水面に揺れる、

「桜、まだかな」

「もう少しだと思います」


 向島大学は小高い場所にあるからか、星港市内よりは桜の開花も少し遅い。今日は新4年生の健康診断の日。俺は野暮用(サークルの新歓ポスターを作れとかいう律からのムチャ振り)で大学に来ていたけど、まさか菜月先輩にお会いできるとは。

 もう少ししたら、図書館から校門までを結ぶ坂道を桜の花が埋め尽くすだろう。桜並木の坂道は、それはもう言葉にできないくらいに美しい。菜月先輩も、春のこの場所がとてもお好きでいらっしゃるそうだ。


「いよいよ4年だって」


 いよいよ4年生。つまり、菜月先輩はあと1年で緑風に戻られてしまう。就職活動は実家のある緑風エリアで行っているようだし、それは確実だろう。一気に迫りくる、恐ろしい現実。


「あの、差し出がましいのですが一言よろしいでしょうか」

「何だ」

「菜月先輩は、取るべき単位をまだ結構残していらっしゃいますよね。つまり、4年生と言えど大学にはそれなりの頻度でお越しになられます、よね…?」

「もちろん、就活をやりながらな」


 はあ。菜月先輩は重く、深い溜息を空にひとつ浮かべた。就活と卒論。俺が知り得る菜月先輩のしんどいことだ。卒論に関しては、書くことと言うよりもテーマだ。自己について突き詰めて自滅するという話は何度か聞いた。


「大学を卒業して? 地元で就職して? 就職? 自分が何たるかもわかってないのに? 卒業? 単位も足りてないのに?」

「単位に関しては自業自得です」

「ウルサイ。それくらいわかってる。だけど、夜な夜な不安になる。このまま自分は忘れられて、どこかに埋もれて、今まで過ごしてきた日々を、あの頃は良かったなあなんて思い出しては泣きそうになって、それで消えたいなあ、死にたいなあって、そんなことを誰にも言えないで上手く息も出来ないで、それで、それで、そのうち本当に独りになって」

「俺がいます。菜月先輩には、俺がいます」

「軽々しく期待を持たせるな。お前はシステムエンジニアを志してるんだろ? 仮になったとしても忙殺されるに決まってるじゃないか。物理的な距離もある。そんな中で」

「確かに物理的な問題はあります。ですが、俺は菜月先輩の話を一番近くで聞いていたいんです。弱音だろうと、愚痴だろうと。失礼を承知で言わせていただきます。俺が菜月先輩のことを忘れる? 意味が分かりません」


 菜月先輩が先輩自身のことを否定しているならば、俺の知る先輩のいいところをそれこそやめろと言われてもつらつらと並べ立てただろう。だけど、今回はそうじゃない。

 多分、菜月先輩は一人が好きだけど独りではいられないタイプの人なのだ。圭斗先輩と緑風に行ったときも、圭斗先輩が心配していらしたのは菜月先輩が独りで気を張って消耗していないかということだった。

 俺が何のためにあらゆることを努力しているのか。それは、愛する人と、その人と築く家庭を守る力をつけるため。今この瞬間崩れかけている菜月先輩を支え、受け止めるくらいのことが出来なくてどうなる。


「離れていたとしても、俺は菜月先輩のことを今までと同じように……いえ、今までよりももっと強く、深く想い続けます。この誓いは、何にかけても不変です」


 真っ直ぐ、菜月先輩の目を見て言うべきことを言わせていただく。決して綺麗事などではなく、本心だ。菜月先輩のことが好きだとかそういうことよりもっと前に。俺に手を差し伸べてくださる、尊敬する先輩への想いを。


「……知ってるんだ。何だかんだでお前はうちに嘘を言ったことはないし、期待を裏切られたこともない。……ダメだな。お前にそんな風に言われたら、信じるしかないじゃないか」

「菜月先輩…!」

「ノサカ」

「はい」

「多分、あと1年」

「多分? ええ、多分ですね。留年の可能性が消えていない以上」

「ウルサイ。とにかく、あと1年だ。その間にもう一度、「お前がいるから大丈夫だ」と思わせて欲しい」


 そうすれば多分就活も卒論も、その先の道にも少しは希望が持てると思うんだ。菜月先輩はそう呟いて、笑みを浮かべた。ただ、それはギリギリで踏みとどまっている、水際の笑み。


「あーあ、野球でもあればうちの部屋で飲む理由に出来たんだけど」

「ありますよ、野球。今日が開幕です」

「おっ!」

「あの、その前に菜月先輩に相談に乗っていただきたいことがありまして」

「どうした」

「出来れば画材や過去の資料などがあると思われる菜月先輩のお部屋に伺いたいのですが――」

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