くずれる滴


 雨の日が好きだった。

 お天気のいい日は、「お外でお友達と遊びなさい」って、お母さんが言うから嫌いだった。

 お友達なんていなかった。

 でもお友達みたいな顔で、誘いに来る子たちはいた。

「今日は何して遊ぶ?」って。



 今日は雨の日。そしてお母さんもお出かけ。

 お小言を言われることなく、お家でゆっくりできる、良い日。

 スケッチブックと色鉛筆を持って、縁側に向かう。

 風もなく、雨もそれほど強くないので雨戸を全部開けるとひやりとした空気と一緒に湿った雨と花のにおいが届く。

 しとしとと降る雨のささやかな音。

 にじむように庭木が濡れている様子を壁にもたれて眺めて、絵を描く。

 どれくらい時間が経ったのだろう。

 少しおなかが空いたなと、顔を上げた。

「っ」

 門のところに人がいた。

 慌ててうつむき、横に分けていた前髪を下ろす。

 誰だろう。見たことない人だった。

 背が大きかったから、たぶん大人。どうしよう。変な人だったら。誰もいないのに。

「こんにちは」

 優しい声だった。

 長い前髪のなかからそっと上目遣いに相手を見る。

 子供ではないけれど、大人でもなさそう。多分。高校生くらい?

 声と同じく優しそうな雰囲気の人だった。

 きれいな人。でも、たぶん男の人、だよね?

「……こん、にちは」

「ごめんね。驚かせて。良い香りがするなってちょっと覗いたら、花が見事だったから」

 庭の蝋梅は今ちょうど満開で、確かにいい香りがする。

 その人は柔らかく微笑んで花を見つめていた。

「良かったら、なかで、見て、ください」

 本当だったら良くない。お母さんに知られたらきっと怒られる。

 でも、私が好きな蝋梅を気に入ってもらえたのがうれしくて、雨の中、傘もささずに濡れてるし、そのまま行かせてしまいたくなかった。

「ありがとう。……お言葉に甘えさせてもらうね」

 いつもなら、絶対知らない人なんかと話さない。

 私を見るとみんな嫌な顔をする。

 なのに、なんであんなことを言ってしまったのだろう。

 縁側のふちに遠慮がちに座ったその人も、私を見て気づいたら、同じように嫌な顔をするだろうに。

 どうしよう。早く帰ってくれないかな。

 気づかないまま、帰ってほしいな。

 蝋梅を気に入ってくれたこの人に、あんな顔を向けられたくない。

「中から見ると、ますますきれいだね。入れてくれてありがとう」

 お礼を言いながらこちらへ向けた表情には、特に変化なく微笑みを浮かべているように見えた。

 目を合わせるのが怖くて、あまりちゃんとは見られなかったけど、たぶん。

 私のことをはっきりと見なかったから、それで態度を変えなかっただけかもしれない。

 だけど、普通の人は私の顔の半分ほども覆う前髪を見て陰気だと眉を顰めるのに、そんな雰囲気はなかった気がする。

「前髪、半分お揃いだね」

 思わず顔を上げると、確かにその人の前髪は半分だけ長く右目を覆うように隠していた。

 ただ、私の前髪と違って全然陰気な感じはない。きれいな面差しによく似合っていた。

「…………なんで、……かくしてる、の?」

 聞いてしまってから、失敗したと思った。

 自分がおんなじこと聞かれたら、すごく困る。

「うん。そう、だねぇ」

 ほら。やっぱり困らせた。

「あ、の。やっぱり、いいです」

「大丈夫だよ。内緒ね」

 右手で前髪をかき上げて見せてくれる。

 薄暗い中、その手がすごく白くみえた。

「あ」

  そして前髪で隠されていた右目は、その色が薄い紫色だった。

 左目も薄茶色で少しめずらしい気がするけれど、紫の眼なんて初めて、見た。

 きれい、だけど、少し怖い。吸い込まれてしまいそうな。

「気味悪いでしょ。だから、隠してる」

 前髪を下ろして小さく笑った顔はさみしそうに見えた。

「……一緒。私、も」

 どきどきしながら両手で前髪を上げて、そっと見返す。

「あぁ、綺麗な青だね。夏の海みたいな色」

「え」

 目を細めて、やさしく笑みを浮かべて言われて、驚くと同時に顔が熱くなる。

 そんなこと、初めて言われた。

 みんな目を背けて、小さく、でも私に聞こえる声で気持ち悪いとか不気味とか言い合ってた。

 鬼の子だから退治しないと、と言って、遊ぼうと誘いに来ておいて追い立てられた。

 本当に鬼の子だったら、あんな子たちに負けないのに。やり返すのに。

 いつもやられっぱなしで、逃げてばかりで、でも誰も助けてくれない。

 お母さんだって気づいてもくれない。何を言っても「仲良くしなさいね」って言うばっかりで。

「少し違うだけなのに、ねぇ。うまくいかないよね、むずかしい」

 おにいさんのしみじみとした声。

 うなずくと、ぽたぽたと膝に涙がこぼれ落ちてあわてて目をこする。

「我慢しなくていいよ。よく頑張ったね」

 隣に来たおにいさんが頭を撫でてくれる。

 今まで、だれもそんなこと言ってくれたことなかった。

 泣いたら余計にいじめられたし、お母さんには叱られた。

 今までの悲しかった気持ちを吐き出し切ったくらいに泣き続けてもおにいさんはずっと隣にいてくれた。

「わたし、わるくない、よね……目の色が、違うだけ、で」

「うん」

「じゃあ、なんで、わたしは、毎日、あんなふうに」

 痛かったのに。

 お母さんは、怪我に気が付いていたはずなのに、「仲良くしないとだめよ」ってにこにこ言うばっかりで。

「なんで、わたしだけ、わたし、ばっかり」




 ぞわりと空気がよどんだ。

 失敗した。

 廃屋でひとり残った幽霊に近づき、いつものように話を聞いて、そして送るつもりだったのに。

 変質した。

 亡くなって尚、残る想いは時が経つにつれ、歪んでいくことは知っていたのに。

 寂しそうな青い目をした少女がかなり前に形をなくしたこともわかっていたのに。

「わたし、わるくない。みんな、ひどい、きらい」

 さっきまで泣いていた少女とは思えないほどに恨みに囚われた禍々しい表情で空をにらんでいる。

 その視線の先から、黒い霧が庭を覆うように広がる。

「ごめんね」

 少女の頭を抱きしめる。

 胸に焼けこげるような痛みが突き刺さる。

 じりじりと侵食する黒い感情に呑み込まれないように、どうにか呼吸を整える。

「助けられなくて、ごめん。一人で、つらかったのに。一緒に、いてあげられなかった」

 自分が生まれるより、ずっと前に亡くなっていた少女を生前に助けるなんて、どうあがいても無理だったのだけれど。

 それでもこんな風に狂う前にどうにかできたのではないかという思いは残る。

 それは、こちらの勝手な感傷だけれど。

「ごめんね。消えてね」

 変質してしまったそれはもう戻らない。

 穏便に送りたかったけれど、それはもう叶わない。ただ、無理やり滅消するだけ。

 そのための術言を少女の耳元にささやく。

 腕の中にあった少女の形をしたものがほどけて、黒霧とともに消える。

「ひどい」

 最後に少女だったものが残した声が、いつまでも耳に残った。


                                   【終】

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