第37話 1人目の犠牲者

「よし、ウルフ、こうしよう」


 研一の声は、まるで波一つ立たない深夜のプールのようだった。

 突如、不気味な笑い声が止まると、辺りは一瞬にして静寂に包まれる。忘れかけていたどこかの店のBGMが再び楽しげに現れても、その空間は絶対零度の海のように凍りついたまま。

 誰もが研一が放つその言葉を、固唾を飲んで耳を傾けた。


「もしここから脱出出来たら、俺らはお前をオルタナポリスには突き出さない。それだけじゃない」


 研一は一つ、息をのんだ。


「俺の持ってる天叢雲剣あめのむらくもをやろう」


 Jは目を大きく見開くと、驚きのあまり息が止まった。


「ケンイチ、何を言ってるんですか! あれを完成させるまでにどれだけの労力が費やされたと思っているんですか。それをこんなチンピラに渡すなんて……」

「いいんだ」


 研一の声に迷いは無かった。


「ここで死んじまったら、元も子もない。仕方ないんだ。この条件でどうだ? ウルフ」


 ウルフの時が止まった。

 顔は狼、体は大柄な人間。もちろんオルタナ上の演出なのだが、本物の人間がきっとどこかにいるはず。そいつは一体どんなやつなのだろうか? そのじっと佇むウルフの様子から、研一はその本性を覗き込もうとしていたのかもしれない。


 ウルフはしばらくしてから一つ、ふん、という馬鹿にするような息を漏らした。

「本当か? そんな事言ってどうせ俺をめようとしてるんじゃないだろうな?」

「そんなことはない。ここに『オルタナ契約』を結んでも良い。ここで結んだ契約はオルタナ上では絶対に覆らない」


 しばらく考えていたウルフはやっと口を開いた。


「ほぅ、そりゃ面白い。天叢雲剣あめのむらくもを手に入れたら、途方も無い額になるからな」


 Jはそのウルフの表情を見つめながら、ごくりと一つ唾を飲み込んだ。


「わかった、その条件、のんでやろう」


 ふう〜、そういって雪が肩の力を抜こうとしていたその時、

「な〜んてな! 俺様がそんなこと言うと思ったか? 俺様だけ脱出すればお前はクラッシュで死ぬ事になる。そうすればお前さんのレアアイテムは全部元々俺のもんだ。そんなのも気づかなかったのか」


 そういってコマンダーの緊急脱出ボタンに手を置いた。


「ウルフ、待て、やめろ!」


 凄まじい剣幕で叫ぶ研一の声が、部屋中に響く。その迫力に、あたりの空気が揺れた。しかし、それをまるで楽しむかのように大きな舌を出しすと、ウルフは3人に一瞥をくれた。そして最後に呟いた言葉はこうだった。


「じゃあな、アディオ〜ス!」


 直ちに押された緊急脱出ボタンは、ウルフの全身に電流を流し始めた。ぴくぴくと痙攣を引き起こしたその姿は、あたかも死刑囚の受ける電気椅子、一つの生命体としての価値を完全に否定されている映像だった。そして数秒の痙攣のあとウルフは、ぐにゃりと、まるで骨を抜かれたように前のめりになり、そのまますぅっと、後ろにいた死神と共に消えた。


 壁を見上げると、3つあったハートの一つが変化するところだった。鼓動のある鮮やかなピンクから薄暗い灰色となり、やがて動きを止める。


「死にました」


 Jの呟きはまるで死亡宣告のようだった。


 おぼろげながら見えていた、クラッシュの出口。それはまさにあと一歩のところで一瞬にして手の届かない場所へと消え去ってしまった。


 それだけではない。

 分かってはいたが目を逸らしていた「死」という現実。それがあと数時間後に自分達に襲いかかってくるのだという事実が、改めて2人の目の前に突きつけられた。


 辺りは再び鈍い灰色で包まれた。


 「ケンイチ。残念な結果となりましたが、今は悲しみに暮れている時間はありません。今出来る事に専念しましょう」

 研一はうなだれていたこうべを、意図的に持ち上げた。そして小さく、そして何度も自分に言い聞かせるよう首を縦に揺らした。

「そうだな、Jの言う通りだ」


 それから研一は雪に目をやった。ウサギ耳と小悪魔の翼はすっかり元気を無くし、へなっとしおれていた。そして唇を噛み締めながら、ただじっと、地面の一点を見つめる。先ほどの映像がまだ頭から払拭されないのだろう、肩が小さく震えていた。

「雪」

 その声に雪はまるで目が覚めたように、はっ、と研一を見た。その大きな黒い瞳はうるんで、あたりの光を反射していた。黒く輝く長い髪がさらりと溢れた。

 研一は力強い表情を作り、そしてゆっくり、そして大きく頷く。言葉は無かった。ただきっと伝えたいことは届いたに違いない。雪はまるで、大丈夫、と返事をするかのように、必死で笑顔を作った。


「J、脱出方法は3つあるって言ったよな? そろそろ教えてくれないか、2つ目の方法ってのを」


 そうだ、まだまだ方法はあるんだ、その事実を思い出し雪も少し笑顔が戻ってきた。

 一方Jは、一つも感情を交えず、そのまだ幼さの残るその表情のままこう告げた。


「分かりました。それでは2つ目の方法を説明します」


 何故Jの表情がそこまで柔軟性に欠けていたのか、その意味をまだ研一は気づいていなかった。


09:23:29

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