カウント0

第57話 天国

 風が、その心地よい波が草原の海を優しく撫でていた。

 ススキのような、その柔らかい先端が、そよそよと優しく揺れる。その穏やかな演舞の遥か遠く、その地平線のまだ先に、おそらく昼下がりの太陽がその様子を暖かく見守っていた。


 小鳥のさえずりだろうか、時折何かの鳴き声も耳に入ってくる。じっと待っていれば、どこかから子鹿でもひょっと顔を出してきそうだ。


 誰にも邪魔されず、何も考えず、自由な時間を過ごす。こんな時間を過ごすのはいつぶりだろうか。

 

 ひらひらと蝶が舞っている。見たことのない真っ白な蝶が。

 この蝶は一体どこへ向かうのだろう?

 いずれ、そのひらひらと舞う羽は一つの黄色い花に辿り着くと、その蜜を吸い始めた。


 その様子をじっとみつめる一人の女。

 一生懸命蜜を吸う、その光景を見つめられていることに気づいた白い妖精は、恥ずかしそうにまた新たな花を探しに飛び立つ。


 そのひらひらと舞う自由な動きを最後までじっと、女は眺めていた。最後まで、最後まで——やがて太陽の光に消えて見えなくなるまで。眩しさを遮る様に、遠くを見つめる様に右手を目の上に当てながら。

 そのうさぎ耳と小悪魔の羽根をつけた女は、表情にきらきらとした微笑みをあふれさせた。まるでのその消えゆく蝶に思いを馳せるように。


 ふとその奥にある刺すような日差しを思い出すと、少し眉をひそめる。

 大きなあくび、両手を天に突き出し仰け反ると、ふぁ〜という声が漏れ出た。


 それから、よしっ、と声を出すと目の前に広がるお花畑の中を飛び跳ねた。まるでダンスでもしているかのように。


「あー、いい気持ち」


 一通り走り回ると女はススキ製、ふわふわ、ふかふかの大きなベッドに飛び込んだ。そして仰向けのまま両手を頭の後ろに組むと、左目を閉じる。そして残った右目で、天に浮かぶ月を見つけると、右手の親指と人差し指でそれを掴もうとした。


「気持ちいいね〜」


 女が横たわるそのすぐ近く、一人の男がいた。

 男は上半身を45度起こし、両手で後ろを支えていた。

 時折吹き付ける風が前髪と、白いTシャツをなびかせたが、それに抗おうとはしない。


「私ね、天国がこんなに気持ち良いところだって知らなかった」


 相変わらず、時折優しい風が二人の頬を撫でる。

 夏なのか冬なのかも分からないその空間で流れる時は、まるで永遠のようにも感じた。


「あっ、ちょうちょ! 今度は虹色だよ〜」


 そう言うと女は、再びお花畑へ走り出していった。


 男はただじっと黙って、空を見上げていた。

 その視線の先にあるもの、それはススキでも太陽でも、ましてやちょうちょでもなかった。

 ただただぼーっと見つめるその先の「空」とされる場所に浮かび上がる文字、それを眺めていた。それは嫌でも目に入る。「空」という場所には似つかわしくない、不自然な光景だった。


 その文字は16カ国の言葉で書かれていた。


『しばらくお待ちください』


 そして再び目を閉じると一つ大きく深呼吸をするのだった。

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