第221話 手が汚れない人間はいません!

「そう……そうよ……そうよね……!!」


 チェリィの言葉で、ヴィティアは気を持ち直した。しかし、決して油断してはならない状況だということは、チェリィも認識したようだ。未だ険しい表情で、チェリィはヴィティアに問い掛けた。


「スケゾーさんは、今どこに?」

「確か……魔界。そう、魔王城で君を待つ……って、ハースレッドが言ってたわ」

「ハースレッドさん……!?」

「そうなの。黒幕は、ハースレッドだったのよ!! キングデーモンの内側にいたから、自由に情報が入ってくる立場にあって……」


 そうしてヴィティアは、決意を固めた。

 固く拳を握り締めて、空を見上げた。分厚い雲は、西の方角に向かって動いていく――……強い風が、濡れたヴィティアの身体に吹き付けた。

 しかし、もう寒くはない。


「――私、魔王城に行かなきゃ」


 空を見上げてそう呟いたヴィティアに対し、チェリィは頷いた。


「僕も行きますよ。……そのために、城を出て来たんです」

「私達だけじゃ、きっと足りないわ。グレンを助けるためには、もっと人が必要ね」


 服と髪はやがて風に吹かれて、乾くだろう。幸い、移動するための資金はたっぷりある状況だ。

 機会はある。まだ、諦めては駄目だ。

 まだ、チャンスがあるのだから。


「西に行きましょう。馬車に乗るわよ」


 チェリィに指示しながらも、ヴィティアは歩き出した。それは――……初めて、ヴィティアが一人で歩き出した瞬間だったのかもしれない。

 ずっと、誰かに依存してきた。自分で未来を決めると判断してもなお、ヴィティアは誰かに寄り添う事によって、どうにか生き長らえてきた。

 だが、人は弱い。強い人間などいないのだ――……どんな人間でも、心が折れてしまうことがある。

 ヴィティアに必要だったことは、寄り添う事ではなく、手を取り合う事だ。


「西へ? 何か、当てがあるんですか?」


 チェリィの問い掛けに、ヴィティアは笑顔で答えた。


「うちのギルドにはまだ、自称魔法少女と魔法の使えない少女が残ってるじゃない?」


 もう、黙って見ている事はしない。

 その胸に、固く誓った。

 今度は自分が、グレンを助ける番だと。



 *



 リーシュ・クライヌは、砂浜に倒れていた。

 ただ放心して、海を見ている。……その状態から、何日が経過しただろうか。リーシュは目を開けていたが、その瞳に海は映っていない。

 何度太陽が昇り、何度沈んだのか。それさえ、記憶になかった。ノーブルヴィレッジの村人に発見されそうになって、どうにか近くの岩場まで逃げて来ていた。長くノーブルヴィレッジに住んでいたリーシュには、どの場所ならば村人が来ないのか、すぐに分かった。

 誰とも、会いたくはなかった。

 人と顔を合わせるということを、したくなかった。

 だが――……何も食べていない。ただ寝ているだけだが、やがて限界は来る。リーシュは身動きひとつ取ることができず、誰も来ない岩場の上にいる。

 視界はかすみ、ぼんやりとしてくる。


『本当の『魔物』は、人の心に巣食っているんだ』


 どこかで、グレンの声が聞こえてくる気がした。


『憤怒、絶望、強欲、無知……『自分』の中に『自分』がちゃんと居なければ、誰かにすぐ、その魔物を目覚めさせられる。リーシュ、お前だけじゃないよ』


 だけど。

 グレンは、巻き込まれただけだ。


 ただ、巻き込まれただけだ。グレンも、グレンの母親も。……では、誰がグレンを巻き込んだのか。グレンはリーシュではないと言うが、そう言い切る事は難しい。

 紛れもなく、リーシュ・クライヌ本人もまた、当事者だったからだ。

 リーシュの視界に、何かが映った。


『リーシュ』


 瞬間、リーシュは飛び起きた。


「グレン様……?」


 向こう側に、グレンの姿が見える。リーシュは思わず、我が目を疑った――……どうして、ここに? 問い掛けようとしたが、身体が鉛のように重たい。明らかに、自然な状態ではなかった。

 雑音が聞こえる。波の音とはまた違うものだ。


『色々と頑張ってはみたけど……もう、限界なんだ』


 それでも、リーシュは動いた。


「待ってください!! グレン様!!」


 グレンを追い掛ける。

 何故か、身体が思うように動かない。グレンはどこまでも遠くなっていく……あの時と同じだ。セントラル・シティの北で、グレンがリーシュを転移させた時と同じ。

 あの時は、声が聞こえなかった。でも、今は聞こえる。グレンの腕を掴まなければ。……このまま、消えてしまうのは嫌だと思った。


「置いて行かないで……!!」


 遥か遠くで、グレンが微笑んでいる。



『ごめんな』



 ふと、雑音が風のように、リーシュの目の前を通過した。

 不意に、リーシュの腕が掴まれた。



「間に合った…………!!」



 リーシュは、振り返った。

 ラグナス・ブレイブ=ブラックバレル。肩で息をして、リーシュの左腕を掴んでいた。艶やかな金髪は少し乱れていて、鎧は岩場に脱ぎ捨てられていた。黒い肌着の下は、水に浸かっている。


 ……………………水?


 気が付けばリーシュは、辺り一帯を海に囲まれていた。胸の下まで海に沈んでいる。先程までいた筈の岩場が、あんなにも遠く見える。

 辺りを見回した。

 グレンの姿はない。


「気を……しっかり、持ってください!!」


 どうやら自分は、幻覚を見ていたらしい。

 そのように、リーシュは気付いた。

 ラグナスが自分に対して怒りを見せる所を、リーシュは初めて見ていた。リーシュの両肩を痣ができそうな程に強く掴み、澄んだ蒼い瞳でリーシュを睨んだ。


「あなたが居なければ……!! あなたが居なければ……グレンオードはこれから、どうして行くのですか……!!」


 ラグナスの問い掛けは、リーシュには理解し難いものだった。


『そうやって、また誰かを傷付けるのかい?』


 リーシュは、笑みを浮かべた。


『グレンオードを孤独にしたのは、他でもない、君がやった事じゃないか』


 それは、怒りを見せたラグナスを驚かし、目を丸くさせる程度には――……醜く、歪んでいたのだろう。笑えば良いのか、怒れば良いのか、泣けば良いのか、どのような表情を見せて良いのか分からず、リーシュは笑った。


『そばに、いてくれないか』


 リーシュはラグナスに、言った。



「――――――――ええ?」



 どうしろと言うのだ。


「私がいても、グレン様が辛い思いをするだけじゃないですか?」


 分かっている。ラグナスに答えなど、出せる筈がない。

 だってそれは、グレンの望みだから。


『間違っていてもいい。不幸でもいいんだ。……でも、一人でいるのだけは、どうしても……もう、耐えられないんだ』


 グレンがそのように望み、自分を必要とし、願ったから。


「一緒にいて、なんの得があるって言うんですか。私なんかがそばにいたって、何も良いことなんてないんですよ」


 どうすれば良いのか。

 そばに居るほど、グレンは深く傷付いて行ってしまう。母親の件もそうだ。ギルドリーダーの件もそうだ。グレンが狙われるようになった理由も、リーシュを匿ったからだ。

 もう、リーシュの方が耐えられない。


「そばに居ても、辛いだけ……離れても、辛いだけ……どうして、こうなるんですか」


 八方塞がりだ。出口のない迷路を進んでいるようなものだ。やがて食料が底をつき、身動きが取れなくなり、骨は大地に還るだろう。

 グレンオード・バーンズキッドを、どうやっても、救う事ができない。


「こんな事なら、出会わなければよかった。私が助けを求めなければ、グレン様はきっと今もまだ、山の上で――……」


 ふと、リーシュは思った。

 泣いてはいけない。

 辛いのは、自分ではない。グレンの方だ。

 リーシュはラグナスの胸にすがって、感情を押し殺した。

 どうする事も出来なかったのだろう。ラグナスはリーシュを慰める訳でもなく、ただ身を任せていた。大きな波が来れば、ひとたび二人共、連れ去られてしまうだろう。足元も覚束ない海の上で、ただ時間だけが過ぎ去っていく。

 このまま、海に身を投げ出してしまいたい。リーシュはどうにか、衝動を堪えていた。



「……ひとを救えないのは、弱いからですか」



 どうにか紡いだ言葉は、サウス・ノーブルヴィレッジで自分が言った言葉と同じだった。


「救えないんです。自分があまりに救えなさすぎて……人を、救えないんです」


 ラグナスは、強い。

 少なくとも、リーシュの知る限りではとても強い人間だ。きっと、何らかの答えを持っているのだろうと、リーシュは思った――……それがグレンを助けられるきっかけになればと考えていた。

 ひとしきりラグナスは考えて、そして――……ひとつひとつ噛み締めるように、言葉を紡いだ。


「あなたは確かに、グレンオードを傷付けたかもしれません」


 リーシュは、ラグナスの言葉に耳を傾けた。


「人は皆、心に闇を抱えています。まるで災厄のように思える出来事も、元を正せば自分が招いた事である可能性があります。そのことに囚われてしまうと、人を救うために手を差し出す事ができなくなるでしょう」


 海に揺られて濡れた二人の髪から、雫が落ちる。太陽の光は海の色に橙を混ぜ、反射し、二人を照らした。


「罪の意識に、押し潰されてしまいそうですか。……ならば、人を救えないのは、弱いからではありません」


 ラグナスは、言った。


「信じてください。――――貴女の手で、人は救えると」


 その言葉には、重みがあった。リーシュはじっと、ラグナスの目を見詰めた。

 心の底から、ラグナスはそう考えているように見えた。少なくとも、リーシュには。


「差し出された手を受け取り続けるだけでは、いずれ差し出す方が息絶えてしまいます。こちらからも、手を差し出さなければなりません。タイミングは一瞬です。躊躇していると、すぐに通り過ぎてしまいます」

「……手を、ですか」

「リーシュさんは、グレンオードに手を差し出す事ができないでしょう。どうにか受け取るのが、精一杯で――……そう考えるのは、『自分の手が汚れている』と、心のどこかで考えているからではありませんか」


 そうだろうか。

 ラグナスの言葉は抽象的だった。しかし、今のリーシュには分かるように感じた。

 確かに、迷いがあったかもしれない。自分がグレンのそばに居て良いのかという、漠然とした不安。それはグレンがどれだけ許可しても、許容しても、心の底から信じられる言葉には成り得ない。

 自分がいると、グレンを傷付ける。過去の事実から、自然と自分からは、グレンとの距離を縮められなくなっていた。

 それは、分かる。


「手を、差し出してください。構う事はありませんよ」


 ラグナスは微笑を浮かべた。それは、いつもどこか屈折している彼の表情からすれば、随分と素直な一面だった。



「生きていく過程で、手が汚れない人間はいません」



 リーシュの瞳が揺れた。


「怖いと思うならば、まずは俺の手を握ってください。……俺が、グレンの所まで貴女を案内します」


 ラグナスには、確かな自信があるように感じられた。彼が先導して、グレンの所まで一緒に向かってくれると言う……そんな事は、これまでは無かったことだ。

 グレンを、救う。

 できるだろうか、自分に。

 リーシュは、ラグナスの手を握った。ラグナスは少し安堵した様子で、リーシュの手を引いて、岩場へ戻ろうとした。

 ラグナスが進む通りに、リーシュも歩き出す。


「……グレン様は、助けられますか」

「俺が協力すれば、あるいは。……目指すべきは魔界です。そこにハースレッドと、あの魔物もいるでしょう」


 ラグナスの言う『あの魔物』というのは、おそらくスケゾーの事だろう。


「さあ、支度をしましょう」


 背を向けるラグナスの後に付いて行きながら、リーシュは声を掛けた。


「あの、ラグナスさん。……どうして、ここが?」


 問い掛けると、ラグナスは笑った。


「さあ、どうしてでしょう。……なんとなく、ここに居るような気がしたんです」

「……どうしてラグナスさんは、大切な時にいつも、私達を助けてくれるんですか」


 足は止めない。岩場に上がると、ラグナスは立ち上がった。濡れた肌着を脱ぐと、上半身が露わになった。

 傷だらけの背中だった。


「重なるから、でしょうか」


 海から上がりながら、リーシュは感じた。

 その男の背中に背負われたものは、軽くはない。運良く、強くなった訳ではないのだろう――……どうしてだか、見える気がしたのだ。ラグナスがこれまでの過去に抱えてきた、幾つもの苦労。幾つもの後悔と、幾つもの挫折。

 それでも、ラグナス・ブレイブ=ブラックバレルは、不敵に笑ってみせた。



「どうしようもなく不器用で、肝心な事ばかり人に伝えられない、あの男が――――俺と」



 本当に強い人間とは、彼の事を言うのかもしれないと。

 リーシュは、思っていた。


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