其ノ拾弐 ~一月ノ行ク先~


 放課後、高校を後にした一月の向かう先は、彼の家では無かった。曇天の空の下、一月の足は別の場所へと向かって歩を進めている。


「ねえいつき、どこ行くの?」


 傘をさして黙々と歩いていると、千芹から問いかけられる。彼女は雨水をまともに浴びているにも関わらず、和服にも黒髪にも濡れた痕跡が無い。

 学校に来る時と同じだ、彼女は雨に濡れる事などないのだ。


「黛先生の所に行く。道場に」


「まゆずみ……せんせい?」


 怪訝な面持ちを浮かべつつ、千芹は訊き返してきた。


「黛玄生先生。僕と琴音に剣道を教えてくれていた先生だよ」


 一月と琴音、二人の剣道の師匠だった男性が、黛玄生だった。会わなくなってから数年経つものの、一月は現在も彼の事を覚えている。師匠として黛は、一月と琴音に剣道の基礎からしっかりと教えてくれたのだ。

 黛は歳若く、優しい男性だった。時に厳しく、しかし普段は温厚に、当時まだ小学生だった一月と琴音に接してくれた。

 剣道の事だけでなく、一月が悩み事を抱えていた時は親身になって相談に乗ってくれていた。剣道の師匠、それだけの間柄にもかかわらず、一月にとって黛はまるで父親のような暖かさを感じさせる人物だった。 

 一月にとって、心から尊敬している『師匠』である。恐らくは、琴音も彼を慕っていたに違いなかった。


「その人が……あの本をかいたの?」


 千芹が問いかけると、一月は頷いた。


「小さい頃に聞いたんだけど、黛先生、剣道の先生だけじゃなくてルポライターもやってるんだ」


 ルポライターとは、社会的事件や事象について現地取材し、記事にルポタージュする仕事を持つ人の事である。

 剣道の先生という仕事の傍ら、黛はルポライターとしての一面も持っていたのだ。一月が図書室で見つけた女子中学生変死事件に関する著書は、黛が著した物だったのである。

 もしかしたら、彼も一月と同じように事件の真相を探ろうとしていたのかも知れない。


「もしかしたら、あの本に書かれていた事以外にも何か掴んでいるかも知れない。それに……」


「それに?」


 一月は、依然として無数の雨粒を落とし続ける灰色の空を見上げた。

 数週間前まで太陽を浮かべていたとは思えない、汚水を吸った脱脂綿のような灰色の雲に支配された空が見える。


「…………」


 一月には、この灰色一色に染まった無機質な空がまるで、自分の心境のように思えた。

 琴音が亡くなってから、彼はまるで心をあんな灰色の雲に覆われたかのような想いで生きてきたのだ。どれだけの時が過ぎても朝を迎える事の無い、永遠に終わりの見えない夜を迎えたかのような気持ちで――。


「……黛先生に伝えておこうと思うんだ。廃屋で会った琴音の事」


「……つたえて、それでどうするの?」


 不意に、一月の足元から水が跳ねる大きな音がした。足元を全く見ずに歩いていた一月は、泥に濁った水溜りを踏んだのである。

 泥水が大きく跳ねて一月の靴や制服の裾を汚すが、彼は気にも留めず、続けた。


「分からない。けど、伝えておかなければいけない気がする」


 雨粒が傘を叩く耳障りな音が、一月の周囲を満たしていた。


「琴音の悪霊……鬼の事も、あの本に書いてた先生の考えが的外れじゃなかった事も。黛先生なら、何か力になってくれそうな気がする」


 かつて自身の師であった男性――黛玄生に接触を図る事が、一月に思いつく最善の策だった。

 何が真相なのか、答えは何処にあるのか。

 鵲村に秋雨を降らせ続ける灰色の空の下、一月は再び千芹と共に歩を進めていく。



 ◎ ◎ ◎



「ここに来るのは、二年振りか……」


 一月の眼前には、彼が五年間通っていた剣道場が佇んでいた。一階建ての、いかにも日本風な面持ちを持つ剣道場。表札には『鵲村修剣道場』と、味のある筆字で書かれている。


「ここが……いつきの通ってたけんどうじょう?」


 千芹が問いかけると、一月は首を小さく縦に振った。


「そうだよ」


 一月がこの鵲村修剣道場に足を運ばなくなってから、二年が過ぎていた。

 けれども一月の目には、通っていた頃と何ら変わらなく見えた。味のある筆字で書かれた表札や、荘厳な雰囲気を醸す日本風の外観。見た目には、一月と琴音が共に稽古に励んでいた頃と何一つ変わっていない。

 しかし、今日の天気の所為だろうか。

 灰色の空の下に佇む剣道場の姿は、一月にはどこか不気味に思えた。

 荘厳な雰囲気が辺りの背景――灰色の空や雨に相反され、おどろおどろしさを醸している。


「はっ……!?」


 一月の後ろで、千芹が声を漏らした。まるで、何かに気付いたかのような声色である。

 後ろを振り返り、一月は彼女に問いかけた。


「どうしたの?」


 千芹の瞳は一月をすり抜け、剣道場へと向けられていた。


「……ううん、なんでもない」


「……?」


 怪訝に思ったものの、一月はそれ以上問いを重ねようとはしなかった。

 と、その時。修練場の引き戸が開かれ、一人の青年が姿を現した。青年は雨の降る景色を見ると「あちゃー、全然止んでないな」と呟き、傘を広げた。


「ん? 君……剣道やってる人?」


 剣道場の前に立つ一月に気付いた青年は、声を掛けた。しかし、一月の後ろに立つ千芹には全く反応を示さない。青年には千芹が見えていないのだ。


「あ、いえ僕は……」


 突然話しかけられ、一月は身じろぎした。

 今、一月は剣道をやっていない。青年にどう言葉を返せばいいのか、迷う。


「そうだよ、って言って」


 不意に、千芹が一月に命令した。

 一月は困惑する。


「え……!?」


 千芹の言葉に対する反応を表に出さないよう、一月は無意識に堪えた。

 目の前の青年は、一月と違って千芹の姿が見えていないし、彼女が発する声も聞こえない。

 千芹と会話する時は気を付けなければ、一月の言動が端から見ると不自然に見えてしまうのだ。


「そ、そうです。学校が終わったから、自主練習しようと思って」


 嘘を交えて、一月は言葉を取り繕った。

 一月が通っていたこの剣道場では、決められた練習時刻以外の時でも自由に出入りし、練習する事が認められているのだ。勿論、他の者の練習予定が入っている時は使えないし、事故の場合や防犯の為、教官室には常に大人が居る規則になっているが。

 青年は答える。


「熱心だね、頑張って」


 そう言い残すと、傘を差しながら青年は歩き去って行った。


「……」


 青年の背中には、竹刀入れが背負われていた。

 一月の脳裏に、ふと自分が剣道をやっていた頃の記憶が過る。

 竹刀を背負って剣道場を後にする青年と、二年前までの自身の姿が、重なって見えた気がした。そう。二年前までは一月もああして竹刀入れを背負い、剣道場へと足を運んでいたものだった。今は亡き想い人、秋崎琴音と一緒に。

 二年前まで彼女はいつも一月の隣に居た。琴音という少女が、琴音の優しさが、琴音の笑顔が、いつでも一月の隣に在った。

 何年、何十年経とうとも心に留めておきたくなるほどの、幸福で鮮やかな思い出。喧しい雨音が聞こえなくなった気がした。鬱々な雰囲気を醸す灰色の空など、見えなくなる気がした。一月はまるで憑りつかれたかのように、琴音との思い出を思い返す。


「いつき?」


 呼び掛けられて、我に返る。


「!!」


 一月は我に返る。雨粒が傘を叩く音が、再び耳に入り込んで来た。これが現実なのだ、とまるで一月に言い聞かせるかのように。

 幻影を振り払うかのように、一月は首を横に振った。 


(こんな事思い返したって、何にもならない……)


 自身に言い聞かせるように、一月は心中で呟いた。


「ごめん、行こう」


 千芹に言いつつ、一月は傘を閉じて軽く水を払う。

 そして、自らが二年前まで通っていた剣道場、鵲村修剣道場の入り口の引き戸へ手を掛けた。





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