第24話 研一への思い

「泣いてんのか?」


 雪はうつむき、握りこぶしをただ固める。

 数秒の静寂の後、鼻をすする音が聞こえると、そのまま何滴かの雫が地面の上にこぼれ落ちる。うさぎ耳と小悪魔の羽がすっかり元気なさそうにしおれていた。

 やがて一つ深呼吸をすると雪は、手に持っていたものを力強く研一の目の前に突き出した。それは先ほど雪が「買おうとしていたもの」だった。


 研一はその突き出されたものを見た。

 そしてそれを見た瞬間、研一はまるで全身に水をかけられたように、一気に熱が引いていくのを感じた。


「これって……」

「私、今日の事ずっと楽しみにしてたんだよ? 研一君にどんなのが似合うかなって、色々考えてたんだよ? 家でもずっと、学校の帰り道でもずっと……それなのに」


 そこには、「to Kenichi」とかかれた、男性用の服と、アバターがあった。

 そしてそれはサンプルではなく「Today Land」という今若者に人気のブランドだった。

 しかしそれは先ほどの研一の一撃の衝撃を受け、すっかりぼろぼろになってしまっていた。


「あの……ごめん」


 ただただそうとしか言えなかった。

 決して裕福とは言えない家庭のはずだった、そんな雪が自分のためにわざわざ買ってくれた——。


 雪の言うメインイベントとはこの事だったのだ。

 それをよりによって自分がぶち壊してしまうなんて……。


 研一は自分のしてしまったことを心から後悔していた。もっと冷静に動くべきだったのだ。ただいくら後悔してももう遅い。自分がやってしまったことはもう元には戻せない。


 雪は数回鼻をすすった後、ぼそっと呟いた。

「……私、今日はもう帰るね」


 そう言って雪は胸からスマホに似た端末、コマンダーを取り出した。そして無言でスイッチに手をやる。


「おい、ちょっと待てって」


 その言葉を聞かずに雪はコマンダーのスイッチを押すと、目の前からいなくなった。オルタナの中でも自分に馴染みのある場所、ホームスペースに一旦戻ってからログアウトするだろうと思われた。

 研一もすかさず自分のコマンダーを取り出した。

 まだ近くにいるかもしれない、そんなかすかな期待を胸に「トレース」機能を起動した。

 「トレース」機能を使えば、知人の移動履歴が分かる。まだログアウトしていなければ、大体の場所が分かるのだ。


 数秒経ち、コマンダーにはとある場所が現れた。


 ——いた、まだオルタナにいる——


 それが分かると、直ちに研一も後を追うべく、コマンダーの「ムーブ」ボタンを押した。すると、研一は一瞬にして、雪が居ただろう場所へ移動した。


 そこは先ほどのザックタウンだった。

 そして「トレース」が指し示す方角へ研一は進んでいった。

 そしてとある場所の前で立ち止まる。「トレース」は明確にそのとある1点を指していた。


 ——ここの中にいるのか——


 そこはザックタウンの試着室だった。

 いくつかある試着室の中、一つだけ使用中のものがあり、そこは鍵がかかっていなかった。研一のトレースはまさに今目の前のその赤いカーテンで閉じられた、その空間の中心部を指していた。


 もし雪のスティールバグが無かったら。

 もし研一が冷静な判断を出来ていれば。


 その数々の「もしも」が一つでも起きていたら、これから起きる悲劇はひょっとしたら防げたのかもしれない。

 死に物狂いで雪を追いかける今の研一に、その裏に隠された「真実」に気づく余裕は残念ながら残されていなかった。


「雪、そこにいるのか」


 あたりの喧噪以外、何も聞こえない。


「さっきは、本当にごめん。俺、何といっていいのか……」


 試着室カーテンが時折かすかに揺れる。


「だから、許してもらえないか。頼む」


 カーテンは先ほどから同じように時折揺れるだけだった。


「なあ、雪、開けるぞ、いいな?」


 そう言って、研一はゆっくりカーテンを開けた。


「あ……」


 中には予想だにしなかった驚愕の景色が広がっていた。


 そこはニコニコした、そしてどこか無感情な雪が、持っている服を胸に当てて、鏡を見たり、その服を置いたり。ただそれを何度も何度も繰り返していた。


「雪?」


 そう言いながら試着室に一歩踏み込んだ瞬間、後ろのカーテンが、ざっ、という音とともに瞬時に閉まった。


「しまった」


 そう思った時はもう手遅れだった。

 先ほどの研一の振りかざした天叢雲剣あめのむらくもの衝撃を遥かに上回る地揺れが突如始まったかと思うと、研一の意識は、遥か遠くに飛ばされていった。

 

 遥か深い闇の奥で、研一というプログラムの存在を狙っていたその「者」はついにターゲットを捕まえる事に成功したのだった。


19:21:41

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