さいわいの夢
まただ。
じっと、こちらを窺う視線。
最初は気のせいかと思っていた。
視線の主は年若い、おそらく二十歳そこそこの背の高い青年。
もっと若い頃であれば「私のことを好きなのかしら」などとうぬぼれた勘違いでもすることができたかもしれないけれど、この年になってしまえば想像の中でもあり得ない。
キャッチセールスかとも思ったけれど、それならさっさと近づいてきて声をかければ済むはずだ。
……ちがう。そうじゃない。
私を見ているはずがないのだ。根本的に。ありえない。
だからきっと私ではない、何か他の物を見ているだけなのだろう。
でも、何を?
ここはどこにでもあるような小さな公園で、今座っているベンチの隣には古びた鉄棒。
後ろにはベンチに木陰を落とす大きめの樹。その少し向こうには公園と道を隔てる柵があるだけ。
特に目をひくような珍しいものはない。
それに昨日、今日と続けて二日間もいるのだ。
公園にやってくる子供を狙った不審者かもしれないと思いかけて、小さく首を振る。
古い住宅街で小さな子がいないのか、それとも近くにもっといい遊び場でもあるのか、この公園に人気はない。
そうするとやっぱりこの樹を見ているのだろうか。
風で葉を揺らす樹を見上げる。
何の変哲もない、花も咲いていない、ごく普通の樹だ。
何を見ているか気になる。
でも声をかけて聞くこともできないし。
小さくため息をこぼす。
ひとりで退屈だから、些細なことでも気になってしまうのかもしれない。
こんなところでぼんやり過ごさず、少しは動くべきか。
それでも立ち上がるのは億劫で、何となく青年に視線を向ける。
それに気づいたかのように青年はこちらに向かってきた。
私に用があるはずがないから、びくびくする必要はないのだけれど、何となくベンチの端に移動してうつむく。
「こんにちは」
柔らかな声が降ってきて、思わず顔を上げる。
私に声をかけた?
だって、他に誰もいない。
「……こんにちは?」
恐る恐る挨拶を返してみると青年は柔らかく微笑んだ。
そんなはずはないのに。私のことなんて見えるはずがないのに。
「ど、うして」
わかっているのだろうか、私が何か。
『見える』人がいるというのは聞いたことがあるけれど、こんな普通に声をかけるものだろうか。
「そう仰るということは、お気づきなんですね」
痛ましげに青年の瞳が揺れる。
ああ、やさしい子だ。
「そんな顔をしないで。私は未練なく死んだのだから」
青年はあいまいに微笑む。
信じていないのかもしれない。
「不思議よね。幽霊って未練がある人がなるものじゃないのかしら」
こうして幽霊を見て、話しかけるような子なら知っているかと尋ねてみる。
「どうなんでしょうね……ただ、何も未練を持たないっていうのは、すごく難しいのではないかとも思います」
隣に座るように促すと、青年は小さくうなずいて腰かける。
「そう、よね。でも私は本当に未練がないのよ」
地元の学校を卒業して、卒業後まもなく旦那とはお見合いで結婚して。子供は男の子二人。
その子供たちも順調に成長して大学を出て就職、結婚して孫が五人できた。
その孫たちも成長して、一人は今年社会人になった。
旦那は三年前、先に亡くなって、その後は束の間の一人暮らし。
そして気が付いたら幽霊になっていた。
老衰というほどの歳ではないけれど、持病もなかったから、どうやって死んだのか。
苦しむことなく死ねたのは運がいいと思う。
「ね。何もかもが順調で、幸せで、思い残したことなんて何にもないの」
一つ一つ、頷きながら聞いてくれる青年に笑みを返す。
「もしかしたら未練がないことが未練なのかもしれないわね」
くすくすと笑う。
自分と同じ年頃に見える女性。
本人が語ったことを信じるなら、実年齢は七十代だろう。
幽霊の見た目は死亡時のままでないことも多いからそれに関してはさほど問題はない。
ただ、何度も繰り返される「未練一つもない」「幸せだった」が自身に言い聞かせているようにさえ聞こえて、どうしたものかと気づかれないように溜息をつく。
とっかかりが掴めない。
下手につついて藪蛇になるのは避けたい。
「あなたは学生さん?」
「はい」
「楽しいかしら?」
「はい」
「いいわね」
ぽつり、こぼれた言葉が本音に聞こえた。
「私にはなかったわ」
淡々とした声。こちらを見上げる目が虚ろだった。
「何かしたいことがありましたか?」
動揺を顔に出さないよう、できるだけ穏やかな口調で尋ねる。
「なにも。なにも、選べなかった。いつも、いつも、決められて、何も聞いてもらえない。全部、決まった後に知らされて……幸せなのよ、みんな決めてくれるの、そう。考えなくてもいいいって。しあわせなの。そうでしょう? 未練なんてないもの」
遠いところを見たまま、紡がれる言葉は柔らかな口調なのに悲しい。
「そう、ですね。未練一つないから、あなたはこのまま光のある方へ進めますよ」
樹の枝を指さす。
その先に小さな光球をつくる。
「あれを追ってください」
ふわふわと揺れる光を女性の視線が追う。
「わかりました」
承諾の言葉一つ残して女性の姿はするりと空気に溶けた。
さいごの時まで選択の余地なく送ってしまったことに胸が痛んだ。
そうさせたのは自身なのに。
木の葉がざわめく。
立ち上がる気力もなく、ただ空を仰いだ。
【終】
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