オフ・ザ・レコーディング

「袖が……」

「それは酷いな。買い直した方がいいんじゃないか?」

「購買、まだ開いてる…?」

「さすがにこの時間はやってなくないか」


 明日、購買で白衣を買うというメモをパソコンのディスプレイの端に貼り付ける。いつの間にか、袖に穴が開いていたし、汚れも酷い。きっと、薬品を扱うときにはねたりしたのかもしれない。細心の注意は払っているのだけど。

 パソコンからフラスコまで扱える科学者に。そう掲げるのは国立星港ほしみなと大学理工学部応用科学科、岡本ゼミ。理系の研究室では、夜遅くまで人がいるのもさほど珍しくなく、研究室を実質的住所にする学生もいると聞く。

 このゼミにも部屋の“ヌシ”と言える存在はあるけど、今はアルバイトをしている。ただ、8時を回ったし、もうしばらくすると帰ってくるかもしれない。私と背中合わせにあるその席が、この部屋の主の席。


「まあ、調べればいいか。美奈、ちょっと待ってろ」

「徹、そこまでしなくても……」


 インターネットで星港大学の購買が開いている時間を調べてくれているのが、私とは小学校3年生の時からの付き合いになる石川徹いしかわとおる。パッと見は優しい。高校は別々だったけど、大学で再会してもあまり変わっていなかった。


「朝8時オープンで、夜は7時まで。今日はもうやらないんだろ? 明日の朝イチで買ったらいい」


 そう言って湯気の立つマグカップを持った徹が席に着こうとした瞬間のこと。ガタンと大きな音を立て、湯気の立つ範囲が広がる。落としたカップや熱い液体のかかった体よりも、真っ先に心配するのは周辺機器。


「はー、よかった。マシン類は無事だ。キーボードもこの分なら大丈夫そうだ。美奈、抗菌ペーパーをもらえると嬉しい」

「それより、火傷とか……」

「そう言われるとヒリヒリしてきた」

「冷やさないと……」


 この場の片付けは引き受け、徹には手を流水で冷やすよう促す。マグカップにもヒビは入っていないし、こぼれたのがお茶でよかったかもしれない。もしこれがコーヒーだったりしたらシミになりそうな物も少し。

 ザアアと水の流れる音。粗方冷やし終わったら薬を塗ることも考えておいた方がいいかもしれない。救急箱は確か……あった。……あっ。軟膏、こんなに減ってた…? きっと、人知れず使っている人がいるのかもしれない。


「こんなもんかな」

「……大丈夫…?」

「ああ、大丈夫だ」

「軟膏……」

「ありがとう」

「……塗る?」

「さすがに自分でやる」

「そう……」


 これが、ただお茶を浴びただけで済んでよかったのかもしれない。もしこれが実験の最中で、劇薬がかかっていたとしたら。白衣の袖を持って行かれるだけではすまないかもしれない。


「リンの奴に見られなかったのが救いだな」

「……そう言えば、少し、遅い……」

「アイツに見られてたらそれをネタにこれでもかと人をイジり倒して――」

「それは、徹も人のことは言えない……」


 徹は手の甲に軟膏を薄く塗り広げながら、未だ来ぬ“主”との対決姿勢を前面に押し出している。やるか、やられるか。


「美奈、くれぐれもこのことは」

「わかってる……」


 オフレコで。

 ただしそれは、私に対してネタを積み上げているということになるけれど……マークされていないとするならば、それはそれで。


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