第330話 藍色の訪問、紫紺色の夜③

 クライン工房の作業場ガレージ

 アッシュは、完全武装した愛機の前で佇んでいた。

 沈黙が続く。


「なあ、相棒」


 アッシュは《朱天》に語る。


「俺って、本当にダメな兄貴だよな」


 ――何も、気付けなかった。

 あの炎の日を、まさか、弟も生き延びていたとは……。

 真っ先に救うべき家族だというに、今日まで生存を知ることさえなかった。

 弟は、ずっと自分の生存を気にかけてくれていたというのに、だ。


「……明日か」


 アッシュは、白く変わり果てた自分の前髪を押さえた。


「一体、どんな顔をすりゃあいいんだよ」


 思わず本音を零してしまう。と、


「……ここにいたのか」


 不意に、声を掛けられる。

 振り向くと、そこには大きな胸を支えるように腕を組むオトハの姿があった。


「……オト、か」


「覇気がまるでないな」


 オトハは呆れるように告げる。


「流石に、今回ばかりはな……」


 アッシュは自嘲気味に口角を崩した。


「自分を思いっきりブン殴ってやりたい気分だ」


 そんなことを言うアッシュに、オトハは小さく嘆息した。

 そして、コツコツと足音を立てて近付くと、


「しっかりしろ、クライン」


 アッシュの瞳を、真っ直ぐ見据えた。


「明日は弟に会うのだろう。兄が困惑した表情を見せてどうする」


「……オト」


 アッシュは、オトハを見つめた。


「動揺する気持ちは分かるがお前は兄なんだぞ。そんな顔をするな。困惑しているのなら今夜中に吐き出せ。私が幾らでも付き合ってやる。そして笑顔で明日を迎えろ」


 そう言って、オトハは二カッと笑った。

 まるで、真似をしろと言わんばかりの笑顔だ。

 アッシュは「ははっ」と口元を崩して目を細めた。

 オトハは、昔からこうだった。

 アッシュが精神的に落ち込んだ時こそ、彼女は必ず傍で笑ってくれていた。


(………オト)


 ――改めて、理解する。

 本当に。本当に彼女がどれほど大切な存在なのか。

 それを強く感じた時、アッシュは自然と手を彼女の方へと伸ばしていた。


「……む」


 すると、オトハは少しだけムッとした表情を見せた。


「お前、また私を子供扱いする気か?」


 きっと、いつものように頭を撫でられると思ったのだろう。

 オトハは、とても不機嫌そうに眉根を寄せていた。

 だが、そんな表情も

 どうしようもなく。

 だから、アッシュの手は、オトハの頬に触れていた。


「……? クライン?」


 いつもと違う様子にオトハは少し眉をひそめた。

 ――が、次の瞬間、大きく目を見開くことになる。


「っ!?」


 不意に。

 本当に不意打ちで――。


 気付けば、アッシュに唇を奪われていた。

 オトハは、そのまま硬直して、ただただ唖然とした。

 口付けは、数秒ほど続いた。

 そして――。


「――ッ!?」


 愕然とした表情を浮かべたのは、むしろアッシュの方だった。


「わ、悪りいっ!」


 次いで慌てた様子でオトハから離れる。


「その、マジで悪りい! 空気に流された! こんなつもりはなかったんだが……」


 アッシュは、彼らしくもなく言い訳を始めた。

 まるで、自分の行動が分からないといった面持ちだ。

 そんなアッシュを、オトハはまじまじと見つめていたが……。


「……まったく。ようやくしてくれたと思えば潔くない」


 若干頬を赤く染めつつも、ふうと嘆息する。

 対し、酷く困惑するのはアッシュの方である。


「いや、その、怒らねえのか? こんなセクハラされて」


 この後に及んでまだそんな台詞を宣う男に、オトハも流石にムッとした。


「あのな、クライン」


 そして彼女は、遂にその言葉を告げることにした。


「私はお前のことが好きなんだ。無論、異性としてな」


「…………は?」


 世紀の鈍感王は、目を丸くした。


「だから、正直言って今は嬉しい。途轍もなく嬉しい。叫びたいほどに」


「そ、そうなのか?」


 アッシュはさらに困惑する。

 一方、オトハは徐々に耳を赤くしていくが、表情だけは平然としていた。


「お前がそういう行動に出たのは、お前も私に好意を抱いているからだろう? いや、もうまどろっこしいな。はっきり言うぞクライン」


 オトハは腰に両手を。

 そして前屈みに豊かな胸をたゆんっと揺らして告げる。


「お前は私を自分の女にするのだろう? まったく。いつまで待たせる気だ」


「……………は?」


 アッシュは呆然とした。

 が、数秒もかけずにオトハの台詞の意図に気付く。


「――オト!? お前、まさかあのおっさんとの会話を聞いてたのか!?」


「当然だ」


 オトハは顔を赤くしつつも言う。


「何年の付き合いだと思っているのだ。お前の考えぐらい読める。あの日、お前があの男にこっそり会いに行くのも当然な」


「……うわあ」


 アッシュは、自分の額を右手で打った。


「じゃあ、あの夜、俺が口走った台詞をお前は全部聞いてた訳か?」


「うむ。お前の後をつけてな。流石に小っ恥ずかしかったぞ」


 言って、オトハは視線を横に逸らして、胸を支えるように両腕を組んだ。

 恥ずかしかったの台詞が示す通り、彼女の耳は真っ赤だった。

 一方、アッシュは深々と嘆息していた。


「そんで、それを今までずっと黙っていたのかよ」


「こんなこと言える訳ないだろ。当然、エマリアやフラム達にも言っていない。恥ずかしさで死ねるからな」


 と、オトハは言うが、不意に表情を真剣なものに変えてアッシュを見つめた。


「だがなクライン。いま私はありったけの勇気を出している。だから聞くぞ」


 そして、彼女は改めて尋ねる。


「お前は私をどう思っている? 私をどうしたいんだ?」


 一瞬の沈黙。

 アッシュはオトハを見つめた。

 普段は気丈な彼女が、今は不安な眼差しを見せていた。


(……オト)


 アッシュはさらに沈黙する。

 その短くも長い間、オトハはずっと不安を隠せずにいた。


「……そんなの、決まってんだろ」


 そして、アッシュは自分の想いを告げた。

 もう誤魔化すことも出来ない、自分の強い想いを。


「あの夜に宣言した通りだよ。お前は他の誰にも渡さねえ。どんな野郎にも譲らねえ。オトハ。お前は今日から俺の女だ」


 亡き少女への想いは、今も消えていない。

 けれど、彼女を奪われたくないという想いもまた真実だった。

 だからこそ――。

 アッシュは決意すると、オトハの腰を強く抱き寄せた。

 オトハは、瞳を見開いていた。


「ク、クライン――……んっ」


 そして再び、オトハの唇を奪う。

 今度は衝動任せなどではない。明確な意志を以て彼女を奪う。

 オトハは驚いた表情を見せたが、おずおずとアッシュの背中に手を回した。

 一度目よりも、ずっと長い口付け。

 工房内に静寂が訪れる。

 そうして、ややあって二人は唇を離した。


「…………」


 オトハは少しの間呆けていたが、しばらくすると、幸せの余韻に浸るように自分の唇にそっと指先を置いていた。

 すると、アッシュはふうと息を吐き、


「……なあ、オト」


 少しだけ申し訳なさそうに告げる。


「今夜はユーリィもいねえ。悪りいが、今日はまで行ってもいいか?」


「………えっ」


 オトハは一瞬キョトンとしたが、すぐに言葉の意味を理解する。


「い、いや、それは……」


 流石に困惑した表情を見せるが、


「あえて我が儘を言うぞ。俺はお前のすべてが欲しい。だから今夜お前を抱くぞ」


 続く、アッシュの台詞が胸を強く打った。

 それでも数瞬ほど躊躇うが、遂には、こくんと頷く。

 アッシュは、そんな彼女の横髪を優しく撫でた。


「マジで悪い。コウタの件もあって俺も大分テンパってるみたいだ。大切なモンをここで強く実感しときたいんだよ。まあ、これって本当に我が儘だよな……」


 少し自嘲気味なアッシュの様子に、オトハは苦笑を零した。


「確かにな。それにデリカシーもない。いきなり抱くとはなんだ。そもそも」


 そこで、オトハの声はとても小さくなった。


「大切さの再確認なら、お前は今夜中に私だけじゃなくて、あいつらも全員抱くことになるじゃないか」


「……ん? オト? 何か言ったか?」


「い、いや! 何でもない! とにかく今夜は私のターンなんだ! 絶対に譲らないからな! 何年も待ったのだから、私が一番先でもいいだろ!」


「??? いや、マジで何言ってんだ? まあいいが、それでさ」


 一拍おいて、アッシュは少し気まずげな表情を浮かべる。


「お前に一つだけ言っておきたいことがあるんだ」


「な、何だ、クライン?」


 少し落ち着きを取り戻してオトハが問うと、


「お前って、身持ちも固いし、その……多分初めてだろ?」


「………は?」


 オトハは目を丸くした。


「実はな。村を出て以来なんだよ。女を抱くのは。しかもお前で二人目なんだ。傭兵時代には仲間に娼館とか誘われたこともあんだが、サクのことや、まあ、ユーリィの教育にも悪い気がして結局行くこともなくてな。だから、そのな……」


 と、珍しく言い淀むアッシュ。

 オトハはしばし唖然としていたが、おもむろにクスクスと笑い出した。


「……何だ。そんなことか。確かに私は初めてだ。まあ、私も女だから初めては優しくして欲しいとか願望はあったが些細なことだ。気にするな」


 世の中には、初めて同士の恋人達も大勢いる。

 経験不足で多少不器用であっても、心から愛してくれるのなら問題ない。

 オトハはそう思った。すると、アッシュは「……ん。そっか」と笑う。


「お前が思っている以上に、俺にとってお前は大切で愛しいんだよ。ましてや、あのおっさんなんぞには絶対に渡してたまるか」


「そ、そうか……」


「そんな気持ちもあっから、今夜は、きっと全然歯止めが利かなくなると思って確認したんだが、オトも覚悟してくれてたんだな」


 一拍の間。


「…………え?」


 オトハはキョトンする。


「オトは初めてだし、少しぐらいは加減できりゃあいいんだが、ガチで十年近いブランクもあるからな。あんま自信もねえな」


「え? え? クライン? お前、何を?」


「……まあ、こういうことだ」


 言って、困惑しているオトハを強く抱き寄せて、再び唇を奪う。


「っ!?」


 オトハは、大きく目を見開いた。 

 先程とはまるで違う。舌まで絡みついてきて深い。


「ん、んん……っ!」


 驚いて反射的に身を捻るが、力強い腕が離してくれない。

 初めて味わう経験に混乱してさらに暴れるオトハだったが、アッシュとて男だ。

 手に入れると決意した以上、強引にも貪欲にもなる。


「ん~~~~~~~っ」


 さらに、攻勢に出る。

 オトハはもう、アッシュの服にしがみつくだけだった。

 十数秒後、息継ぎのために唇を離す。同時に、しゅるりとオトハの眼帯スカーフが落ちた。

 彼女の銀色の右瞳が露わになる。

 アッシュは微笑んだ。


「やっぱ、オトの瞳って綺麗だよな」


「う、うるしゃい、馬鹿……」


 恍惚とした眼差しで、オトハは言う。

 アッシュは彼女の前髪をかき上げてから、もう一度深くキスをした。

 オトハは「……ん」と呻く。

 明らかに緊張していることは変わらないが、もう暴れたりはしなかった。

 そうしてたっぷり数十秒。

 生涯で二人目となる、愛する女の唇を充分に堪能した後、


「じゃあ、そろそろ俺の部屋に行こうぜ」


「……………え?」


 呆けた様子で瞳を瞬かせるオトハ。

 アッシュはそんな彼女を抱き上げた。お姫さま抱っこではない。もう逃がす気はないと言わんばかりの肩に担いだ姿勢だ。そして、未だ呆けている様子のオトハを文字通りお持ち帰りして、アッシュは二階へと上がっていくのであった。


 こうして長年に渡る一つの想いは、遂に成就されたのである。

 後ほど、「ずるい!」「卑怯!」「順位は先着順じゃないですからね!」とか、散々言われることになるのだが、オトハにとって決して忘れられない夜だった。

 彼女のこれまでの人生において、この夜ほど誰かに甘えた日はないだろう。

 ただ、それは、とても幸せでありつつも――。

 アッシュから鈍感を取ると、とんでもなく貪欲になる。

 そのことを、まさしく身を以て実感することにもなるのだが。


「ク、クライン。その、本当に今夜するのか?」


「もちろんだ。もうお前を手放す気はねえから覚悟しろ。あ、それとオト。今夜は多分夜通しになると思うぞ」


「――えっ?」


 かくして、紫紺色の夜は更けていったのである。

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