人間について

 全訳古語辞典によると「にんげん(人間)」は

 1-①人の住む所。世間。仏教で、人間界

 1-②人間界に住むもの。ひと


 仏教に関する言葉は呉音で読む習わしなので、古文では、にんげんと読む。


 対して、新漢語林によると「ジンカン(人間)」は

 2-①俗世間。俗界

 2-②(仏語)人界。この世。人間社会

 2-③(日本)ア 人類。ひと。また、世間

       イ ひとがら

 2-④ (日本:ひとま)ひとのいない間。人の見ていない時。場所


 漢文・漢詩で出てくる場合は、ジンカンと読み、human beings(2-③ア)の意味では用いられない。


 ついで、現代の使い方を広辞苑で確かめてみると

 3-①人の住む所。世の中。世間。じんかん

 3-②(社会的存在として人格を中心に考えた)ひと。また、その全体


 現代の通例としては、3-①の場合はジンカンを使い、3-②の場合はにんげんと読む。

 ただし、あくまでも慣例に過ぎないので、3-①を呉音(にんげん)で読んでも差し支えはない。

 個人的には、2-①の意味で使う場合はジンカン、その他の場合はにんげんと読むのが「正しい」と考える。

 ただ、さらに個人的なことを書かせてもらえば、正しい・正しくないの前に、読み方で意味が変わる成語なるものほど愚かしい存在はなく、好きなように読めばよいように思う(もしくは使用を避ける)。意味などは前後から判断すればよい。

 2-④はすでに死語か。



 人間に、human beingsの意味を持たせたのは日本人だが、このhuman beingsは、生物学上でカテゴライズされた存在ではなく、社会的存在としてのhuman beingsが意識されているのかもしれない。

 犬は、生まれてすぐ他の犬から離され飼われたとしても、犬として存在できる。

 しかし、孤島に生み捨てられ、人に会わないまま生長したヒトは、人と呼べるだろうか。

 人を人たらしめているのは、人と人の関わりであり、そこが人間の特異な点である。


 人は、ほかの生き物に比べて、自然の支配は弱い。

 代わりに、もっとも、自分たちの関係性(社会)に支配されている生物である。

 犬はその犬と自然の関係性をもって、その犬を語ることができる。

 しかし、人は、他者との関係性を示さなければ、その者を十分に表すことができない(他者からの視点・評価が必要)。

 自らのみでは自らを語れず、他者を通じて自らを表現する。

 まわりの視点・評価が、その者の一部なのである。

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