まどいの途
「うわーん。なんで追いかけてくるのぉ」
肩越しに少し振り返ると、ペースを落とすことなく跳ねるように走ってくる犬。
ただ、見てただけなのだ。
飼い主さんの隣を短めの足でぽてぽてと歩く後姿がかわいらしいなぁ、と少し離れたところからそっと和んでいただけなのに。
突如振り返った犬はなぜかこちらの目を見てひと唸りして弾丸のように向かってきた。
飼い主さんはその突然の動きについていけずにびっくりしてリードを離してしまったのが視界の端に映った。
逃げないと!
思った瞬間走り出していた。
逃げるから追いかけてくるのでは? と思ったのはしばらく経ってから。
でも立ち止まったら最後、追いつかれて噛みつかれる気がする。
だからひたすら走って、走って、犬が諦めるのを待っているのだけれど。
しつこい。
幸い、火事場の馬鹿力というやつなのか息切れもなく軽快に逃げ続けられているけれど、そのうち一気にがくんとバテそうで怖い。
それまでに諦めてくれ、犬。
車通りの少なそうな道を適当に選んで走っていたせいで、もうここがどの辺りかわからない。
周囲は比較的古くからありそうな住宅街で人通りも少なく静かだ。
ちりんちりんとどこからか風鈴の音だけが物寂し気に聞こえる。
スピードを落とさないようにしながら背後の様子をうかがう。
犬はさすがに疲れてきたのかの距離が少し開いてきた。
しかしまだ諦める気はないらしい。
敵意のこもった眼差しをむけたままこちらに向かってくる。
私の何がそんなに気に入らないんだ。
今まで、こんな風に犬に嫌われたことないのに。
いい加減どうにかしないとな。飼い主さんも心配してるだろうし。
路地に入って隠れれば見失ってくれるだろうか。臭いでバレるのか?
ダメもとでも、とりあえず試してみよう。
走るスピードをあげて犬との距離を広げつつ適当な道を曲がる。
家と家の間の細い私道をみつけ素早くそこに入り込む。
「ぎゃー」
その薄暗い通りの奥からゆらりと白い人影が出てきて大声で叫んでしまう。
その声に反応したのか背後から勢いよく吠える犬の声。
前門の幽霊、後門の犬。
状況、悪化しすぎでしょ。
厄日なの?
幽霊はそのままこちらに近づいてくる。
ぶつかる。
道と言うより隙間に近い通りなのだ。
すれ違えるだけの余地はない。
反射的に目をつぶってしまうが衝撃はなかった。幽霊相手だから当たり前か?
それより背後から追ってくる気配がある犬から逃げねば。
「ストップ」
足を踏み出しかけたところで突然の鋭い声に足を止めてしまう。
「ぅわん」
「グッド」
なんだか不服そうにひと鳴きする犬の声とそれを褒める人の声にそっと後ろを振り返る。
こちらに背を向けて立っているのは幽霊ではなく普通に生身の背の高い男の人だった。
追いかけてきていた犬はその男性の足元でお座りをしている。
「大丈夫でしたか?」
振り返ったのは柔らかな声と同じくやさしそうな、そして綺麗な面差しの青年だった。
幽霊と見間違えたのは暗がりに浮かび上がった白いシャツと青年が色白だったせいなのだろう。
「は、い」
「良かった」
にこりと微笑むと青年はしゃがんで犬と目線を合わせる。
犬は青年に向き合いながらも、ちらちらとこちらを不審そうに見上げている。
被害妄想?
青年がリードを短くつかんでくれたので跳びかかってきたりはできないだろうけれど。
「こわくないよ、大丈夫。……いい子だね。ご主人さまが探しているだろうから、帰ろうね」
青年が立ち上がるに合わせるように犬も立ち上がる。
「コロッケー、……どこー、コロー、コロッケー」
飼い主さんだろう声が遠くに聞こえ始めると犬は短いしっぽをいきおい良く振りはじめる。
そうか、キミはコロッケ君か。
美味しそうな名前だな。
「飼い主さんのところに返してきます。待っててください」
青年はぐいぐいと引っぱる犬をなだめながら路地を出ていく。
その背を見送って息を吐く。
……待つ必要、ある?
いや、助けてもらったお礼くらいは言いたいけれどね、青年側から「待ってて」なんて言う意味が分からない。
助けたお礼を強要するタイプでもなさそうだった。
見た目の綺麗さに騙されているだけか?
でも話し方も笑顔もやさしげだったしなぁ。
青年の後に続くように路地を戻り、そっと様子をうかがう。
少し離れたところでぺこぺこと頭を下げる飼い主の女性の姿と青年の背中が見えた。
女性の足元には犬が嬉しげにまとわりついていた。
無事引き渡せたようだ。
振り返った青年と目があった。
のぞき見しようとしてたわけじゃないんだけど、ちょっとばつが悪い
「災難でしたね」
戻ってきた青年は、のぞき見していたことには触れることなく柔らかな苦笑をこちらに向けた。
「あの、何かしたわけじゃないんですよ。ただ、目があったら、なぜか追いかけてきて」
犬にいたずらしたと思われたくない。
「飼い主の方も何もないのに急に走り出したとおっしゃってましたから」
伝えてくれた青年の表情は何故だか少しかなしげに見えた。
「犬、嫌いじゃないんですけど向かってこられると焦って思わず逃げちゃいますね。逃げるから余計に追いかけてくるんだろうけれど、止まったら噛みつかれそうで怖くて。だから、止めてもらえて助かりました。ありがとうございました」
肝心のお礼を忘れていたと慌てて付け加える。
「いえ。間に合ってよかったです」
ほんとにね。いつまでも逃げ続けられたはずもないのだから。
「あの、ところでここはどこかわかりますか? 闇雲に走ったせいで帰り道もあやふやで」
来た道を戻れば良いのだけれど周囲を見る余裕なんかなかったせいでたどれる自信はゼロだ。
「……僕も駅に戻るところでした。良かったら一緒に」
静かな声と先ほどと同じ少しかなしげな微笑。
その表情に不安になりながらも目が離せなくなる。
「こちらから行った方が近いんですよ」
青年は路地を戻るようにして歩きだす。
そういえば、青年はこんなところで何をしていたんだろう。
あぁ、でも私もどこに行こうとしていたんだっけ?
犬に追いかけられたせいですっかり忘れてしまった。
帰らないと。
欠片も気づいていなかった。
身体からすでに離れてしまっていることに。
戻る身体が既にないことに。
人には見えない姿となった彼女の存在はあの犬にとっては非常に不穏に感じられたのだろう。
大事なご主人に近寄らせないように、追い立てつづけた。
どちらも放っておくことはできなかった。
犬は飼い主のもとへ。
彼女は空へ。
あるべき場所へ帰す、と言えば聞こえはいいけれど彼女に対してしたことは存在の完全な滅消。
「この年で迷子になるとは思わなかった」
路地を歩きながら彼女は照れた風にこぼしていた。
「このままずっとまっすぐ行くだけですよ」
声に力をのせて路地の向こうを指さすと、彼女はひかれるようにそちらに向かいゆるりと溶けるように消えた。
有無を言わさず、何も知らせず消した。
「ごめんなさい」
どこにも届かない無意味な謝罪。
正しい帰り道なんてわかっていなかった。
目を閉じてゆっくりと息をはいた。
そして帰路につく。
自分には帰れる場所があった。
【終】
幽想寂日 moes @moes
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