第61話 回想
春のけやき並木は今年も優しい風に身を委ね、幸せそうに揺れていた。
ある者はもうすぐやってくる新生活を楽しみ、ある者はその別れを惜しみながらもこの季節を迎える。
研一は歩いていた。
もうすぐ春か……この季節だけは、現実世界もいいな、と思えるのだった。
特に今年は去年と違う。
隣にいる人物の存在は、研一の心の大きな支えとなっていた。
「あ、ちょうちょ!」
ひらひらと舞う蝶をまるで踊るように追いかける雪を少し離れたところから眺めていた。
「一年、か」
あの凄惨な事件が起きたのは、丁度一年前の今頃だった事を、この暖かな風が教えてくれた。
「………」
研一はふと、あの事件の後の事を思い出していた。
緊急停止世界が終わりオルタナが復旧した後、研一と雪の元には警察も含め、アプリコット社が調査が早速入った。
幸い二人の「身体」には何も害は無く、通常通りのログアウトが出来ていた。
アプリコット社は直ちに、
『安全なオルタナへ、今回は被害者なし』
と大々的に発表した。
しかしどのニュースを見て見ても、一番の立役者であるJの犠牲は取り上げられていなかった。
Jの言っていた通り、研一と雪の履歴は削除されずに残っていたため、それを分析することで、クラッシュのプログラムはアプリコット社のプログラマーによって削除され、その後防護プログラムも構築された。
研一にはどうしても納得のいかないことがあった。それはJのことだ。被害の話、今後の対策プログラムの話にしろ、どの話をしてもJの事が全く取り沙汰されない。
その事を不思議に思った研一は、試しに一回だけアプリコット社にハッキングし、あのクラッシュの24時間の履歴を閲覧したことがある。
その内容は研一にとって度肝を抜かれるものだった。
「おかしい……」
確かに、クラッシュでの研一や雪、ウルフの会話は残っていた。
しかし大事な部分が欠けていた。
「無い、どこにもない……」
途中途中で、あるはずのJの会話や行動の履歴がすっぽり空白になって抜けていた。
確かに自分は会話をしているはずなのに、それに答えるJの言葉は完全に空白になり、まるで独り言のように記録されていた。
アプリコット社が犠牲者ゼロをアピールするために敢えて削除したのか、そもそもJという存在をアプリコット社が知られてはまずいため、消したのか。そのどちらにせよこのやり方は雑すぎる。
もしかして……。
色々考えればその答えも考えられなくもないが、敢えて研一は考えないようにした。
ただ一つ間違いなく言えることは、最後に交わしたJとの握手は誰よりも暖かく、優しさに溢れ、人間の血が通っていたという事だ。
あれからオルタナ上でJのプログラムと出会う事は今のところ無い。
隈なく探せば、足取りくらい掴めるのかもしれない。しかしその、探す、という行為すらされることは結局無かった。そもそも、研一のオルタナでの行動範囲自体が今までと比べ物にならないくらい狭くなった、というより狭くしていた。必要最低限のことのみをこなすようになっていた。
オルタナ全体としては小さなトラブルはあっても、クラッシュほどの大きなトラブルは今の所起きていない。
次第に、人々の記憶の中からもあの凄惨な事件は忘れ去られようとしていた。
「おっす! 二人で仲良くお帰りか?」
突然、研一の頭に誰かのカバンがゴツンと当たった。
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