きえる雨


 突然降り出した細い雨。

 境界はぼやけ、曖昧になる。



『雨が降ったら、泣こうとおもう』

 ちょうど通りかかった店先から流れてきたフレーズ。生音ではなく有線かなにか、スピーカーを通した歌声。明るい声なのになぜだか痛々しく聴こえた。

「それも良いかもね」

 まるで見計らったかのように降り出した雨にかるく笑みをもらす。

 別に、泣きたいだけの明確な何かがあるわけじゃない。日々はごく普通に過ぎていくし、周囲はおどろくほどに、何もかわらない。

 泣けば周囲が助けてくれる、なんてそんな子どもじみた甘えたことを考えてたわけじゃない。泣いていたって振り返る人なんて誰もいないってわかっている。それでも、というかだからこそと言うべきか。

 空を見上げて目尻に落ちた雨粒と一緒に涙をこぼしてみた。



 雨にぬれたまま、歩調をかえずに歩く。

 哀しいわけでもない、何の意味もない、ただの涙をこぼしながら。

 雨宿りに地下にもぐったり、店に入ったりしたのか、道行く人は先ほどより減っているが、皆無というわけでもないのに、誰も振り返らない。気にしない。

 まぁ、傘も差さずに、濡れながら泣く女なんて関わり合いになりたくないだろうから当たり前かもしれない。……それ以前の問題というのもあるのだけれど。

「たまにはこんな風に泣くのも良いかもねぇ」

 傍から見る人にとっては迷惑千万かもしれないけれど、要らないものが排出できてる感じだ。

「それでも、やっぱり見ちゃったらほうっておけないですよ」

 やわらかな声と同時に雨が遮られる。反射的に見上げると、差しかけられた大きめのブルーグレイの傘。少し目線を動かすとやさしげな顔立ちの青年がおだやかな笑みを浮かべている。

「……なんで?」

 声がかすれる。誰も気づかないはずなのに。

「うん」

 全然答えになってない。それでもなんだかほっとしたのも本当で。だから笑みを返した。

 最後の涙がこぼれ落ちた。



 雨にぬれる公園。ほこりを洗い流された樹木の緑がいつもより鮮やかに滲む。

 差しかけられた傘にぱたぱたと落ちる雨の音だけがひびく。

 となりを歩く青年の横顔をちらりと盗み見る。二つ三つ年下だろうか。整った顔立ち、長い前髪。柔和な雰囲気で初対面なのになぜか安心感がある。ずっと無言でいても居心地悪くない。

「?」

 視線を感じたのか青年がこちらを見る。

「ごめん。キレイな顔してるなぁと思って見てた」

「……カンベンしてください」

 がっくりと青年は肩を落とす。

「えぇ? 褒めてるのに」

「女性に対してなら褒め言葉になるかもしれないですけど」

 ちょっとだけ嫌そうな顔をしてそっぽを向く。男心は複雑だねぇ。

「でもさ、アナタが例えばもっと違う感じのコだったら、私こんな風についてこなかったと思うし。だから、良かったんだよ」

 顔だけでなく雰囲気によるところも多分にあったけど。大丈夫な感じがした。良い人オーラが出てるというか……って、これも男にとってはプラスな評価じゃないかもしれないな。

「ありがとうございます」

 静かに微笑う。

「どういたしまして……座ろっか」

 四阿を見つけ、青年を促す。

「どうぞ」

 青年は少し汚れてみえるベンチにハンカチを敷いてくれる。

 傘を差しかけてくれていたこともそうだけど、もしかして気づいていないのだろうか。雨も汚れも、意味ないことに。

 でも、その好意はうれしい。

「アリガト」

「どういたしまして」

 笑みを返した青年の右肩が濡れているのに気づく。

「ごめん、ね」

「おれ、傘さすの下手なんだよね」

 目線で何を謝ったことがわかったのだろう。照れたみたいに笑う。

「……あのね……あのさ。聞き難いんだけどさ」

 どうやって言ったらいいんだろう。自分自身、まだ口にすることに抵抗があるのかもしれない。どうしよう。

 うまく言葉にならなくて、ただ青年を見つめる。

「大丈夫ですよ」

 わかってます。とやわらかでどこかかなしげにも見える微笑が返ってきた。



「何かしてほしいことはありますか?」

 青年はおだやかな表情のまま、唐突に尋ねてくる。

 束の間考えて首を横に振る。

「別に。とくに」

 この先どうなるのかわからないけれど。青年に何が出来て、本意がどこにあるかもわからないけど。なるようにしかならない。諦めにちょっと似ている。慣れている、そんなこと。

「あんな風に泣いてたのに?」

 慈しむようなやさしい視線。

「あれは、別に意味なんてないよ。たまたま聴いた歌が『雨が降ったら泣こう』なんていってて、ちょうど雨降ってきてたし。じゃあ、泣いてみようって思って……だから、この状況に悲観して泣いてたわけじゃあないんだよ」

 もちろん嬉し泣きでもなくて。感情を伴わない涙だった。

 それでも、誰にも気づいてもらえないことはやっぱりちょっと寂しくて。だから差し出された傘と声に不審をいだくこともなく、ただほっとした。

「そうなんですか?」

「そう。だいたい、泣いたのなんてこどものころ以来だよ……泣くのって嫌いだった。泣いたって、どうにもならないし」

 ここ何年かは泣いたら負け、というか壊れてしまう気がして、半ば意地になってた部分もある。

「でもね、たまには泣いてみるのも良いなって思った。……アナタにも会えたしね」

「……でも、おれは消すモノです」

 感情を殺した平坦な口調。

「あなたのような、ただ居るだけの、何の罪もない人でも……有無を言わさず抹消します」

 早口でまくしたてて、くちびるをかむ。つらそうな表情は、見ているほうが痛くなる。

「そっか。ナンパだと思ってよろこんでたのになー。残念」

 軽口をたたいたのに、青年は深々と頭を下げる。

 真面目な子だなぁ。

「誰にも見つけてもらえないのに、居ても仕方ないでしょ。だから会えてよかったよ。この先ずっと、一人きりで時間をもてあますことを考えたら、ね」

 下げられたままの頭をなでる。その感触が伝えられないことがもどかしい。

「顔、あげてよ。私は大丈夫だよ」

 淡い瞳が揺れたままこちらを見る。

「幽霊って不便だよね、やっぱり。触れたいのに」

 青年の頬に手をのばす。

「お願い事、できた。聞いてくれる?」

 うなずく。

「私が居なくなったらで良いから、泣いて?」

「……良いんですか?」

 その反問の真意はわからないけれど。

「約束ね」

 笑って青年を抱きしめる。その感触はない。でも温もりは伝わってきた気がした。



「ありがとう」

 抱きしめてくれた、今はもう居ない人に呟く。

 傘をささずに歩く。

 降る雨にまぎれさせる。頬を伝わる温い一筋。




                                                 【終】

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