第60話 Jの告白

 Jは冗談を言わない。

 その気になれば世界を手玉に取れるほど、卓越した頭脳を持つが人物から明かされる真実。それはそう簡単に受け流せるものではない事は研一も十分承知していた。

 だからじっと待った、その次の言葉を——。


「この緊急停止状態が終わり、元のオルタナが復帰するまでおそらく数分足らずでしょう。その復帰が完了した頃、僕の命は終わります」


 Jはわかりにくい比喩は使わない。命が終わる、ということは命が終わるということだ。


「命が終わる? J……何でだよ」


 Jは冷たく、硬いその表情を変えなかった。


「ご存知の通り、僕はオルタナで管理されている生命維持装置で生きています。今回クラッシュがあっても通常はバックアップがあり、問題ありません。しかし……」


 少しだけJの表情が霞んだようにみえた。


「しかし、今回僕は公式ルートを通らず、しかも誰にもこの事を告げる間もないままクラッシュにアクセスしました。そうしないとあの空間には入れなかったからです。この場合カオスによって一度オルタナの機能が止まってしまうと、バックアップ機構が働かないんです。しかも周りには僕はしばらく元気に生きている『嘘』の僕が認識され、きっと誰も助けに来ません。実際今の僕のバイタルサインはかなり危険な状態ですが、想像通り誰もそれを改善しようとしない。僕の命が後わずかなのは間違いないようです」


 その衝撃の事実を淡々と述べるJにケンイチは恐怖すら感じた。


「お前……まさか、最初からこうなること分かって——」

「もちろん、最初はこんな事になるとは予想していませんでした。まさかカオスを本当に起動させることになるなんて2%しか思っていませんでしたから」


 研一は拳を握りしめた。 

「おまえ……ふざけんなよ」

「えっ?」

「お前、言ったよな? 自分の命を犠牲にしてまでリスクの高い選択するなんて信じられないって。最も犠牲にしてるのは自分じゃねぇか!」


 Jは少しうつむいていたが、やがてゆっくりと顔をあげ、その済んだ瞳でケンイチをみつめた。その瞳はなぜか少年の顔をしたはずのJがまるで何十年も経験を積んだ大人のように見えた。


「ケンイチ。第2の方法のとき、もしケンイチが『一人で脱出』の方法を選んでいれば、事は済みました。僕はその言葉を聞いて、安心してあなたたちを見捨てることができました」


 研一の鼓動が静かに、そして速く走り出した。最初は1つ、そして2つ。気づけば全身の鳥肌が立ち始めていた。


「第2の方法なんて元々無かったんです。僕は試したんです。ケンイチがもし1人で脱出することを選んだのを聞いた瞬間、僕はあなた達2人を含むあのクラッシュのスペースを捨て、離脱する予定でした。クラッシュの情報は十分収集できましたし、次につなげることも可能でした。しかしあの時のケンイチは違った。最後まで全員生き残る事、ユキを助ける事を選んだ。

 その答えを聞いて僕は決めました。どんなことがあろうともあなた達を助けたいって。それがたとえ自分の命を犠牲にすることとなったとしても」


 まさに丁度このタイミングで、雪が戻ってきた。


「ねえ、今度のちょうちょはすごいよ? 虹色だった。あれどうしたの二人とも」


 研一はいつしか頭を垂れ、目から大粒の涙がこぼれていた。


「ユキ。あなたにもこのワインをどうぞ」


 雪は研一の様子を気にしながらも、渡されたワインに口をつけた。


「おいしい! 私ワイン飲むの初めてなんだ」


 Jは笑い飛ばした。


「ユキ、そろそろお別れです」

「もう? せっかく仲良くなれたのにね。色々疑ったりしてごめんね〜」

 そう言って、大きな瞳を細くし、首をかしげた。

 それを聞いて、Jもとびきりの笑顔を返した。

「いいんです。確かに怪しい人には違いありませんから」


 突如、空にメッセージが現れた。


『復帰まであと1分』


 徐々にまわりの草原や、空気がざわめき始めた。


「さあ、この『天国』ももうじき終わりです。ユキ、お元気で」


 モニターから、すっ、と手が出てきた。


「すごい、J君。こんな事で来たんだ」


 雪はその手を握り返した。

 そしてその次に研一にその手を差し出した。

 しかし研一は動かなかった。


「さあ、ケンイチ、もう時間がありません」

「なぁ、J」

「はい?」

「本当に最後なのか?」


 Jは淡々と答えた。


「最後、というと?」

「もうお前はいなくなるのかって聞いている」


 Jは少し考えてから淡々と答えた。


「一応、万が一のことがあったら、僕の全頭脳、行動パターンを分析したコピープログラムはオルタナ上に放流されることになっています。ひょっとしたら、実在の僕はこの世にいなくても、オルタナ上では僕は普通に存在しているように見えるかもしれません。きっとオルタナのどこかでまた僕の意思、感情をコピーしたプログラムとなら出会えるかもしませんね」


 研一はびしょびしょになった両目と額をぬぐってから、ゆっくりとそのモニターから差し出されたJの手を握り返した。

 その手は暖かく、そして力強く、誰よりも「人間の血」が通っていた。


「ケンイチ。ありがとう、あなたたちのような賢く、勇敢な人たちと出会えて本当に良かった。後の事はよろしく頼みましたよ。ユキの事も大事にしてあげてくださいね」


 その含みを持った言葉に、研一と雪は頬を少し赤らめた。


「それでは皆さんお元気で——」


 ゆっくりと緊急世界はモザイク状のチリチリとした空間が現れ始めたと思うと、徐々に暗くなり、次第に何も見えなくなった。いよいよオルタナが復帰したのである。


 その消えゆく世界の中、一つのつぶやきはそのモザイク状のチリチリの中に消えて言った





——母さん、仇はとったよ。きっと、これでよかったんだよね……

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