第186話 化物ですよ

 チェリィは湯船に入ると、俺の隣に腰を下ろした。

 温泉なのか、循環しているのか。どこからか水の湧き出る音が聞こえる。清潔そうな印象のある浴場の中、俺はただ、呆然としていた。

 俺とチェリィ以外に人は居ない。物音もしない。

 チェリィの前髪から水が滴り、湯に落ちる。


「……ノックドゥには、『聖女』っていう、ちょっと変わった風習があるんです。お母様もそうなんですが、代々女性が王権を握る国で」


 鈍った思考はプリンみたいに形を変えていたが、俺はふと我に返って、チェリィの言葉の意味を理解した。

 ああ。男じゃないんです、ってつまり、聖女のことか。

 何事かと思ったぜ……ここは男湯。事前に、ノックドゥの風呂が男湯と女湯に分かれているのは確認した。もしも本当にチェリィが男じゃないなら、ここには入って来ていない筈だ。

 いや。そもそも俺は、チェリィのアレを確認しているので。そりゃ、間違いは無くて当然なんだが。……バスタオルで胸から下を隠しているせいで、どうも変な気分になってしまう。


「その辺の事情は、クランから聞いたよ。でも、お前になってるとは思わなかったけどな」

「僕の代は、兄さんと僕、二人しか子供が産まれなくて。お父様はもう、亡くなってしまったんですよ。二人共男だったから、より女顔の僕を、お母様は後継者として選んだみたいで……」


 明後日の方向を向いてそう話すチェリィを見て、俺は考えた。

 ……そうか。男しか産まれなかったから、エドラはチェリィを次期国王として選んだんだ。普通に考えたら、やっぱり長男が王権を握るべきで――……それは少し、特殊な事情だったのだろう。

 普通であれば、喜ぶべき所。でも、チェリィはその代わりに『人前に男として出られない』という役割を負ったのか。

 身体は男なのに。


「女の人の格好をした僕を、兄さんは化物だと言って笑いました。……それでもお母様は、僕を改造する事を止めませんでした。産まれた時から、女として扱われて……変な妄想に取り憑かれた母親と、僕を化物扱いする兄だけが、僕のすべてで」


 俺はチェリィの言葉をひとつひとつ、拾い上げるように聞いた。

 チェリィは俺から顔を背けて、表情を隠して話していた。


「だから僕は、冒険者になったんです。もう、ここには居られないと思って。後のことは考えずに、逃げるように……城を出ました」

「……でも、戻って来たんだな」

「お母様が、肺を悪くしたと聞いて。……いつまでも現実逃避ばかり、している訳には行かないだろうと思って」


 何だかんだ、チェリィは家族を愛している。

 自分を取り巻く異常な状況を打破したくて、冒険者になる。その気持ちは、よく分かる。……でもチェリィは、最後の最後で踏み切れずに戻って来た。……そういうことか。

 確かに、チェリィが本当に居なくなってしまえば。兄貴が国王になれれば良いが、どうしてもそれが駄目になった時、国王そのものが居なくなってしまう。


「兄さんが、僕に声を掛けたんです。……それなら、戻らなきゃいけないと思って」


 優柔不断と言えば、聞こえは悪いが。例え性別を偽ろうと、逃げなかったチェリィの姿でもあった。

 自分を女だと勘違いしている母親と、その現実を見て自分を罵る兄。……確かに、酷な環境ではあるな。俺でも逃げているかもしれない。

 それを戻させたのは、他ならぬチェリィの良心故に、だろうが――……


「……どうせ、いつか戻るしかないのは、分かってましたから」


 そうだとしたら、チェリィがこうして自虐的に笑うのは、一体どうしてなんだろう。

 まるで、誰も自分の事を理解してくれないと言わんばかりの表情だ。チェリィからどこか闇を感じるのは、俺だけではないはずだ。

 ……今は、安心を与えなければならないだろうか。


「そんなことで、俺がお前を『気持ち悪い』なんて言うと思ったのか?」


 俺は少し叱るように、チェリィに言った。


「別に、お前が女として扱われていようが、本当は男だろうが、関係ねえよ。仕方ないだろ、そういう事情なんだから。お前にはどうしようも無かった。それで良いじゃないか」

「……良くは、ないんですよ」

「何でだよ。俺は別に、お前のことを化物だなんて言うつもりは――――」


 チェリィは、ふと俺を睨み付けた。

 何だよ、と言う余裕は無かった。チェリィは猛然と俺の右腕を掴むと、立ち上がった。俺も止むを得ず、立ち上がったが――……チェリィは俺の右手を、自身の左胸に。

 ……えっ。

 予想以上に柔らかい感触が、俺の右手に伝わっ……



 ――――――――○×△□#$%&!?



「はっ……? ええっ……?」


 言葉にならない。

 先程まで無視していたも同然で湯の中を泳いでいたスケゾーが、仰天して俺とチェリィを見ている。それ位には、異様な光景だった。チェリィは目尻に涙を浮かべて、唇を真一文字に結んで、怒るように俺を見ている。

 いや。……どう考えても、チェリィの細い体型から生まれる柔らかさではない。裸も同然のこの状況では、ボディーラインなんて隠せる筈もなく。実はトムディレベルで太ってました、だとか、そういう冗談を飛ばす余裕もない。

 一筋。チェリィから、涙がこぼれた。


「…………一緒にいて、おかしいと思いませんでしたか」


 何も言えず、俺はチェリィを見た。


「年齢は同じくらいなのに、どうして僕だけがこんなにも小さいんだろうかと、思いませんでしたか」

「いやっ……えっと……」

「僕は、男としての成長が、止まっているんです」


 チェリィはようやく、俺の手を離した。二歩、三歩、と俺から後退した。


「お母様は、僕が男だという現実を認められなかったみたいなんです。……記憶にもありませんが、幼い頃にどこかの名医に頼んで、手術をしたんだそうです。……僕は時間が経てば経つほど、女の人になって行くんだそうですよ」


 バスタオルを握り締めて、チェリィは俺の視線から逃れるように、湯船に身体を沈めた。


「僕は一生、成人男性の身体にはなれないんです。……でも、女性に近付くからといって、完璧に女性になれる訳でもない。……じゃあ、僕って一体、何者なんでしょうね?」


 ようやく。

 チェリィが、その兄――ウシュク・ノックドゥから、何故そう呼ばれていたのか、俺は理解するに至った。

 目尻を真っ赤に腫らしたチェリィの声には、涙が混ざっていた。



「――――――――化物ですよ」



 なんと――声を――掛ければ。

 認めたく無かったのだろうか。だから、一方では自分が女に見える事を気軽に利用しながらも、頑なに自分は『男』だと、主張していたのだろうか。確かに今の発育状況から言えば、一緒に風呂に入ったって気付くようなものじゃない。それは、俺自身が一番よく分かっている。

 誰も、他人の体型なんかまじまじと見たりしない。少し胸が膨らんでいる程度なら、個性の範疇に収まるものだろう。

 俺がチェリィの裸を見たのは、結構前の話になる。……その時より、成長しているのか。


「最近、自分の身体の変化が速くなっているのが、分かって。……認めたく、なくて……気持ち悪い、ですよねっ……ご、ごめん、なさいっ……」


 泣きながら、チェリィは逃げるように立ち上がった。


「待て!!」


 浴場の扉に向かって逃げようとするチェリィの腕を捕まえて、俺はチェリィに詰め寄った。

 チェリィ・ノックドゥの、本音。

 仕掛けた張本人の母親。自分を軽蔑するばかりの兄。何も知らない、冒険者の連中。

 胸の内ではずっと、誰かに相談したかったんじゃないのか。自分の身体に異変があると知っていて、誰にも相談できなかったんじゃないのか。……確かに、気持ち悪いと言う人間も居るのかもしれない。

 恐怖に支配されてしまっているんだ。他ならぬチェリィ自身が一番、自分の身体を許せないんだ。


「離してっ……!! くださいっ……!! 僕に、触らないで!!」


 どうにかチェリィは、俺の束縛から逃れようともがいた。


「良いんですか!? 触ったら、うつるかもしれませんよ!?」


 敵意を剥き出しにして、チェリィは嘲笑した。

 涙を流しながら。

 やるせない想いは、胸を渦巻いた。

『見た目』は、特に人との距離が縮まっていない内は、人を判別する上で重要な要素になりがちだ。

 誰も、汚物まみれの人間に近寄ろうとはしないだろう。本当は仕方がない事だったとしても、遠い関係に居る内は、人の都合など考慮されないものだ。

 禿げていたら。太っているから。そんな、どうでもいい事を理由に。何もしていないのに、何も悪く無いのに、笑われたり、馬鹿にされたりする。


 軽蔑されたのだろうか。もしかしたら、非難されたのかもしれない。

 思わず、歯を食い縛った。


「それがどうした!!」


 俺は猛然と、チェリィの両肩を掴んだ。

 チェリィの涙に濡れた顔を見る。大きな瞳が、小動物のように小刻みに震えながら、俺を見ている。

 ……正直、心外だ。

『そんな事』で、俺がチェリィを軽蔑するだろうと思われていたことが。


「言ってみろ、チェリィ。それで、何かが変わるのか」

「……かわ、る?」

「俺とお前の関係が何か、そのせいで変わるのかって聞いてるんだ」

「……それは……」


 どこか、恐怖に怯えている。距離を詰めながらも、一線を越えることは出来ない様子で、足踏みをしている。

 そんなチェリィの様子は、これまでに何度も見て来た。もっと沢山の事を話したいのに、意識して避けているような雰囲気もあった。スカイガーデンに行く時に別れてからは、暫く別行動もしていた。

 他人行儀。チェリィを言い表すとしたら、それが最も最適だった。


「ヒューマン・カジノ・コロシアムでトムディの依頼を受けてから、暫く俺達と一緒に居たよな。『カブキ』の一件、スケゾーの救出にも付いて来てくれたよな。お前が居て、俺が……俺達が、どれだけ救われたと思ってるんだ」


 スケゾーが黙って、俺の肩に戻って来る。

 チェリィは、固く口を閉じていた。


「男だとか女だとか、そんな事はどうでも良いんだよ。……お前は、お前だ」


 例えそれが偽名だったとしても、関係ない。

 それまでは、ずっとソロで活動していたと聞いた。ちゃんとパーティに入って冒険者としての活動を始めたのは、俺達が初めて――……それなら、チェリィだってきっと、俺達を信頼してくれていたに違いないのだから。

 言い出そうと思った。でも、言い出せなかった。……そんな所だろう。確かに自分のコンプレックスを人に話すというのは、容易なことではない。でもそれは、当人だから感じるコンプレックスであって、他の人が共有できるものじゃない。

 ならばいっそ、捨ててしまえ。

 それが何者であるとか、どんな弱点を持っているとか、そんな事を気にしなくても良いようにすればいい。

 チェリィの頭を掴んで、強引に引き寄せる。

 ――――こいつに必要なのは、『理解者』だ。



「辛かったな」



 一言、俺はチェリィにそう言った。

 チェリィは耐え切れなくなったのか、俺の胸で声もなく泣いていた。小さな嗚咽とすすり泣く音を聞きながら、俺は内心、穏やかな気持ちになっていた。

 ほら。言葉さえ通じれば、人は共有できる。

 相手の話を聞こうとさえすれば。お互いに理解し合おうとしていれば。コンプレックスなんてものは、簡単に覆るんだ。内輪の常識や当たり前に心を奪われなければ。人はそれぞれ違うものだと、理解さえしていれば。

 そんな個性があっても良いだろうと、思う事さえできれば。



 *



 チェリィの部屋は、相変わらず女の子丸出しと言うか、俺が居る事がかなり場違いな雰囲気で、とてつもなくファンシーだった。

 まだ目は赤かったが、チェリィはベッドに潜っていた。丸くなって、布団の隙間から顔だけを出して俺を見ている。

 俺の部屋は別にあるので何れ戻るのだが……どうやらのぼせてしまったのか、チェリィは顔を真っ赤にして倒れてしまったので、こうしてここまで付いて来た。

 浴場からここまで、特に会話も無かったのだが。


「……チェリィ、お前さ。……例えば、その身体が魔法なら、調べれば元に戻るかもしれないけど」


 そう言うと、チェリィは苦笑した。


「僕もグランドスネイクでキララさんと会った時に、そう思ったんですけど。……どうやら、手術されているみたいで。もう、元には戻らないそうです」

「……そうか」


 既に調査済みだったか。……そういや、チェリィが魔物使いに転向したのも、それからミューの一件までの間だったな。

 何か、思う所があったのかもしれない。


「お母様は、男の人が怖いんですよね。……特に、屈強で力強い雰囲気の男の人が。グレンさんが苦手なのは、そのせいだと思います」

「そういや、そんな雰囲気だったな」

「僕にそうなって欲しくなかったから、魔法ではなく医者に頼ったんですよ。……きっと」


 チェリィはそう言っていたが、それまでのように暗い顔ではなかった。

 チェリィの魔物が、チェリィの周囲に居る。同じようにリラックスした様子で、チェリィに歯向かおうとは微塵も思っていないのがよく分かる。

 信頼されているのだ。

 俺は苦笑して、立ち上がった。


「……そろそろ、部屋に戻るよ」

「ごめんなさい、付き添って貰っちゃって」

「ああ、いいよ」


 言葉を交わせない魔物と、これだけ仲良くできるんだ。チェリィが自分のコンプレックスを受け入れれば、こいつなら人と打ち解けるのも早いだろうと思う。

 チェリィは起き上がって、俺を見た。


「あの、グレンさん」

「ん?」


 俺は、部屋の扉に手を掛けた。



「……やっぱり結婚式もありかな、とか思っちゃいました」



 勢い良く、部屋の扉に俺の頭が激突した。


「どういう意味だァ!!」

「えへへ。ごめんなさい」


 チェリィは悪戯っぽく笑って、舌を出した。

 ……まあ、この様子ならもう、大丈夫だろう。

 全く……。

 今の一言は聞かなかった事にして、俺は部屋の扉を開いた。……いい加減に戻らないと。もう、リーシュやヴィティアは眠っている頃だろうか。


「ありがとうございます、グレンさん。おやすみなさい」


 そう言われて振り返ると、頬を赤らめたチェリィが満面の笑みを俺に向けていた。

 ……くそ。

 女としても十分やって行けるよ、お前は。


「もう少し、冒険者でいたかったな……」


 最後の言葉は扉に阻まれて、返事をする事はできなかった。


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