルカ」


「〈当然である〉」


 オルドスは三つの巨影の支点となる小さな人影に目をやった。


「〈そなたは万全ではないのであろう? その姿で何が出来るのである? 無理をして虚勢を張っているようにしか見えないのである〉」


「……放浪ノ神ゴトキガ、言ッテクレル」


 影はアギトを大きく開いた。

 途端、影からの圧力が一気に増した。


「……ナラバ、タメシテミルカ?」


 世界すら灼き尽くすような圧が、オルドス一柱ひとりのみに注がれる。

 オルドスは無言だった。

 そうしてそのまま十秒、二十秒と経ち……。


「〈……分かったのである〉」


 オルドスはシルクハットを脱いで、頭を垂れた。


「〈侮辱したことを詫びるのである。今宵はそなたの顔を立てて小生は去ろう〉」


「…………」


 影は何も答えない。

 オルドスはそれを承諾と受け取って、翼を広げた。


「〈しかし、小生は花嫁を諦めた訳ではないのである〉」


 バサリッと宙に浮かぶ。


「〈日を改めて迎えに来るのである〉」


「……フン。好キニシロ」


 影は鼻を鳴らした。


「……ソノ時ハ、ワレデハナク、奴ガ、ウヌノ前ニタツダロウ」


「〈……奴?〉」


 オルドスは円筒を揺らした。


「……ハヤク、失セロ。今宵ハ、乙女ノ決意ト、安ラギノタメノ夜ダ」


「〈……? よく分からないのであるが、まあ、いいのである〉」


 オルドスは、さらに飛翔した。

 その影はどんどん小さくなって、空の彼方へと消えていった。

 それを見届けると同時に三つの巨影は小さな人影に収束されていく。

 そして――。


「……サテ」


 がしゅんっと、奇妙な足音を立てて人影は歩き出す。

 ただ、その人影は一度だけ止まって。


「……今宵ハ、ユックリ眠レ。乙女ヨ」


 言って、小さな人影は走り出し、深夜の街に消えていった。

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