其ノ五 ~白ノ少女~
首を掴まれていた感触が消えた瞬間、全身から力が抜け、一月は仏間の床に伏した。
「うっ……!! げほっ!! ごほ、ごほっ……!! んぐっ……!!」
喉に手を当てて、激しく咳き込む。
長時間首を締められた所為だろう、呼吸が乱れていた。焦点が定まらず、視界がぼやけ、揺らいでいる。
ようやく呼吸が整い始めた時、一月の視界に白い物が映った。
(何だ……!?)
視線を上げる。一月の眼前に、後ろ姿があった。琴音ではなかった、その背格好、服装からも明らか。
一月の前に立っていたのは、幼い女の子だった。白地に何かの花があしらわれた着物を纏い、その黒髪は腰まで届いている。
先ほど一月の視界に映った白い物は、この少女の着物の一部のようだ。
壁に寄り掛かりつつ、一月は立ち上がる。
そうしてみると、この少女はとても小さかった。彼女の背は、一月の胸の少し下あたりまでしかない。
「君は……!?」
その着物姿の後ろ姿に問うが、返事は無い。少女は険阻な表情を浮かべ、眼前にいる人物を見つめている。
いや、『人物』というのは適切ではないのかも知れない。少女が見つめているのは、先ほどまで一月の首を締めていた、悪霊と化した琴音だ。
しかし、琴音の方は少女と視線を合わせようとはしない。琴音の視線は少女をすり抜け、その後ろの一月に集中していた。
「去れ!! いつきには触らせない!!」
着物姿の少女が、可憐ながらも力強い声で琴音を威嚇する。
琴音の視線が、一瞬だけ少女に向いた。しかし、視線は直ぐに一月へと戻された。まるで、一月を標的として固定しているかのようだ。
「琴音……どうして……?」
意味が分からない。理解が出来ない。悪霊と化したとしても、どうして琴音にあんな憎しみや殺意に溢れた視線を向けられなければならないのか。
どうして、呼吸に異常を来す程に、首を締められなければならないのか。
「琴音……僕の事、分かるんだろ!?」
着物姿の少女越しに、一月は琴音に声を張り上げる。
「覚えてるだろ!? 僕だよ、一月だよ!!」
「…………」
琴音は答えない。仏間に一瞬の沈黙が流れる。
「一緒に遊んで、一緒に剣道の稽古に励んだ、金雀枝一月だよ!!」
琴音は答えない。仏間に再び沈黙が流れる。
「琴音!!」
やはり琴音は答えなかった。答える所か、表情を少しも動かす事も無かった。まるで、テレビ画面に映っている人間に話しかけているような感覚だった。
「……ことねの事よりも、じぶんの心配したほうがいいよ」
一月の語りかけに一切応えない琴音の代わりに、着物姿の少女が口を開いた。
彼女は一月に後ろ姿を向けたまま、言葉を紡ぐ。
「見ればわかるでしょ? ことねにはもう、いつきの声なんてとどいてないよ」
「え……?」
一月は琴音に視線を戻す。
彼女はやはり、怒りや憎しみに溢れた瞳で一月を見つめていた。小学校からの長い友達だったが、琴音のあんな目など見たことがない。
ふと、一月は先ほど琴音に首を掴まれた時の事を思い出した。あの時、別の人間の記憶が、まるで脳に流し込まれるかのように浮かんで来た事を。
「……!!」
薄々思ってはいたことだった。
あの時は、首を締められていて考えることに気が回らなかったが、冷静に考えてみて、その予感は確信に変わった。
首を掴まれていた時に流れ込んで来た記憶は、間違いなく琴音の記憶だ。
あの一月に向けられていた怒り、憎しみ、妬み、そして、殺意。それらの負の感情は全て、琴音が抱いていた物だったのだ。
「どう……して……?」
力ない声が口から漏れる。困惑と絶望感が体中を覆い、一月は体中が凍りつくような気持ちになった。
意味が分からなかった。理解が出来なかった。
大切な親友だと思っていた彼女に何故、それ程までの負の感情を向けられなければならないのだろう。
どうして、彼女に憎まれなければならないのだろうか。
どうして、彼女に恨まれなければならないのだろうか。
どうして、彼女に妬まれなければならないのだろうか。
どうして、彼女に殺意を向けられなければならないのか。
一月は思い返す、自分は彼女に何か恨まれるような事をしたのだろうか、と。
「さっきも同じようなこと言ったけど、かんがえるのは後にしたほうがいいよ」
一月の思考を、着物姿の少女の言葉が遮った。
少女は一月に後ろ姿を向けたまま、
「ことね……ううん。あの『鬼』は、いつきを『死のせかい』へ引きずり込もうとしてるから」
意味を理解出来ずに、一瞬頭の中で返す言葉を探した。
聞き違いでないのなら、今この子は、琴音を『鬼』と言った。
「『鬼』……!? 鬼って一体……!!」
そこまで言い、一月はふと思った。
目の前にいるこの白の着物姿の女の子は、一体何者なのか。
思い出せば、この子は確か自分が琴音に首を締められていた時、突然現れた。なんの前触れも無く、目の前にいきなり、まるで煙のように。
「君は一体……」
少女の素性を問いただそうとした時である。
《殺す……殺してやる……》
「!?」
耳が聴いた声では無かった。
しかし、一月は確かに、琴音の悪霊が発した言葉を聴いた。琴音に向き直った時、彼女は一月に向かって片手を伸ばしていた。
その瞬間だった。彼女の腕から黒い霧のような物体が発生し、瞬く間に一月へと伸びていく。
「!?」
避ける余裕など無かった。
黒い霧は、それ自体がまるで命を持っているかのように動き、一月の首や顔に絡み付いた。その霧(正確には霧のような物)からは、まるで腐った肉のような臭いがした。
引いたと思っていた吐き気が再びこみ上げてきたが、今はそんな事に構っている余裕は無かった。
「ぐっ……!!」
顔や首に絡み付く霧を、無我夢中で振り払おうとする。
《殺す……殺してやる……》
再び、琴音の悪霊の意思が聴こえた。
霧に触れようとしても、触れられない。まるで雲を掴もうとしているような感覚だ。
途端に、一月は自分の体から力が抜け出て行くような感覚に襲われた。
「が……ぁ……」
突然、腕や体に力が入らなくなったのだ。まさか、この黒い霧の所為だろうか。
「いつき!!」
返事など、出来る筈が無かった。
「ぅ……ぐ……」
一月が発する事が出来たのは、漏れ出る呻くような声だけだ。徐々にその声も、弱まっていく。
着物姿の少女は琴音の悪霊を振り返る。
琴音は、黒い霧の発生源となっている自分の腕を一月に向け、やはり彼に憎悪の瞳を向けていた。
《殺す……殺してやる……》
少女の耳にも、琴音の悪霊が発する意思が聴こえた。本気で、一月を殺すつもりなのだ。
「……くっ!!」
このままでは一月が危ない。もう一刻の猶予も無かった。
少女は、その白い着物の袂に手を入れ、その中を探る。数秒後、袂から出てきた少女の小さな手には、白銀に輝く小刀が握られていた。刃の部分が十数センチ程の、小さな小刀だ。その眩い銀色の刀身には、経のような漢字の羅列が刻まれている。
「唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽 入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽……!!」
左手で小刀を持ち、右手の人差し指と中指を刃に添え、和服の少女は経のような言葉を呟く。
その言葉と共鳴するかのように、小刀の刀身部分が青い光を帯び始めた。
青い光を纏った小刀を手に、少女は仏間の畳を勢いよく蹴る。
その長い黒髪や、白い和服の裾や袖をたなびかせながら、琴音と一月の間の位置、一月を捕らえている黒い霧へと駆け寄る。
そして彼女は小刀を振り上げ、黒い霧を真っ二つに断ち切った。
刀が霧に触れた瞬間、バチッ、という火花が飛ぶような音と共に青い閃光が迸る。カメラのフラッシュを照らしたように、暗い仏間が一瞬だけ青く照らされた。
琴音の悪霊が発していた黒い霧は分断され、空気に溶け入るように消滅していく。
「…………っ」
同時に、黒い霧から解放された一月も意識を失い、仏間に倒れ伏した。
「いつき!!」
着物の少女はすぐさま一月に駆け寄った。
そして彼女は、その小さな手を一月の口元にあてがう。
「間に合った…」
意識を失って倒れ伏しているものの、一月は生きていた。
和服の少女は小刀を袂へと仕舞う。空いた左手で、一月の片手を握った。
片手を握り、一月の顔を見つめつつ、彼女は右手で印を結ぶ。
人差し指と中指だけを立てた印。喧しい子供を諭す時や、図書館で騒ぐ若者を注意する時の『しー』というサインに似ている。
少女の口元が微かに動き、再び経のような言葉を発し始めた。
先ほどの小刀に青い光を宿らせた呪文と違い、今度は普通の人間が聴いても意味不明な言葉の羅列。だがしかし、何の効果も成さない言葉ではなかった。
途端に、暗い仏間に白い霧が巻き起こった。
霧は竜巻のように渦を巻き、少女の黒髪や着物をなびかせる。
みるみるうちに、少女と一月の周りを白い霧が包み込んでいく。
《…………》
琴音は、黙ってその様子を見つめていた。
すると、白い霧の中、和服姿の少女が立ち上がった。立ち上がると、彼女は琴音と視線を合わせる。
和服姿の少女は、とても小柄で小さな女の子だった。
しかし、琴音の悪霊を見つめるその瞳は凛としていて、大きな意志を感じさせた。
「いつきは、ぜったいに殺させない」
白い霧に黒髪や着物をなびかせながら、少女は言い放った。直後、白い霧が一際大きく渦を巻く。
そして着物姿の少女と一月は、まるで空気に溶け入るように消え去った。
一月と少女が消え去った後、暗い仏間には二人の惨殺された女学生の遺体と、琴音の悪霊が残される。
《……殺してやる……必ず……》
腐臭漂う仏間に、殺意に満ちた言葉が響いた。
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