第4話

「まぁ、待て。もちろんこれで終わりじゃない。ちゃんとつづきはある。東京に出てきてその五年後──つまり俺が二十三歳のときのことだ」

 藤堂さんは缶ビールに唇をつけ、残りを飲みほした。

「俺はそのとき、ぬいぐるみ劇団のチケットを小学校に売り歩く仕事をしてたんだ。けっこう大きな劇団でさ。全国で公演をうつんだ。俺の仕事はだから、営業のようなもんだな。車で日本中どこへでも行ったよ。三年間やったから、四、五千の小学校をまわった計算になる。四、五千だぜ。ちょっとした数だ。チケットを買ってもらい、会場の手配まですべて一人でやる。当日満員になった客席を見るときはいつも感激したもんさ。あぁ、この観客たちを全部自分が集めたんだな、って。もちろん劇団の信頼によるところであって、俺の力ってわけじゃないんだけどな。でもとにかく──なかなかやりがいのある仕事だった」

 藤堂さんはそこまで話し、腰をあげて新しい缶ビールを台所に取りにいった。僕はまだ一本目が残っていた。口のなかに粘っこい味が感じられた。コーヒーが飲みたいような気がしてきた。冷蔵庫の扉が閉まる音がし、藤堂さんは座卓に戻ってきた。今度はちゃんとグラスにそそいだ。一口飲み、手に持ったグラスを眉根をよせてしばらく眺めた。

「あるとき──劇団は京都で公演をうつことになった」、藤堂さんはグラスを戻し、鼻から息を吸い込んだ。そして口から長く吐いたあとにつづける。「担当するのは俺になった。土地勘のあるものがやったほうがたしかにスムーズにいくんだよ。でも俺はやりたくなかった。だけど、上司が決めたものを断るわけにもいかないもんな。

「十数年ぶりに俺の通ってた小学校を見たよ。そうなんだ。母校もちゃんとまわったんだ。校長先生にもあった。もちろん俺だって気づかなかった。背の低い目立たない子どもだったのが、今じゃ一八〇センチを超える大男になってたんだからな。

「俺のいない年月も、京都って街があって、人びとの営みがつづいてたっていうことが──なんだか信じられないんだ。俺がすっかり京都のことを忘れてるのに、それでもこの街が存在してたっていう事実に──切なさに胸がしめつけられるような、もうしわけないような──何とも言えない複雑な気持ちになったよ。すごく、自分本位な感じかただとは思うんだけど──。

「それで──チケットは問題なくさばけた。公演も成功した。よくやってくれたって会社も褒めてくれたよ。たしか俺はつぎ、北海道を担当することになってた。それまで一週間ばかり間があった。だから営業部長が、何日か京都でゆっくりしてればいいって言ってくれたんだ。故郷は久しぶりなんだろ? って。育ての親ともそのころはかたちだけのものになってたし、あの家へ寄る気はなかった。だけど会社がゆっくりしろって言ってくれてるのに断るのも変なもんだ。俺はそのままホテルに居つづけることにした。それで京都の名所をあちこちめぐったんだ。正直、こんなにいいところだったのかって驚いた。行ったことのない寺なんかもいっぱいあったしな。静かな庭を何時間も眺めてると、石や樹木の立体感が不思議に増してくるんだよなぁ。それでいて気持ちの強張りは解けていく。素直になっていくのがわかるんだ。

「それで──明日いったん東京に戻るって日──俺はおばちゃんの駄菓子屋へ行ってみようかとふと思った。

「十三、四年ぶりだかそこらになるんだもんな。もちろん俺だってわかりはしないだろうし。

「だけどおばちゃんがまだ生きていて、あの店があるかどうかは定かでない。おばちゃんは若く見えたけど七十近かったんだ。いまじゃもう八十だ。死んでてもおかしくはない歳だもんな。

「俺はホテルで夕方まで迷ったすえ、行ってみることにした。あたりはほの暗くなりだしてた。道は覚えてた。小振りな郵便局に、角の肉屋、豆腐屋。昔と変わらない家々の窓硝子。かわら屋根。夕ご飯をこしらえる匂いも漂ってきた。過去の時間が夕陽と混じりあってゆらゆらとたなびいているような気がした。

船岡山ふなおかやまっていう小山のふもとに、おばちゃんの駄菓子屋はあったんだ。山のなかには神社もあった。黒々とした山林とそのなかに立つ鳥居が西空を背景に見えてきたときには、自分の顔が泣き笑いみたいになっていくのがわかった。母校の小学校を見たときより感慨深かったな。俺にとってあのあたりと、おばちゃんの店こそが、母校だったのかもしれない。

「店も、あったよ。明かりが遠くから見えた。周囲はひっそりとしたところなんだ。昔から八時くらいまで店を開けてた。駄菓子屋の黄色い光が闇のなかに灯ってた。胸に甘ずっぱい痛みが走った。子どものころ、夕食を食べたあと寂しくなると、ひとりでおばちゃんの店に走ったりしたことも何度かあったんだ。

「俺の足はしぜんと速まってた。風が船岡山のほうから吹いてきた。土と樹木の懐かしい香りを含んでた。どこかの家の軒先で風鈴が鳴った。店の明かりが上下しながら大きくなり、目の前まで迫ってきた。

「だけど、そこで俺の足は止まった。なんていうか──おばちゃんを怖がらせはしないだろうかって思いはじめたんだ。つまり大人が──それもかなりの大男が──日暮れに駄菓子屋へ一人で入ってきたら、ふつう驚くじゃない? この二、三日、髭を剃ってないことにもそのとき気づいたしな。

「俺は、引き返そうかと思った。だけどここまで来たんだし、やっぱり一目会いたくもあった。俺は考えた。それで──こういうことにした。自分はフリーのライターで、いま全国の駄菓子屋を取材している、それでこちらのお店もちょっと見せていただきたいのです、よろしいでしょうか? という意味のことを口にしながら入っていけば、変じゃないんじゃないかって。怖がらせなくてすむんじゃないかってな。いま思うとそれもかなり不自然なんだけど、そのときは名案みたいに思えたんだ。俺は──そうすることにした。

「店の正面まで来た。もう迷いはなかった。俺は硝子の引き戸に指をかけ、その覚えのある重みを──ゆっくりと横へすべらした。

「甘い菓子の匂いとともに、クレヨンをぶちまけた色彩が魚眼レンズを覗いたみたいに目に飛び込んできた。なにもかもが変わってなかった。ほんとに、なにもかもがだよ。

「奥の隅に──おばちゃんがいた。

「昔とおなじ丸椅子に腰かけてた。えび茶色の和服の上に白い割烹着をつけてた。記憶にあるそのままの姿だよ。すこしだけ、小さくなったような気はした。

「目が合った。屈託のない表情だった。これもそのままだ。痛みに似た懐かしさが胸に拡がった。俺だってわかってはいなかった。俺は考えてきた取材うんぬんの話を早口にしゃべった。おばちゃんは、ええよ、ゆっくり見ていってや、もう子どももんやろうしね、と言った。声も、記憶しているものとまったく同じだった。自分の頬がゆるんでいくのがわかった。たぶん、何年かぶりに浮かべることができた、安心しきった微笑みさ。

「俺は店のなかをゆっくりと歩いた。視線を動かすたびに胸の奥がくすぐったくなったり、切なくなったりした。ほとんど息苦しいほどになってきたりもして、呼吸の回数を意識して増やさなければならないほどだった。ほんとに──ほんとに昔と何からなにまで変わってないんだよ。俺はまだ小学生で、学校の帰りに今日もおばちゃんの店に立ち寄ったんじゃないかって、そんな錯覚を起こしかけたほどさ」

 八代は知ってるかな──藤堂さんはそう言うと、今も駄菓子屋のなかにいるかのように、焦点のあまい目をさ迷わせた。

「たこせんべいや、ベビースターラーメンを。ラムネにポン菓子、やまとの味カレーなんてのもあった。それにあと、チョコバットな。みんなうまかった。おもちゃも昔のまんまだ。ベーゴマにメンコ、スーパーカー消しゴム、組み立てて飛ばすソフトグライダー、こども銀行のお金、水風船、スーパーボールに竹とんぼ、水につけとくとちっちゃな怪獣が二十倍くらいに大きくなった〝恐竜のタマゴ〟。あと、なんでだか好きだったのが糊みたいなのを人差し指の先につけて、親指をくっつけたり離したりすると煙が立ちのぼった〝妖怪けむり〟な。──みんなまだあるんだ。まったくあのころのままなんだよ。

「俺はわれを忘れてノスタルジックな空間をただよってた。地面から足の裏が何センチか浮いてるような感じだった。視界はどこかしら赤っぽかった。朱色に近いような赤さだった。

「懐かしいものが次から次へと出てきた。仮面ライダーやウルトラマンのお面、色取り取りのビー玉、おはじき、手品グッズに軍人将棋、超合金のロボット──。

「うす明るい光を朱色の幕ごしに見ているような──そこを心がふわふわと浮遊しているような──そんな感じでもあったな。

「──ふと腕をあげて時計を見てみると、もう一時間ちかくが経ってた。信じられなかった。おばちゃんの声がした。どうです、取材になりましたか。とても、と俺はふり返って言った。とてもいい取材ができました。

「おばちゃんの笑顔も大きくなった。ぱっと花が咲いたみたいだった。丈夫そうな歯が見えた。来てよかったと心から思った。おばちゃんと再会できて本当によかった。俺はいくつかお菓子を買い、おばちゃんの手で半透明のビニール袋に入れてもらった。おばちゃんの手でお釣りをもらった。天井の黄色みがかった明かりにチョコバットやポン菓子がやわらかく光ってた。俺は礼を言って帰ろうとした。おばさんいつまでも元気でいてください、ってその目を見つめた。おおきに、っておばちゃんもお辞儀をした。名残り惜しかったけど──俺はもういちど頭を下げ、出て行こうとした。

「そうしたら──ちょっと待ってっておばちゃんが言った。丸椅子から立ちあがり、和服の背なかを向け、住居になっている奥のほうへ行ってしまった。俺はよくわからないまま、その場に突っ立ってた。おばちゃんはすぐに戻ってきた。胸のところになにか黒いものを持ってた。最初、それがなんなのかわからなかった。

「わかったとき──体を電気が走った。足の裏から突き上がり、頭の先から抜けてった。店のなかの色彩が消えて真っ白になった。なにもかもが真っ白になった。そしてまたゆっくりと、かたちと色が戻ってきた。

「呆然となった。思考はまだ戻らなかった。手に持っていたビニール袋はいつの間にか三和土たたきに落ちていた。おばちゃんの笑みがこちらへ歩いてきた。おばちゃんは腕を思いきり伸ばし、背伸びもして──俺の頭に── 

「巨人の野球帽をのせた。

「あぁ、もっと拡げんとかぶれへんな、っておばちゃんはつぶやいた。帽子をいったん取って、うつむき、帽子の後ろのベルトをたどたどしい手つきで調節した。そしてまた背伸びをし、かぶらせようとした。こんどは俺も膝を曲げて背を低くした。

「まだ少しきつかったけど、帽子は俺の頭にのっかった。おばちゃんは慈愛に満ちたまなざしで俺の顔を見上げてた。黒目が微妙に大きくなったり、小さくなったりを繰り返してるように見えた。笑みのかたちのままの唇が動いた。目がまぶしげに細められた。ほんまに立派になったなぁ。よう来てくれたなぁ。

「俺はその場に立ちつくしたまま、全身から力が抜けてった。おばちゃんの顔が見る見る涙でぼやけ、鼻の奥が生温くなった。俺は泣くのか笑うのか自分でもわからなくなったまま頬をふるわせた。腕を伸ばしてた。前かがみになって左右の手をひろげてた。おばちゃんの体に両腕をまわしてた。おばちゃんも引き寄せるように抱きかえしてくれた。頬と頬がくっついた。おばちゃんの体はやわらかく、お菓子の匂いがした。

「おばちゃんごめんな、あのときごめんな、って俺は小学生みたいな声で繰り返してた。おばちゃんもきつく目を閉じ、頬をふるわせてるのが伝わってきた。一言も言葉を発さず、俺の背なかをせわしなくなでつづけてた。その手の動きとともに、胸のなかいっぱいに、とてつもなく温かなものが拡がっていった。涙が頬をつたってる感触があった。自分の涙なのかおばちゃんの涙なのかもわからなかった。実の母親に抱かれてるみたいだった。俺のすべてがゆるされていくようだった。故郷そのものに抱かれてるみたいだった。俺はこの街を愛してて、この街も俺を愛してくれてたんだって、なぜだかそんな気がした──」

 藤堂さんはそこで話をやめ、沈黙した。僕も黙っていた。ピアノ曲はもう鳴っていなかった。なんの物音も聞こえなかった。十数年ぶりに訪れた藤堂さんを、おばさんが覚えていたというところがこの話の不思議なところなのだろう。巨人の野球帽をいまだに持っていたところと──。もちろんとくに怖い話ではない。だけど帽子を藤堂さんにかぶせる場面はやはりいい。聞けてよかった。話を聞かせてもらえてよかったと僕は心から思った。

「それでその日──俺は感激したまま、駄菓子屋をあとにしたんだ。誰のだかわからない涙でぐちゃぐちゃになった顔のまんまでな」

 藤堂さんは照れたような語調になってまた口を開いた。話はまだ終わっていないようだった。

「翌日の──京都を離れる日──俺はもういちどおばちゃんの店に立ち寄ることにした。好きだった蕎麦ぼうろを持ってな。フリーのライターというのはうそで、児童劇団の営業をやっていることなんかもちゃんと話そうと思った。本当にやりたい仕事を、いまも模索していることも──。

「よく晴れた、光のきれいな午後だったよ。俺は帰り支度をし、スーツを着、髭も剃って、船岡山のほうに向かった。

「おばちゃんの駄菓子屋はなかった」

 ──僕は意味が飲み込めず、藤堂さんの顔を見た。

「駄菓子屋が、なかった?」

 藤堂さんはあごを引いた。

「だって、昨日の夜はあったんでしょう?」

 あったよ、と藤堂さんは抑揚のない声で返した。

「そんな──、一晩で無くなるなんておかしいじゃないですか」、当たり前のことを言って藤堂さんの顔を見つづけた。藤堂さんも動かない目で僕を見つめる。見つめ合ったまま、数秒が流れた。ああ、と僕は話を理解した。ああ、そういうことなのか、と。僕の表情を見て藤堂さんも察したようだった。いちどゆっくりとうなずいてから、言葉をつづけた。

「おばちゃんの店があったところは小振りなマンションになってたよ。まだ新しい感じだったけど──、一晩で建ったものじゃない」、最後のところでユーモラスな調子を藤堂さんは交えようとしたが、うまくはいかなかった。

「俺が呆然と立ちつくしていると、ちょうど近くの家の玄関がひらき、老人が犬をつれて出てきた。その家は俺が子どものころからあった長屋のなかの一軒だった。俺は混乱した頭のままふらふらと老人に近づき、話しかけた。クリーム色のマンションの壁を指さした。『ここに、駄菓子屋がありましたよね?』、昨日まで、って言葉はなんとか挟まずにすんだ。

「ぶしつけな俺の言動をいぶかるわけでもなく、鼻のやけに長い間延びのした顔つきの老人はほがらかな口調で答えた。

「『あったよ、去年の今ごろまではね──』」

 僕は眉根を寄せ、藤堂さんの顔をうかがった。藤堂さんも堅い表情で見返した。そして、肩にも力が入っていたことに気づいたように、ふっと脱力し、目をふせた。視線をまた僕の顔に戻し、声に笑みを含ませ、つづけた。

「話し好きのおじいちゃんみたいでな──、ほとんど勝手にしゃべりだした。やせた茶色い犬だけが早く散歩したそうに紐のとどく範囲を動きまわってた。おじいさんはその犬を叱りつけた。見覚えのある人物であることも急に俺は思い出した。おばちゃんと店の前でよく立ち話をしてた人だったんだよ。

「『ええ人やったけどね、脳卒中やった』ってその老人は言った。  

「『 八十過ぎてからは、ちょっとボケたはったようにも思うけどな。おはようさん言うても、あたしは日本一の駄菓子屋のおばちゃんやで! って怒ったみたいな調子で言い返さはったしな』

「『まともなときもあるんや。まともなときはいつもこぼしたはった。子どもがんようになってさびしいって。子どものかずじたいが減ってしもうたって。うなじを垂れてな。ほんまにさみしそうやった。それでも商品は最後の最後までぎょうさん置いてあったで。じっさい日本一の品ぞろえやったんかもしれんな。京都の問屋がつぶれたいうては大阪まで買いに行かはんにゃしな。そやけど兄さんな、こんなテレビゲームやコンピューターやいう時代にやで、〝恐竜のタマゴ〟やら〝妖怪のけむり〟やらいうても子どもかてそんなもんで遊ばしませんて。そう言うても聞かはらしまへんにゃ。昔の子どもはこれで遊んだんや、言うてな。まぁ、それはそうでっしゃろうけど──。子どもが来ん店に、いつもあふれんばかりのおもちゃが置いてあったな──』

「『実を言いますとね──店で倒れたはるあの人を見つけたんは私ですにゃ。あわてて救急車を呼んだんもね。私もいっしょに救急車に乗りましたがな生まれて初めて。寝台の上で、いっぺんあの人、意識が戻らはりましたんや。それで、はい十円、はい二十円、言うて指先をすぼめた右手を宙で動かさはるんや。なにをしたはんのかいなおもたら──あれ、お釣りをわたしたはったんやな。子どもにお釣りをわたしたはりましたんや。はい十円、はい二十円、言うて』

「『そのあと──意識がはっきりしたんや。私の顔を見て、あぁげんさん、言わはったんや。それで私は、こら助かる! おもた。そやけど、あの人は言わはった。棺桶のなかへ、子どもらがいてくれたあたしの似顔絵を入れてくれって。寝間ねまの壁に貼ってあるさかいすぐわかる、って。私は救急車のなかで大きな声を出しましたがな。なに言うてんにゃ! 死なへんで! あんさんまだ死なへんがな!』

「『──それでもけっきょく──それがしゃべらはった最後でしたわ。身寄りのない人やったからね、町内で呼びかけあって、ひっそりしたお葬式をだした。お棺のなかへも駄菓子やとか、おもちゃ──そして、絵を入れたげた。ほんまに寝間の壁じゅうに貼ってありましたわ。もう黄ばんでんのがほとんどやったから、だいぶ昔の子どもさんが描かはったもんなんやろうね。ほんまにぎょうさんあった。そうやそうや、あの人が蕎麦ぼうろをつまんでる絵もあったわ。あの人蕎麦ぼうろ好きやったからな。子どもはそれを知ってたんやな。絵の下のほうにはこんなふうに書いてあった。〝日本一の駄菓子屋のおばちゃん〟ってな!』」

 込み上げてくる涙をこらえるのはそこまでだったよと藤堂さんは言った。

「俺は泣いた。嗚咽がもれてくるのを止めようとしても無理だった。唇をへの字にひん曲げて、肩をふるわせて泣いた。目をどんなに固く閉じても、涙ってのはあふれてくるんだな。膝にも力が入らなくなってきて、俺は蕎麦ぼうろの入った紙袋を持ったまま、とうとうその場にしゃがみ込んだ。おじいさんはそりゃびっくりしてたよ。『あんたはんどないしはったん!』ってな。『わし、なんぞおかしなこと言うたやろか⁉ あんさん! あんさん!』って。──」

 再び沈黙がおとずれた。

 藤堂さんは下を向き、ビールの空き缶を無意識みたいに右手で握っていた。落ちた長い前髪の向こうに、顎をかるく突き出すような感じで開いた唇が見えた。ぱり、ぱり、と缶が押される小さな音が部屋にひびいた。そして──そのまま藤堂さんは動かなくなった。

 僕は、野菜炒めの載っていた皿や、何本かの空き缶を見るともなく視界におさめた。そしてこのテーブルや、ヒーターの電熱棒の明かりに染まっている藤堂さんの右半分の顔なんかを──自分はいつの日か思い出すことになるのだろうなという気がなぜだかした。

 話は──終わったのだ。

 なんと言えばいいのかわからなかった。知らないうちに僕も右の手の甲で意味もなく口もとをこすっていることに気づき、膝の上に手のひらを戻した。藤堂さんは同じ姿勢のまま、動かなかった。

「つまり──」と僕はひそめた声で言った。「おばさんは、幽霊だった──」

「わからん」、藤堂さんは思いのほかすぐに答え、顔を上げた。首を振り、どこか自嘲気味に微笑わらった。

「いまでもわからん。おばちゃんにはしっかりした存在感があったし──なんといっても抱擁までしたんだからな。和服に染みついたお菓子の匂いまで嗅ぐことができた。そんな幽霊っているか?」

 藤堂さんはまた短く黙ったのち、つづけた。

「だけど──そうだったんだろうな。そうとしか考えられない。説明がつかない。正直──俺にはもうどうだっていいんだよ。幽霊だろうが、夢を見てたんだろうが。俺はたしかにあの夜、おばちゃんと再会した。──それだけでいいんだよ」

 僕もうなずいた。たしかに、それでいいのだろう。そう。それでいいのだろう。

 なぁ、八代──と藤堂さんはとつぜん硬いひびきを含んだ声を出した。テーブルに手をついて前かがみになり、首をかしげるようにして僕の目をのぞき込んだ。

「おまえは、小説家になりたいのか?」

 顔つきも真剣だった。急に話が変わり、僕はとまどった。両の口わきのあたりが強張ってくるのを自覚した。自分は職業作家になりたいのだろうか? ──わからなかった。

 僕が黙っていると、藤堂さんは冷たくも思いやりぶかくも聞こえる不思議な語調になって話しだした。

「才能はあると思うよ。おまえの書いた文章を数行追ってみると、あれよあれよというまに最後まで読まされてしまうもんな。夢中にさせられる。これはすごいことだ」

 僕はほとんど謝るように、ありがとうございますと頭を下げた。

 だけで、と藤堂さんはつづけた。

「本物、ではないよな。深みがない。俺も文学の専門家じゃないから偉そうなことは言えないけど──なんていうか──そう、〝これで日本一になってやろう〟っていう気迫みたいなものをまるで感じない。極めようっていう気もさらさらないようだ。磨きもしてない原石のままの才能をただばらまいてるって感じだ。ちがうか?」

 たぶん、ちがわなかった。気楽に書き飛ばしたものが活字になる面白さと、口座に振り込まれるわずかの金にほくそ笑んでいただけなのだ。二十歳はたちにもならない若さで──。僕は下唇を噛んだ。

 藤堂さんの口調がやわらかく、優しくなった。

「今もたくさんの人間が、日本一の小説家をめざして真剣に努力しているはずなんだよ。本物の小説を書こうと日々苦闘してる。やっぱり男に生まれてきたからには、すべてを捧げられるものを見つけたいとは思わないか? 青臭い言いかただってことはわかってる。だけど──俺はそう思うんだよ。いまもずっとその対象をさがしてる。これからもさがしつづけていくつもりだ。惚れ込んだことに捧げつくして初めて、人生ってやつは初めて人生になるような気がするから──。

「大きなお世話だってこともわかってる。だけど八代は小説に──ほんとに書くことが好きなんだったら──もっと本腰を入れてみるべきなんじゃないのかな──」

 僕はまだ黙っていた。そのとおりなのかもしれないと思った。僕も、自分自身を見つめるために独りで生活する必要があるんだと大きな口をたたき、高校を中退してまで上京してきた地方の田舎者だった。僕には藤堂さんとちがって親もいる。訳のわからない理屈をこねる僕をゆるし、いまも仕送りをし、見守りつづけてくれている両親がいるのだ。不意に、胸にしめつけられるような痛みを覚えた。

 がらにもなく説教臭いことを言っちまったなと藤堂さんは耳の後ろを掻き、目をそらした。テーブルに両手をついて、「よっ」とおどけるような掛け声とともに立ち上がった。パイプベッドの足もとのほうへ向かって歩いた。本棚のそばの押し入れの引き戸に指をかけた。ゆっくりと右にすべらし、あけた。

「これ、八代にやるよ。今夜、話しはじめたときから何となくそうしたほうがいいような気がしてたんだ。なんでだか俺にもよくわからないんだけど──」


 けっきょく、その夜が藤堂さんと会った最後の日となった。翌日、藤堂さんは競輪場にあらわれなかったのだ。上番じょうばん時間の十分前になったので僕は警備会社へ電話してみた。今日、藤堂さんはどうしたんですか、と。まだ来られませんけど? 

「トウドウ? 誰よそれ?」

 ホスト上がりの管制補佐、飯田の声が言った。またかと僕は思った。この二十三かそこらの茶髪の男はよくつまらない冗談を言うのだ。今日も紫色のジャケットをはおっているのかもしれない。僕は我慢強くつづけた。

「いやだなまた、藤堂さんですよ。僕とコンビを組んでる」

「八代くぅん、大丈夫かぁ?」、飯田は語尾を長くのばす馬鹿にしたような口調になってつづけた。「その若さでボケてどうすんのよ。なんであのポジションに二人もいるの? 近隣から苦情が出ないように住民対策で一人立ててんじゃん。寝ぼけたこと言ってないでネクタイちゃんとしてるぅ? このあいだ営業がまわってたら八代くん、してなかったって話じゃあん」

 僕は適当に笑って電話を切った。飯田はまたふざけているのだ。藤堂さんは風邪でもひいたのかもしれない。あの部屋はけっこう寒かったからな。

 だが次の日も、次の週になっても藤堂さんはあらわれなかった。不思議なことに代わりの人間さえ誰も来なかった。藤堂さんはそのまま警備会社を辞めてしまったのだ。


 あれから十二年が経った。

 僕はいま小説を書いて生活している。

 藤堂さんがいなくなったあと、僕は夜間のビル管理のほうにまわしてもらった。百円ライターや点火器関連の商品をあつかう大きな会社だったが、警備の仕事としては楽なものだった。すべての社員が帰宅するとビルの戸締まりをし、見まわりの時間以外は宿直室でひとり原稿用紙のたばに向かった。昼間はアパートに帰ってきて眠り、夕方にまたビルへ行く。社員を送りだし、戸締まりをし、朝まで小説を書く。その、繰り返し。昼と夜が逆転しているだけでそれほどきつい生活とも思わなかった。若かったのもあるのだろう。思えば生活費を稼ぎながら創作に集中できたありがたい日々だった。

 例の〝恐怖体験記〟を文庫本に収録してくれた出版社に、僕は五本の小説を送った。どれも三〇枚前後の短編。二十二歳のときのことだ。最初、持ち込んでもいいかと電話で聞いてみた。郵送してくれというのがその返事だった。読むのは何ヶ月か先になりますよ、とも。かまいません、と僕は答えた。編集者が目を通すことを承諾してくれただけで心がはずんだ。〝新人賞〟が欲しいとは思わなかった。目立つことがとにかく好きではなかった。書いたものを読者のもとに届けられればそれでよかった。そのかわり、そういう状況だけはどうしても手に入れたかった。

 電話は思いがけず二週間後にかかってきた。いちど会いませんか、と前回と同じ編集者の声が言った。裏通りにある静かな喫茶店で待ち合わせた。三十歳にも四十歳にも見える不思議な顔立ちをした男性が来た。笑みを浮かべることはなかったが威圧的なところもなく、静止画像を連想させる妙な落ちつきが感じられた。よく磨かれた靴を履き、スーツとネクタイの色がよく合っていた。

 一作一作、丹念に読んできてくれたのがわかった。低い声でアドバイスもしてくれた。納得のいくものだった。指摘された点を何度も書き直した。目に見えて良くなっていくのが自分でもわかった。毎週のように会った。あと五本、短編を書いてみましょう、とも編集者は言った。

 一年半が過ぎたある日、目の前で読んでくれていた新作の原稿を、編集者は喫茶店のテーブルの上で丁寧にそろえなおした。こちらを向き、「出版しましょう」。ほとんど初めて親密な笑顔を見せた。十代のような笑顔だった。うれしさのあまり、体じゅうの力が抜けていったのを覚えている。

 ベストセラーになったわけではもちろんなかったが、これだけの人が買ってくれたのかという目で発行部数を眺めると、それはほとんど信じられない数字に思えた。ありがたいと同時に覚悟が決まった。

 二十五歳のとき、二冊目の短編集を出した。前作よりも少し売り上げを伸ばした。

 そして二十七歳のとき、中編二作をおさめた三冊目の本がよく売れてくれたのを機に、僕は勤めを辞め、創作に専念することにした。生活が立ち行かなくなったらそのときはまた考えればいいさと気楽にかまえた。

 日本一の小説家をめざしているのか、と尋ねられれば、「わからない」といまでも答えるしかない。ただ、書きたい、というこの情熱に素直に従おうと思う。努力することも苦しいとは思わない。努力だとも思わない。一生を終えるとき、いちばん最後の作品が最高傑作であることを望んでいる。いちばん最後に書いた文章が最上の文章であってほしいと願っている。──そんなふうに、思っている。

 時どき、僕はこんな想像をすることもある。どこかの町で、藤堂さんが駄菓子屋を開いているところを。子どもたちに哲学的な話を聞かせているところを。干し草みたいな匂いのする男の子や女の子が藤堂さんにしがみついているところを。子どもたちのその甲高い笑い声を。「おっちゃんは日本一の駄菓子屋のおっちゃんやで!」と四十歳を過ぎた藤堂さんが、がなっているところなんかを。

 藤堂さんにまた会いたいと思う。彼は僕の本を読んでくれているだろうか? 

 窓から差し込む秋の陽射しが小説原稿を染めている。常緑樹を通して届くその光は、ゆれ動く模様を作っている。楕円形の光斑が三角の影にまじわり、たわむれ、離れてはまた重なり、いつしかひとつの光となって判別もつかなくなる。

 僕は原稿から顔を上げ、仕事場の西側の壁に、また目をやる。

 藤堂さん、僕はいま、五冊目の本を書き上げたところですよ。〝おばちゃん〟のエピソードを作品に組み込んだ、初めての本格的な長編小説ですよ。


 あんたは気が弱いんとちがう。神経の感度が人より良すぎるんや。もちろんそういう人間にしかできひん仕事、役割いうもんがあるんや。


 藤堂さんがあの夜くれた〝巨人の野球帽〟は、いまも僕の仕事場の壁に、大切にかけられている。











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記憶のたわむれ 智(とも) @blueanatatowatasinohonn

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阿刀田高選「奇妙にこわい話」優秀賞受賞、佳作受賞(共に光文社文庫収録)。銀華文学賞佳作受賞2回。太宰治賞二次選考通過。群像新人文学賞、新潮新人賞、小説宝石新人賞一次選考通過。「文芸思潮」57号に小説…もっと見る

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