記憶のたわむれ

智(とも)

第1話

 窓から差し込む秋の陽射しが小説原稿を染めている。常緑樹を通して届くその光は、ゆれ動く模様を作っている。楕円形の光斑こうはんが三角の影にまじわり、たわむれ、離れてはまた重なり、いつしかひとつの光となって判別もつかなくなる。

 新作の二十回目の書き直しがいま終わった。三週間寝かせたあとの推敲でほとんど直したいところがなかったから、これを決定稿としてもいいのかもしれない。いつものようにまたいじり続けるのだろうけど。僕の手を完全に離れ、印刷にまわされるまで。

 初めてあの話を──と僕は思った。作品のなかに組み込んだな。

 十九歳だった僕にその話を聞かせてくれたのは、藤堂とうどうさんという三十一歳になる男の人だった。

 それからすでに十二年の月日が流れた。いまでは僕も三十一歳になったというわけだ。

藤堂さんとの付き合いは、もうない。彼がどこにいるのかもわからない。藤堂さんなどという人物が本当に存在したのかどうか、時どき不安になることもある。

 彼のことを、最近よく思い出す。そんなとき僕は、コンピュータのディスプレイから視線を外し、仕事場の西側の壁に、ふっと目をやってしまうのだ。

 そこにかかったを、しばらくのあいだ、じっと見つめる。

 

 藤堂さんと出会ったのは、東京の警備会社でアルバイトをしているときのことだった。僕もずいぶんな数のアルバイトを経験してきたけれど、その仕事はもっとも楽なものだったといっていい。

 僕が派遣されたのは競輪場での警備だった。競輪場といっても場内の仕事ではなく、その外周での警備。つまり、競輪にきた客が路上に車を止めようとするのを注意し、無料駐車場のほうへまわってもらうというもの。競輪に来る人たちはしかしほとんどが常連で、言われなくとも駐車場のほうへ行ってくれた。たまに知らずに止めようとする人もいたが、駐車場の場所を教えると素直にしたがってくれる。けっこう大きな駐車場だったし、なんといっても無料なのだ。警備員と喧嘩してまでわざわざ路上に止める必要などどこにもない。

 そんなわけで、僕たちにはほとんどやることがなかったのだ。そう、そのポジションを担当していたのが、僕と藤堂さんだった。

八代やしろ、おまえはいい現場へまわされたって喜んでるけどさ──」と藤堂さんは言った。「ここはいちばんの不人気ポストなんだよ」

「そうなんですか?」、僕はびっくりして聞き返した。「だって、ほとんどやることがないじゃないですか?」

 だからさ、と藤堂さんは二重瞼ふたえの大きな目でいたずらっぽく微笑む。長めの前髪で半ば隠れているが、額から右の目尻にかけて深い傷跡が走っている。鼻筋はとおり、耳の下から顎さきにかけての輪郭がシャープだった。「ほとんどの人間にとってなにもすることなく、ただ一日じゅう立ってるっていうのは苦痛なことなんだよ、すっごく」

 はぁ、と僕はあいまいに返事した。「そういうもんですかね」

「そういうもんなんだよ」、藤堂さんはまた微笑をうかべる。

 藤堂さんは僕より一〇センチ以上背が高く、百八十五センチもあったから、並んで話していると空が背景となって見えた。視線を落とすと住宅の連なりがあり、すこし遠くに避雷針のついた古めかしい煙突が見えた。いまでもそのなんてことのない光景が、どうしてだかよみがえってくることがある。晴れた空。その下の家並み。避雷針のついた煙突。手前で微笑わらう、目鼻立ちのはっきりした藤堂さんの顔。似通った町筋を歩いていると、不意にその情景が浮かんでき、脳裏で重なり合って、悲しみにも似た懐かしさを覚えるのだ。

「俺は路上に立ちながら、一日じゅう考えたり、思い出したりしてるんだよ」と藤堂さんは言った。「これからのことや、いま東京の地に暮らしていること。過ぎ去った日の一コマ一コマ。〝おばちゃん〟の言ってくれた、言葉の一つひとつなんかを──」

 たしかに僕と藤堂さんはどこか似たタイプの人間ではあったのだろう。一人でいることが苦にならなかったし、思考の海をのんびりとただよったり、深く潜っていくのも好きだった。だから十年以上たったいまでも、僕は藤堂さんのことを懐かしく思い出すのかもしれない。あの部屋や、あのテーブル。ヒーターの電熱棒の赤さ。そして藤堂さんが手をかけた押し入れの引き戸。その話を語ってくれた、十二年前の夜のことを──。

 僕は当時から物を書いていた。だけど小説家になる決心をし、本腰を入れはじめるのはまだ少しさきのことだ。

 十八歳になったばかりのころ、なにげなくめくっていた月刊誌に 〝恐怖体験記募集〟という記事が載っていた。それで冷やかしのようなつもりで恐怖体験を〝創作〟して送ったところ、それが雑誌に掲載されたのだ。思えばあれが活字になった最初の経験だった。意外なほど嬉しかったのを覚えている。賞金がもらえ、文庫本にも収録されたのでわずかではあったが印税まで入ってきた。

 僕は怪奇体験をよそおった作り話を書きなぐった。それがまた立てつづけに二本、三本と掲載された。金が振り込まれた。有頂天になった。それでことあるごとに、あなたはなにか怖い体験がありませんか? と人に聞いて歩くようになったのだ。別にたいした話が聞けなくてもよかった。ヒントにさえなれば、脚色して面白いものに仕立て上げられた。

 そんな時期だったから──藤堂さんと親しく言葉をかわすようになり、僕は藤堂さんにも尋ねてみたのだ。何か怖い体験はありませんか、と。

 藤堂さんは遠いところにある眩しいものでも見るような目つきになって、僕を見ていた。まるで僕の顔が特殊な映写幕になり、そこになにがしかの光景が映っているみたいに。たっぷり二十秒はたったのち、藤堂さんはやっと「あるよ」と平板な声を出した。

「怖いといえば怖いし、そうでもないといえばそうでもない。だけど不思議な話であることは間違いないだろうな。なんといってもこれはおまえの書いてるでっちあげとはちがって、正真正銘の実話だからな──」

 藤堂さんは路面の一点を見つめ、しばらくなにかを考えていた。それから目を上げて僕の顔をもう一度見た。

「聞かせてやってもいいから、今日、仕事が終わったら俺んちへ来るか?」

 その顔は微笑んでいたが、どこか強張っているようにも見えた。目の表情から、飄々ひょうひょうとした、いつもの柔らかみが消えていた。

 僕は、藤堂さんの部屋へ初めて行くことになったのだ。






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