幕間二 男達の聖戦アフター

第270話 男達の聖戦アフター

 月明かりが差し込む林の中。

 ザッザッと草ズレの音を響かせながら、男達一行は黙々と進んでいた。

 険しい道ではないが、向かう先が丘なので少し傾斜している。奥に行くほど木々の感覚が狭まっており、徐々に林から森へと変化していた。


「ゴドーさん。この先に本当に……?」


 そんな中、一行の一人であるエドワードが神妙な声で尋ねた。


「ああ、そうだ」


 先導するゴドーが答える。


「この先には元々公園のような高台があったのだ。ただ長らく放置されていたため、今は木々に覆われている。観光スポットとして使い物にならん場所だな。しかし、ホテルの敷地内では一番高い位置にあってな、そこに生えている木に登り――」


 ゴドーは懐から小さな双眼鏡を出した。


「これを使えば露天風呂が丸見えなのだ。くくくっ、驕ったなホテルの経営者め。木々に埋もれた程度でこの高台を見落とすとはな」


「いや、それに気付く方がどうかと思いますが……」


 と、一行の最後の一人――ロックが言う。


「ふふっ、いかんぞ、ロック少年」それに対し、ゴドーはカウボーイハットのツバを上げてニヒルに笑う。「もっと視野を広く持て。思い込んではならん。可能性とはどこにでも落ちているものなのだから」


 と、意外と神学者らしい台詞を吐く。

 エドワードは「勉強になります! ゴドーさん!」と心服し、ロックは「は、はあ……」と気のない返事をしていた。


 ともあれ、三人は順調に進んでいた――はずだった。

 その愕然とする光景を目の当たりにするまでは。


「し、師匠!?」「ど、どうしてここに!?」


 エドワードとロックが、悲鳴じみた声を上げた。

 ――そう。木の幹に背中を預けてアッシュが三人を待ち構えていたのだ。


「……白髪小僧。何故貴様がここにいる?」


 ゴドーが怨敵を見る眼差しでアッシュを睨みつける。

 するとアッシュは「……はぁ」と溜息を一つ零し、


「こう言っちゃあ、もう身も蓋もないような気もするが、お前らって本っ当に分かりやすいよな。絶対覗きに来ると思ったぞ」


 と、告げた後、大きな身体をおどおどさせるロックに目をやり、


「……だがロック。お前まで……」


「いや、す、すみません師匠! 魔が差しました!」


 と、土下座しそうな勢いのロックだったが、


「ええい! 恥じるでない! ロック少年よ!」


 そこでゴドーが檄を飛ばした。


「そもそもこの場を知っていると言うことはこの男も覗きに来たのだ! 所詮はこの男も俺のオトハを狙う同じ穴のムジナよ!」


「えっ? そ、そうなんすか! 師匠!」


 と、エドワードが驚いた顔をするが、アッシュは疲れ切った溜息を吐き、


「そんな訳あるか。あそこにはユーリィもいるんだぞ」


 そしてパチンと指を鳴らす。

 すると、上空から銀色の小鳥が舞い降りてきて低空で旋回し始めた。


「……ワレ! セイイキノ、シュゴシャ、ナリ!」


 そんな台詞を吐く小鳥はオルタナだった。

 アッシュはふっと笑ってオルタナに目をやった。


「オルタナがずっとお前らを監視してたんだよ。そんでお前らの行動と周辺の位置からこの場所を特定したんだ。勿論、犯罪を止めるためにな」


 言って、ボキボキと拳を鳴らす。

「……ぬ、ぬう」とさしものゴドーも窮地に呻き、ロックは蒼白になった。もはや土下座しかないと流れるような動きで両手を地面につこうとしている。

 が、エドワードだけは違った。


「――お願いだ。邪魔しないでくれ! 師匠!」


 右腕を大きく横に薙いで、アッシュに懇願し始めたのだ。


「ユーリィさんを守りたいって師匠の気持ちは分かるよ。けどあんたも男だろ! なら俺の気持ちも分かるはずだ!」


「………………」


 エドワードの台詞に、アッシュが無言で腕を組む。

 一方、エドワードは声を張り上げた。


「覗きは男の浪漫。男の本能だ! あんたにないとは言わせねえぞ!」


「お、おい、エド……」


 と、ロックが青ざめた声で名を呼ぶが、エドワードは答えない。

 真っ直ぐアッシュだけを見据えていた。するとアッシュは、


「……そうだな。確かに俺も昔、今のお前らよりも二つぐらい下の時だったかな? 村のダチと一緒に女湯を覗きに行こうとしたことがあるよ」


 あまりにも意外な告白をした。

「――ほう! なんと、貴様がか!」その台詞にゴドーが瞠目し、ロックが「ええ!? それって本当なんですか、師匠!」と心底驚いていた。

 生真面目な性格のアッシュからは考えられない行動だったからだ。

 しかし、アッシュは特にもったいぶる様子もなく、あっさりとオチを言った。


「けど結局、俺はダチ連中を丸ごとぶちのめして妨害したな」


「あんたそんな頃から真面目なのかよ!」


 憤りをぶつけるようにエドワードが叫ぶ。と、アッシュは少しだけ気まずげそうに頬をポリポリとかき、


「いや、最初の頃は俺も結構悪ノリしてたんだよ。みんなでアホな事を計画すんのも楽しかったしな。けど、実はその女湯には俺の彼女もいてな。そんでふと気付いたんだよ。なんでサク――俺の彼女の裸を他の野郎どもに見せなきゃならねえんだって」


「――あっ、そ、そっか。これって、そういう結果になるのか……」


 そこまで聞いてロックが呻く。

 アッシュに指摘されて、ようやく当たり前のことに気付いたのだ。

 ここで覗きに行けば、アリシアの裸をエドワード達にも見られるということに。


「なっ? それって嫌だろ?」


 と、アッシュが正論を言う。

 ロックは苦悩の表情を見せて「ううゥ、そ、それは確かに」と後悔し始めた。

 しかし、そんな激しく後悔するロックとは対照的に、エドワードの方は仏頂面を浮かべていた。少しだけ神妙さも混在したような不思議な面持ちだ。


「……? どうしたエロ僧?」


 怪訝そうに片眉を上げてアッシュがそう尋ねるが、エドワードはすぐには何の返答もしなかった。ただ、数秒間だけ考え込む仕草を見せた後、


「……なあ、師匠」


 一つ尋ねてきた。


「師匠は当時その彼女とどこまでいってたんだ? 裸を見るようなエロティックレベルの関係だったのか?」


「……お前、もの凄い直球で訊いてきたな」


「いいから答えてくれよ。凄く重要なことなんだ」


 エドワードの表情は真剣そのものだ。

 アッシュは少し考えてから、


「あんまはっきり言うのも何だからな。一応YESとだけ答えとくよ」


 あえて具体例は避けて事実だけを教えた。こう言っては誤解を招きそうだが、小さな村の人間は結構早熟なのである。アッシュも多分に漏れなかった。

 しばし林の中が静寂に包まれ、アッシュは困ったような表情で頬をかいた。

 すると、


「……そうかよ」


 不意にエドワードが眉間に深いしわを刻み、奥歯をギリと軋ませた。


「だったら、師匠は俺とは違う!」


 エドワードは血を吐くような声で、真っ直ぐすぎる本音を語り始めた。


「つうか、俺らよりも年下だった頃からエロいことを許してくれる彼女がいたって何なんだよ! ちくしょう! ちょくしょおお――ッ!! 俺にはユーリィさんの裸を見れる機会なんて一生ないかもしれないんだぞ! どんなに頑張っても無理な可能性の方が高いんだよ! 師匠とは違うんだ! 全然違うんだよ! そんなら俺は――」


 そして、エドワードは声を張り上げて叫ぶ!





「絶対にッ! この千載一遇のチャンスに、何としてでもユーリィさんの裸を目に焼き付けておきたいんだよォ――ッ!!」




 

 ……林の中が、シンとした。

 一秒、二秒と無言の時間が経過する。と、ようやく、まずゴドーが動き出し、「うむ。見事な啖呵だ。エドワード少年」と愛弟子の成長を見届ける師の顔をした。次いでロックがあまりにも深い絶望に言葉もなく、自分の顔を右手で覆った。


 そして、最後の一人であるアッシュは――。


「…………ん。そっか」


 まるで死んだ魚のような目――もしくは死んだ魚を見るような目で、エドワードを見据えていた。顔からは完全に感情が消えている。


「まあ、いいさ。お前の覚悟は分かったよ。エロ小僧」


 アッシュは片手を首に当て、ゴキンと鳴らした。


「とりあえず――塵になっておけ」


 そう宣告した途端、アッシュの全身から噴き出す強烈かつ凶悪な殺気。

 まるで世界を煉獄にでも塗り替えてしまいそうなアッシュの濃厚な殺意に、エドワードはようやく自分が死刑台に立っていることに気付いた。


「ひ、ひいィ……っ」


 と、思わず悲鳴を上げようとするが、その時、彼の背中を押す者がいた。


「大丈夫だエドワード少年。君のロマンはしかと聞き届けた」


 夢追い人ロマン・チェイサー・ゴドーである。


「敵は強い。だが、君は決して一人ではないんだ」


 そう言って親指を立てる。


「共にゆくぞ、エドワード少年!」


「……ううゥ、ゴドーさぁん……」


 押された背の暖かさに涙が出てくる。

 ――一人ではない。そのことを実感し、エドワードは勇気を奮い立たせた。


「ああ、そうだった。そうだったよ! ありがとうゴドーさん! 感謝するぜ! おい師匠! 俺は今こそあんたを超える! さあ、行くぜゴドーさん! ロック!」


「――――え? お、おいエド!? さりげなく俺を巻き込むな! 覗きを諦めろよ! もう諦めてくれよ! 諦めなければここで人生終了の流れだぞ、これ!」


 と、ロックが叫ぶが、エドワードはやっぱり聞き耳を持たない。

 ここは無理やりにでも巻き込む気満々だった。

 対するアッシュはその様子を一瞥し、


「やれやれだな」


 感情のない声でそう呟いた。

 アッシュにとってここでロックが参戦したとしても戦力的には何の問題もない。むしろロックもここにいる以上、少々キツい仕置きが必要なので好都合と考えた。

 そして――。


「ああ、いいぜ。かかってきな」


 聖域を守護する『鬼』が、そこにいた。



       ◆



 その日の夜。時刻は十一時半を過ぎた頃。

 満天の星空の元、アッシュは一人、広いバルコニーにいた。

 ホテルの三階にある共同バルコニーだ。精緻な彫刻が掘られた手すりが縁を覆い、その近くには石造りの長椅子が一定間隔で設置されている。アッシュは手すりに両肘をつき、夜景を眺めていた。

 大海原とラッセルの街並みを見渡せるなかなかのスポットだ。しかし、時間帯も少し遅いので今はアッシュ以外に人がいなかった。

「痛てて……」と、夜風に当たりながらアッシュが右頬を押さえる。アッシュの口元には微かな打撲痕があった。


「やってくれるぜ。あのおっさんめ」


 これは数時間前に行われた戦闘の負傷だった。

 ロック、エドワードは早々と戦闘不能にしたのだが、ゴドーだけはおっさんの癖にしつこくねばり、一矢報いてきたのである。

 傷は浅いが、やはり痛みは感じる。アッシュは渋面を浮かべた――と、その時、


「なんだ、クライン。もう来ていたのか」


 不意に後ろから声をかけられた。

 アッシュが身体ごと振り返ると、そこにはいつもの皮服レザースーツを着たオトハがいた。


「おう。わざわざ来てもらって悪いなオト」


 アッシュは笑って挨拶をした。

 すると「……ん?」と呟き、オトハは眉根を寄せた。


「なんだ? クライン。怪我をしているのか?」


 アッシュの口元の傷に気付いたのだ。


「ん。まぁな。ちょっとつまんねえトラブルがあってな」


「トラブル? 誰かと喧嘩でもしたのか?」


 コツコツと近付きながら、オトハが小首を傾げた。


「それでも珍しいな。お前が傷を負うなんて」


 言って、オトハは皮服レザースーツのポケットの一つから湿布を取り出すと、ペリッと裏のシールを剥がしてアッシュの頬に貼った。

 冷たい感触が傷に染みるが、同時にアッシュは懐かしい気分になった。


「ははっ、お前に湿布を貼ってもらうのも久しぶりだな」


 アッシュがそう笑うと、オトハも「そうだな」と言って口元を綻ばせた。


「お前がうちの傭兵団にいた頃は、お前は毎日のように怪我をしていたからな。その時の癖で、今では湿布を常備するようになってしまったぞ」


「いや、何言ってんだよ。オト。その怪我のほとんどはお前が訓練と称してこさえたもんじゃねえかよ」


 と言って、アッシュは苦笑いを浮かべた。

 オトハは「む? そうだったか?」と再び小首を傾げていた。

 そうして二人は些細な昔話をした。


 二人が出会った時の様子。

 鬼でも逃げ出しそうなぐらい過酷だったオトハの訓練。

 相棒として初めて二人で受けた魔獣討伐の仕事。


 再会してからもう随分と経ち、今や同居もしているアッシュ達だが、こうやって思い出話にじっくり花を咲かせる機会はこれが初めてだった。


「まったく。あの頃のお前と来たら何かにつけて大雑把すぎるのだ」


 少女のように笑うオトハはとても楽しそうだった。

 その様子を見てアッシュは少しホッとした。

 アッシュにとって、オトハはユーリィにも劣らない家族同然の人間だ。

 アッシュの人生の中で最も辛く苦しかった時期に出会った少女。

 さらに美しく成長した今でもあの頃の面影は残っている。


 アッシュはポンポンとオトハの頭を叩いた。

 オトハはムッとした様子を見せるが、これといって文句は言わなかった。

 アッシュは懐かしむように目を細めた。


 ただの少年にすぎなかった自分に戦い方を教えてくれたのはオトハだった。

 傭兵団の中でたまたま彼女が自分の教育係に任命されたのが師弟の切っ掛けだ。

 しかし、当時のオトハは十代にして一級品の実力を持ち、教導員としてもとても優れていたが、どこか抜けている――と言うよりも無防備な少女だった。


 事例を挙げると、傭兵団のキャラバンに設置された簡易浴場の近くで、ズボンこそ身につけていたが、上半身は薄いタンクトップを着ただけというとんでもない姿で闊歩するところを目撃したことがある。男所帯の傭兵団の中で胸元を隠そうともせず、汗と湯でタンクトップを少し肌に貼り付けた姿だ。

 本人曰く風呂上がりで暑かったからとのことだが、あれには流石に唖然とした。


 他にも少女時代のオトハは迂闊なミスをしては危機に陥ることが結構あり、その度にアッシュは救出に奔走していたのだ。団内では『ウカツ姫』の愛称(?)で呼ばれていたことなど、きっと彼女は今でも知らないだろう。


 そんな彼女に対し、アッシュは常々迂闊な真似はやめろと説き伏せたものだ。

 とても地道な活動だったそれも少しぐらいは成果があったのか、アッシュが退団する頃には、オトハの迂闊ぶりも大分ナリを潜めていた。


(まぁごく最近、おっさんどもに攫われて危ねえ状況になっていたがな。オトが迂闊だったって訳じゃねえけど、あの時は久しぶりに肝を冷やしたな)


「……ん? どうしたクライン?」


 と、オトハがまじまじとアッシュの顔を見つめていた。

 紫紺色の瞳に自分の顔が映っていることに気付き、アッシュは苦笑を浮かべた。

 いずれにせよ、彼女との出会いには本当に感謝していた。

 改めて思い返してみると分かる。

 戦う術を教えてくれた以上に、オトハの存在は、当時いつ壊れてもおかしくなかった自分の心を現実に繋ぎ止めてくれていたのだと。

 紛れもなくオトハは、アッシュの特別な人間の一人だった。

 だからこそ、今回のオトハの心の変調にはすぐに気付いた。


「いや、お前こそ大丈夫か?」


「ん? 何がだ?」


 唐突な問いかけにキョトンとするオトハ。

 アッシュは少し表情を真剣なものに改めて言葉を続けた。


「あのおっさんのことだよ。はっきり言ってお前、あのおっさんを警戒して、今回の旅行かなり気を張りすぎているだろ」


「……………」


 楽しげだった雰囲気が一転。オトハは表情を消した。

 そして一呼吸置いてから、唇を開く。


「まぁな。しかしあの男、一体何者なのだ……」


 そう言って自分の手の甲に目をやった。


「初めて言い寄られた時、本当にゾッとした。あの男が私の頬に触れようとした時、お前が咄嗟に私を羽交い締めにしなければ、私はきっと奴を斬りつけていただろう。それぐらい危険だと感じた。なのに、その後も気付けば両手を掴まれてしまっている。初見とは違い、今はこれだけ警戒しているというのにだ」


 そこで小さく嘆息する。


「正直、男に言い寄られて身の危険を感じたのはサントス以来だ。私はあの男をサントスクラスの敵だと認識している」


「いや敵って……ブライの奴は一応俺らと同じ《七星》だぞ」


 アッシュが冗談めかした口調でそうツッコむ。

 だが、表情の方は真剣そのものだった。


「けど、比較対象にブライが出てくるって事は、やっぱあのおっさんはヤベぇよな」


「ああ、間違いなくな。エイシス団長の知己だと聞くが危険な男だ」


 そう呟くオトハは、とても緊迫した顔をしていた。

 彼女の警戒具合がありありと分かる。

 アッシュは微かに息を吐き、黒い双眸を細めた。

 彼女にこんな顔をして欲しくなくて、今日ここに呼び出したのだ。


「そんな顔すんなよ。折角の旅行だぞ。もっと楽しめよ」


 一拍おいて。


「あのおっさんに関しては俺の方も極力警戒するし、今までみたいにヤバいと思ったらすぐにフォローも入れるよ」


「う、む。まあ、お前も警戒してくれるなら……」


 と答えるオトハだったが表情はまだ優れない。

 励ましの言葉としては少々弱かったか。

 アッシュはわずかに思案してから、直球で告げた。



「俺がお前を守るからさ。心配するな」



 その台詞に、オトハは目を丸くする。

 が、すぐにもじもじと指先同士を動かして、


「そ、そうか……」


 そう呟いて、オトハは視線を逸らした。

 頬が若干紅潮しているようにも見えるが、そこには先程までの不機嫌さはない。

 少しぐらいは不安の払拭にも役に立てたようだ。


(それに、あらかじめこれを奪っておいたのもファインプレイかもな)


 得意そうに鼻を微かに鳴らして、アッシュはポケットから鍵を取り出した。

 次いで皮肉気な笑みを見せて、鍵を指先でくるくると振り回す。

 これはゴドーが持っていた別室の鍵だった。まあ、覗きを堂々と敢行しようとするおっさんのことだ。夜這いぐらい考えていそうだとは思っていた。そして案の定、怪しい鍵を懐に隠し持っていたので、戦闘中にくすねておいたのだ。

 が、そんなことは知らないオトハは見覚えのない鍵に眉根を寄せた。


「……? それは何だ? ホテルの鍵のように見えるが?」


「ん? まあ、こいつは……」


 アッシュは苦笑を浮かべる。


「俺らの部屋とは別の空き部屋の鍵だよ」


「??? 何故、空き部屋の鍵を?」


 オトハの当然の疑問だが、あのおっさんが彼女に夜這いをかけるつもりだったなど正直教えたくはない。再び不安と不快を抱かせるだけだからだ。

 従って、アッシュは少しだけ言葉を濁してこの場は誤魔化すことにした。

 ただ、内容が内容だけに眼差しだけはとても真剣なものにして――。


「うん。まあ、そうだな。このまま何もしねえのも危険だと考えてな。だから奪っておこうと思ったんだ」


 はっきりと、オトハにそう告げたのである。

 オトハは一瞬、キョトンとした。


「……? お前、何の話を――」


 と、言いかけたところで、ふと冷静になって今の状況を振り返った。


 呼び出された夜のバルコニー。

 とても親しい若い男女。

 何やら用意されている誰もいない部屋の鍵。


 そして――真剣な顔で告げられた最後の台詞。



『だから奪っておこうと思ったんだ』



 ……………………………………………………。

 ……………………・…………………。

 ……………………………。



(………………え?)


 一瞬だけオトハの呼吸が止まった。

 そして次の瞬間には、体中の血流が一気に活性化するのを感じた。


(え? え? ま、まさか!? !?)


 紫紺の瞳がわずかに瞳孔を開いた。

 ――いや、確かに最近自分は不快に思うぐらいあの男に言い寄られているし、オトハ自身かなり身の危険を感じたことも事実だ。

 あの男は想像以上に手強い。まごう事なき難敵だった。


(い、いや、だが待て!?)


 そんな状況だからこそ。

 まさかとは思うが、アッシュは不安を抱いたのだろうか……。

 あの男がアッシュから自分を奪うかもしれない、と。

 だからこそ、あの男から守るために――。


(い、いや待て待て待て。やだっ、待って!)


 ドクンと鼓動が跳ね上がった。息が苦しい。呼吸が出来ない。

 一気にうなじ辺りが熱くなった。

 そして、自分自身が少女達に示唆した可能性が脳裏をよぎる。



 ――



「ん? おい。オト?」


 その時、アッシュがポンとオトハの肩を叩いた。

 途端、オトハはボッと顔を赤くした。次いで全身を一度だけ大きく震わせると、一体何の構えなのか、両腕を胸の前で引き寄せて硬直する。


「~~~~~~~ッ」


 言葉さえ出せないようで、唇はただぱくぱくと動いていた。


「え? おい?」


「ま、まだ早い!」いきなりオトハが叫んだ。「そのっ、まだ早いんだっ!」


「……え? お、おい、どうしたオト?」


 オトハは完全に紫紺色の瞳の中をぐるぐると回して叫び続ける。


「わ、私にだって覚悟はあるんだぞ! お前のことは誰よりも理解しているつもりだし、同居してからは……い、いつだって覚悟はしていたんだ! け、けど、私があいつらに教えた手前、その日の内に私からというのは、ふ、ふひゃあっ!」


「ふひゃあっ!? お、おいオト!? お前今まで聞いた事もない声を出してるぞ!」


 少しでも落ちつかせるため、両手でオトハの肩を掴む。

 が、それは完全に逆効果だった。


「~~~~~~~ッッ」


 再び言語能力を失うオトハ。

 しかし、彼女の脳はパニックを起こしても停止していた訳ではなかった。

 すぐに言語能力を復旧させた――のだが、


「ね、寝るっ! 今日はもう寝るっ! あっ、ちがっ、ひ、一人で寝るっ!」


 仕方がないと言えば仕方がないのだが、正常とは言えない。

 それでも彼女は言葉を続けた。


「け、けどっ! ダメじゃない! ダメじゃないんだぞ! ダメじゃないんだけどダメなんだっ! タイミングというものがあるんだ! だからその、今日の所はっ!」


 そこでオトハの言葉は再び停止した。

 それから数秒ほど、きゅうっと下唇を強く噛みしめる。

 あまりにも挙動不審なオトハに、アッシュはこの上なく不安になってきた。


「お、おいオト?」


 と、声をかけるのだが、


「―――え? オ、オトッ!?」


 直後、アッシュはギョッとした。

 いきなりオトハが、アッシュの胸にギュッと抱きついてきたのだ。

 何の脈略もない突発的すぎる抱擁。

 どうしていいのかも分からず、アッシュの両手が宙を彷徨った。

 その間もオトハはアッシュの胸に顔を埋めつつ、背中にギュッと爪まで立ててしがみついていた。一言もしゃべることもなくただ肩を震わせている。彼女の柔らかすぎる双丘が強く押しつけられ、大きく変形しているのをアッシュはしかと感じ取った。

 そして同時に鼻腔をくすぐる甘い匂い。


(お、おい……)


 これには、流石のアッシュもかなり動揺した。

 勿論、男としては素晴らしい役得ではあることは言うまでもないが、そもそもこの状況が一体どういうことなのか全く理解できない。

 そのため、何も出来ずにいると、


「あっ……や」


 やがてオトハが声を零した。

 彼女の声はとてもか細く、どこか艶めいた色があるように聞こえた。

 アッシュは未だ困惑しつつも、意を決し声をかけようとした――が、その時、これまた唐突にオトハが、がばっと顔を上げて、


「――きょ、今日の所はまで! いいな! までだからなっ!」


 ぐるぐる回ったままの瞳でそう告げてきた。


「え、いや、どういう――」


 ……意味だ、とアッシュが続ける前に、これにも先手(?)を打たれた。

 オトハが跳ねるような勢いでアッシュから離れたのだ。

 そして彼女は、


「ホ、ホントにダメじゃないんだぞ! け、けど、今日はダメなんだ! そ、そのっ、それじゃあ、おやすみだ! クライン!」


 そんな就寝の挨拶だけを叫んで背中を向けるなり走り出した。

 まるで肉食獣を前にした脱兎のような速さだ。

 訳が分からず、アッシュには止める間もなかった。


「……いやオト。何だったんだよ、今のは?」


 誰もいなくなったバルコニーで、困惑したアッシュの声だけが響く。

 そうして十数秒ほど沈黙が続き、


「ええっと、あいつも不安を感じてたってことか?」


 結局、アッシュはそう勝手に解釈した。


「まあ、明日にでも聞いてみっか。それよりも今は――」


 そう呟くなり、アッシュは遙かなる大海原が広がる夜景に目をやった。

 街の光は消えているが、月明かりが美しい。

 そして夜の風が心地よかった。

 が、傷ついた頬にわずかばかり染みもする。

 オトハも珍しいと言っていたが、傷を負ったのは本当に久しぶりだった。


「……あのおっさん」


 鎧機兵においてアッシュは無類の強さを誇っている。

 しかし、それ以上に得意なのは対人戦であった。傭兵時代は幼いユーリィを片手に抱いた状態で盗賊団を壊滅させたこともある。対人戦は鎧機兵戦以上にユーリィを危険にさらすため、徹底して鍛え上げていたのだ。

 そして現在も鍛錬は続けている。その力量は今も変わらないと自負していた。

 ――だというのに、あの男は……。


「あれが四十代の動きかよ。あれじゃあ、まるで……」


 と、言いかけたところで嘆息する。

 所詮はすべて憶測だ。考えても正しい答えなど出てこない。

 現状ではあまりにも情報不足だった。

 だからこそ――。

 頬の湿布を親指でこすり、アッシュは双眸を鋭く細めた。


「あのおっさんめ。そろそろ探りを入れてみっか」

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