第二章 悩める者たち
第353話 悩める者たち①
アッシュの部屋は、実にシンプルだ。
物としては机に椅子一つ。少し大きめのベッドぐらいしかない。
特徴といえば、壁の一角に注文書を張り付けているぐらいか。
工具の類も一階の
(さて、と)
アッシュはユーリィを抱きかかえたまま、ベッドの縁に座った。
そしてすぐには話しかけず、しばらくは彼女の頭を撫で続けていた。
すると、
「…………」
不意にユーリィがアッシュの首から手を離し、顔を上げた。
「……少し落ち着いたか? ユーリィ」
アッシュが彼女を見つめて尋ねてみる。と、
「……うん」
ユーリィは、こくんと頷いた。
けれど、愛娘の翡翠色の瞳は少し潤んでいた。
やはりまだ精神状態が不安定なように見える。アッシュは、ユーリィの頭を再び撫でることにした。すると、ユーリィは数秒もせずにギュッと抱き着いてきた。
(う~ん、こりゃあ、大分ヘコんでいるな)
アッシュは、内心で嘆息する。
そして撫でるのを一旦止めて、小さな背中に手を回してグッと抱きしめる。
ユーリィは、さらに強くしがみついてきた。
ここ数日、ユーリィは、ずっとこの様子だった。
切っ掛けなら分かる。きっと弟だ。
ユーリィは、アッシュの弟と会ってから様子がおかしくなった。
だが、要因が分からない。
兄である自分が言うのは何だが、弟は優しく真面目な性格だ。
好意を抱かれても、嫌悪を抱かれるとは思えない。
(人見知りって訳でもないよな)
八歳ぐらいの時はそれもあったが、ユーリィはもうじき十五になる。
今更ここまで酷い人見知りはないと思う。
疑問を抱きつつ、抱擁は続いた。
すると、
「……アッシュ」
ユーリィが不意に呟いた。
「……なんかヤだ」
「……抱っこが、か?」
アッシュがそう尋ねると、ユーリィは首を振って、よりしがみついてきた。
離して欲しくないという意志が、高い体温と共に伝わってくる。
アッシュは小さく嘆息した。
「……ユーリィ」
そして、ユーリィの頭を撫でて尋ねる。
「……不安なのか?」
ユーリィは、こくんと頷く。
「コウタは、悪い奴なんかじゃないぞ」
そう告げると、ユーリィは再び首を縦に動かした。
どうも嫌っている訳ではないらしい。
(参ったな)
こうなってくると、アッシュの手には負えない。
仮に、アッシュがユーリィと弟の仲を取り持とうとしても逆効果だろう。
ここは、アッシュ以外でユーリィと弟との仲を取り持ってくれる者が必要だった。
頼れるとしては、やはり女性陣か。
真っ先に思いつくのはオトハだが、彼女はコウタとはまだ親交が浅い。出来ることならコウタを知り、ユーリィとも親しい女性が望ましかった。
(となると、ミランシャかシャルだな。けど、二人はユーリィと歳が離れているし、あんま年上に仲を取り持ってもらっても上手く行かねえか……。なら)
そこで思い浮かぶのは、ユーリィの同い年の少女。
温和な性格の王女さまだ。
(ルカ嬢ちゃんなら、上手く取り持ってくれるかもな。なんかポヤポヤして、気付けば何となく成功させているような気がするし)
アッシュは、決めた。頭を撫でるのを止めて、彼女の両肩を掴む。
「なあ、ユーリィ」
「……なに」
ユーリィは顔を上げた。かなり長い間抱きしめ続けていたので結構暑かったのか、首元の肌や、頬が少し火照り始めているように見える。
「今日はもう仕事はいいから。これからルカ嬢ちゃんの所に遊びに行って来いよ」
「……ルカの所?」
そう反芻してから、ユーリィは、いやいやと首を振った。
「……アッシュの傍がいい」
そう告げる。アッシュは「う~ん」と呻きつつも、
「けど、少し気分転換した方がいいぞ。些細なことでもいいからルカ嬢ちゃんと話した方がいい。ジェイク達が帰る頃に一緒に行ってこいよ。帰りは俺が迎えに行くから」
どうにか説得しようとする。
と、ユーリィは少し泣きそうな顔になった。
「い、いや、ユーリィ!」
アッシュは、慌ててユーリィの頭を撫でた。
彼女は目尻に涙を溜めていた。そして、
「ダメなの? アッシュの傍にいたらダメなの?」
そんなことを言い出す始末だ。
「いや、そんな訳ないだろ」
アッシュはユーリィを抱きしめた。
彼女も、ギュッとアッシュの背中を掴んでくる。
「俺にとって、ユーリィがどれだけ大切かなんて言うまでもねえだろ? ちょっと気分転換に遊びに行ったらいいって話だよ。これは俺のお願いだ」
アッシュはそうお願いする。ユーリィは一瞬、ビクッと震えた。
彼女が葛藤しているのが分かる。しばし沈黙が続いた。
そして――。
「……分かった。一度ルカと話してみる」
「っ! そっか!」
アッシュは、ユーリィの肩を掴んで離した。
ユーリィの瞳にはまだ涙が滲んでいたが、ともあれ、良い方向に考えてくれたようだ。
ただし、「けど」と条件をつけてきた。
「本当は嫌。だから、今夜は一緒に寝て欲しい」
(……ぐ)
アッシュは息を詰まらせた。
愛娘の願い。ただ、甘えているだけの声。
ユーリィが八、九歳の頃には、稀に頼まれていたお願いだ。
しかし、ユーリィはもうじき十五歳。
流石に十五の娘と同衾するのは、社会的に死んでしまう行為だ。
だが、ここで拒絶すると、ユーリィはもう応えてくれないだろうし、何より泣き出すのは火を見るより明らかだった。
(……ぐぐぐ)
アッシュは内心で呻く。
こればかりは仕方がないのか。
「……分かったよ」
アッシュは、渋々ながらも承諾した。
すると、ユーリィは何も言わず、アッシュの首元に抱き着いた。
とりあえず、交渉は成功したようだ。
(……やれやれ。どうにか行く気にはなってもらえたか)
アッシュは、内心で嘆息する。
(ルカ嬢ちゃんには、アイリ嬢ちゃんかジェイクを通じて頼んでおかないとな。正直、俺の手には負えねえし。頼んだぞ。ルカ嬢ちゃん)
思えば、ここまで真剣に彼女に願ったのは初めてのことか。
ほんわか王女さまの手腕に期待するアッシュだった。
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