第357話 迷い猫②
「やはりここはいい国ですねェ」
と、まるで好々爺のような台詞が、ポツリと零れる。
そこは、市街区の一角だった。
時刻は四時を過ぎた頃。天気も晴天だ。
そんな中、キラリと陽光を反射する頭部を持つ中年が大通りを歩いていた。
糸のような細い目に、温和な顔立ち。猫背のため、少し背も低く見える全身を、派手な柄シャツとハーフパンツで固めた四十代の中年だ。
明らかに観光目的の人物。
ただ、そんな凡庸な彼に豪華さを添えるのは――。
「ええ。そうですわね。ボルドさま」
隣を歩く美女だった。
年齢は二十代半ばか。赤縁眼鏡に、頭頂部で団子状に纏めた亜麻色の髪。体格はスレンダーではあるが、母性の象徴たるモノが消極的な訳ではない。
少なくとも、通行人の中で数人の男達は必ず彼女を一度は見やる。
情熱性を表すような赤いビロードのような上着もあって、彼女は注目を集めていた。
――ボルド=グレッグと、カテリーナ=ハリスの二人である。
カテリーナは当然のように、ボルドと腕を組んでいた。
そんな何とも羨ましい光景に、男どもは露骨に舌打ちする。
その度に、ボルドは頬を引きつらせていた。
知的美女と、不釣り合いな中年男。
不倫旅行という単語が、もはや反射的に思い浮かぶ二人だった。
「しばらく滞在したいぐらいですわ」
「まあ、そうですね。ですが、カテリーナさん」
ボルドは、自分の腕を掴んで離さない美女に目をやった。
次いで、とても困った表情を浮かべる。
「その、やはり腕を離してくれないでしょうか? 私との身長差だとあなたも歩きにくいでしょうし、偽装にしても返って注目を集めているような……」
と、告げる。
(本当に、困った子です)
内心でそう思う。
この国に限らず、カテリーナは偽装する時はやたらとこだわりを見せる。
終始徹底して偽装を続けるのだ。
(まあ、それはいいのですが……)
困るのはその偽装についてだ。
何故か、彼女はボルドとの恋人や夫婦を好むのである。
しかも、その偽装がもう完璧すぎて、部下達には、カテリーナは本当にボルドの愛人であると誤解まで受ける始末だ。ボルドの最近の悩みの一つである。
今回の慰安旅行も、本当はボルドだけが参加するつもりだったのだが、敏腕秘書殿はあっさり旅行の情報を入手。こうやって付いてきたのである。
(まったく。この子は)
まるで娘を気遣う父の顔で、ボルドは嘆息した。
しかし、親の心、娘知らずか、
「いえ。むしろ印象付けることが重要なのです。ボルドさま」
そう言って、より強く抱き着いてくる。やや小ぶりであっても、確かに存在感がある胸まで押し付けてくる有様である。その上、
「それよりもボルドさま。この国に滞在する間の宿なのですが、実は他の支部長さまとは別の宿をご用意しました」
「……え?」ボルドは目を丸くする。「いや、何故ですか? 別にラゴウやボーダー支部長達と一緒でよいでしょう?」
「何をおっしゃいますか。そんな迂闊な。ボルドさまらしくもない」
カテリーナは、表向きは呆れたように告げる。
「拠点の拡散は戦術の基本ではありませんか。ましてや支部長クラスの集まり。すでにリノお嬢さまも拠点を移して行動されておりますよ」
「いえ。姫はそもそも別行動をすると言っていましたし、ラゴウやボーダー支部長は別に拠点を変えていないのでは?」
今回は別に任務ではない。プライベートの旅行だ。
そこまで徹底する必要はないと思うのだが……。
「ダメです」カテリーナは聞いてくれない。「偽装は徹底しなければなりません」
カテリーナは片手で眼鏡を上げて続ける。
「勿論、予約した宿は一部屋です。申し訳ありませんが、今回もまた、私と同室であることはご容赦ください」
「……カテリーナさん」
ボルドは深く嘆息した。流石にこれはそろそろ注意すべきだろう。
ボルドは珍しく細い目を開いて、カテリーナを見据えた。
「……ボ、ボルドさま?」
いつにない上司の様子にカテリーナも少し緊張する。反射的に手も離した。
ボルドは足を止めて語り始める。
「あなたの仕事に対する徹底ぶりは素晴らしいと思います。ですが、何度も言いますが少しは自分の身の危険も配慮しなさい」
「え、えっと、それは……」
カテリーナは眉根を寄せた。ボルドは再び嘆息する。
「枯れ果てた無害な男に見えても、私も男には変わりないのですよ」
「い、いえ、その、ボルドさま?」
困惑するカテリーナに、ボルドはふっと笑った。
「確かに私には似合わない台詞でしょう。見た目は完全にしょぼれくれたおっさんですからね。あなたが困惑するもの当然です。ですが、私も結局、《九妖星》の一人なのです。根本的にはガレックと変わらないのですよ」
そこで少し苦笑を浮かべた。
「《九妖星》は結局のところ、戦闘狂ばかり。私もガレックにあまり偉そうなことは言えないんですよ。特に荒ぶる闘志を宥めるためには色々としていましたし」
少し遠い目をしてから、ボルドは自分の薄い頭をかいた。
「恥ずかしながら若き日の私は、まるで獣のような男でした。それはもう酷いあだ名まで付けられていたんですよ」
そこで苦笑する。
「自分でも抑えきれない獣性を鎮めるため、乱暴に扱った女性も多くいます。今でこそお前も随分と丸くなったな、と社長やボーダー支部長には言われますが、根っこのところではまだ恐ろしい
一拍の間。
ボルドは、そろそろ定位置に戻ってしまそうな細い目をこじ開けて告げる。
「カテリーナさんには、もっと私を警戒して欲しいのです。カテリーナさんはとても魅力的ですからね。いつ私の中の
そうして、自分の額に手を当てて震えた。
カテリーナは一瞬茫然としたが、
「………ぷぷ」
失礼だと思いつつも、思わず笑ってしまった。
ボルドは、絶望的な表情を見せた。
「……カテリーナさん」
「も、申し訳ありません。ボルドさま。で、ですが……ぷぷ」
口元を片手で押さえて、肩まで震わすカテリーナ。
ボルドは、少し泣いてしまいそうな気分になった。
「その、今のは本当の話なんですからね。だから、部屋は別室で……」
「はい。分かりましたわ。次からは別室にしますから」
「いえ。今日からにして欲しいのですが……」
「残念ながら、今日は無理ですわ。意外と旅行者が多いのですよ、この国は。部屋も満席だったようですし」
と、カテリーナが告げる。ボルドは深々と溜息をついた。
「仕方がありませんね……。ですが、本当に警戒してくださいね」
「はい。分かりましたわ。ボルドさま」
そう言って、カテリーナは再びボルドの腕を掴んだ。
全く変わらない対応に、ボルドは盛大な溜息をついた。
「それより今は目的を果たしましょう。ボルドさま」
「……そうですね」
カテリーナに指摘され、とりあえずボルドは思考を切り替えた。
そして告げる。
「では、クラインさんへの菓子折りを選びに行きましょうか」
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