◆先輩 END◆ もう一度、始めましょう
「……」
とっさに答えることができなくて、開きかけた口を閉ざした。
明確に何を聞かれているのか、何が正しいのかもわからないのに。
私の困惑をよそに、鏡の変化が始まった。
鏡面がまるでライトみたいに
鏡が、水面に石が落ちた時みたいに波ができた。その波は、初めは小さかったのに、やがて鏡全面へと広がっていく。
波が収まると、鏡の中には私がいた。
「……え?」
虚像の彼女が、元の世界での高校の制服を着てるのは何故?
今私は、普段着のワンピースを着てるはずなのに。
恐る恐る手を鏡の表面に触れると、対称的に鏡の中の彼女もこちらに手を伸ばした。
…………鏡の中の私と目が合う。すると、彼女は唇の端を上げて
『逃げられると思ってるの?』
「っ!? な、何を言ってるの?」
逃げるって? そんなはずないよ。
『目を背けることはできない。だから』
「え!?」
鏡の中から、手が伸びてきた!?
鏡の中の彼女が、しっかりと私の手首をつかんでくる。
「っ!?」
すっごく強い力!? このまま引っ張られてたら、鏡にぶつかるんじゃないのかな……!?
後ろに下がりたいのに、手首をつかむ力が強すぎて一歩も動けない。
ジリジリと、鏡との距離がなくなっていく。
『わかっているはずだよね?』
「……っ何がですか!?」
とっさに聞き返すと、鏡の中の私は楽しそうにクスクスと笑った。彼女にとっては、私の疑問が
『私はあなた、あなたの願いを映した存在。その私が悟っているのに、本物のあなた自身がわかっていないなんて、そんなおかしな話、ないでしよ?』
「私、は……」
言い返せなくて、口をつぐんだ。
彼女が言うことが本当なら。私はとっくに決めていたの?
私の望みを。
気が緩んで、抵抗する力が弱くなってしまった。その一瞬の隙を狙われて、一気に手を引かれた。
「!?」
瞬きをした次に視界にあったのは、目の前に迫った巨大な鏡。
手首から順に、腕が、顔が、足が、鏡の中へと引きずり込まれていく。
鏡に侵食して、すり抜けていく。
そして、私は――
◇◇◇
「久我! 今帰りか?」
「あ……先輩。はい、そうです」
呼び止められた声に振り向けば、後ろから須江先輩がこちらに近づいてくるところだった。
ちょうど、学校帰りの帰宅時間が重なったみたい。
私は食材の買い出しのためにスーパーに寄ったからビニール袋を持ってて、先輩は部活上がりだから体操着を
こんな風だったよね、異世界に行く直前って。
鏡に体を引きずり込まれた後。私はあの神様に
服も制服に戻ってたし、足元にはあの日スーパーで買った物が入ってたビニール袋が転がってた。
……私は、元の世界に戻ってきた。
異世界で過ごした分時間が経っているんじゃないかって考えたけど、そんなことはなくて。
あの日、あの時、私がいなくなってた瞬間に戻ってきたみたい。
まるで、夢でも見ていたかのような状況だったけど、そんなことないってわかってる。
だって……。
「……」
そっと、スカートのポケットに忍ばせてる手鏡に触れた。
何故かこれだけは、私の手元に残ってた。これだけが唯一の、私が異世界に行ったことの証。
手鏡に顔を映したって、もう何も映らないけど。
「……なぁ。久我さぁ、最近なんだか変わったよな」
「え?」
先輩の声に我に返って、パッと顔を上げた。
目が合った彼は、私をジッと観察してた。
「前まで俺に向けてた視線が全然ねぇし」
「!? 見てたのバレてたんですか!?」
「ま、あんだけの熱視線ならな。他の奴からのもあって慣れてるけど、俺」
肩をすくませてサラッと流してみせてますけど、何気なくすごいこと言っていませんか!? 須江先輩!?
そ、それにそもそもバレてたのも、なんだか恥ずかしいよ。
絶対迷惑だったに違いないよね。
「あと、雰囲気も変わったよ。前はもうちょっと周りに線を引いてただろ? それがなくなったっつーの?」
「……それは」
間違いなく、異世界に行って色んな人と接してきたからだと思う。
手鏡だけじゃなくて、異世界へ行って私の中に残った物は他にもたくさんある。
例えば、先輩が挙げた、人との接し方の変化だったり。他にも色々、私が気づいてないだけであるはず。
だけど一番、異世界へ行って私が変わったのは、きっと。
「なぁ。聞きたかったんだ、俺。久我に」
「……何を、でしょうか?」
「なんで俺を、
「っ!? なん、で……」
表情には、出してないつもりだった。だって、そんなことしたら、先輩に失礼だから。
それに何よりも、私にはそんな資格、持ってないんだから。
困ったように私を見て、首を傾げる先輩に申し訳なくなる。
「俺、久我に何かしたか?」
「いえ、そんなこと…………っ! 先輩は何も、してません……。私が……っ」
否定の言葉を吐き出す私ののどがひきつった。
……あれ? どうして、かな。前がにじんで見えないよ。
泣くことなんて、しちゃいけないのに。
あの時私は、こっちに戻ることを選んだ。選んでしまった。
だからそう、あの世界を切り捨てたのは私。
彼を、ルイスさんを切り捨てたのも、他ならない私自身なんだから。
なのに悲しむなんて、そんなことは許されない。
これは完全な、自業自得なんだから。
そっくりな顔をしてるのに、目の前にいるのは彼じゃない。
……私が好きな、ルイスさんじゃない。
その事実がどうしても
季節が
まるで夢を見ていたみたいに、
だとしたらその時が、一刻も早く来てほしい。
息をするのもしんどいほど、毎日ルイスさんの影を探してるのに。
この世界にいるはずがないってことくらい、わかっているのに人混みの中で彼の鮮やかな紺碧の髪を探してる。
言葉につまって泣き出した私は、先輩にとって厄介でしかないよね。
気まぐれで理由を聞いてみれば、相手がまともに答えないで泣き出すし。
迷惑以外の何物でもないよ。
「……っご、めんなさ…………っ」
謝りたくても、
涙を止めたいのに勝手に流れてきて、止まる気配がないよ。
たぶんきっと先輩も、あきれてる、よね。
せめて泣き顔だけでも隠したくて、うつむいた。
「なぁ、久我。俺さ、実は結構黒いんだわ」
「……?」
急に、何の話ですか?
黒いってどういうことなの?
困惑する私をよそに、先輩は普段通りの明るい口調で話を続けた。
「ぶっちゃけ人当たり良いフリしてるけど、ただそのほうが便利なだけだし。誰でも親切にしてればウザい女共が互いに
「……」
…………えっと、つまり。先輩は明るくて面倒見がいいけど、それは単なる処世術ってこと?
今話してるのが、先輩の本音?
「久我も、ボランティアで声をかけてただけだ」
ボランティア。そのつもりで、彼は動いていたの?
でも……。
「だとしても、先輩は優しいです。……それに、そのボランティアに私は救われました。ありがとう、ございます」
「…………ハァ」
「? あの……?」
どうして、ため息なんか?
顔を上げると、あきれた目が私に向けられてた。
「本当、変だわ久我って。そこで礼言うか? 普通言わないだろ」
「え? そう、ですかね?」
キョトンとしてしまって、先輩に対して首を傾げる。すると先輩は目が合うと、自分の髪をクシャリと乱雑に混ぜた。
「だからか知んねーけど、調子狂うんだよ。あんたに見られてないのが」
「……」
こっちの世界に戻ってから、私は先輩を目で追うのをやめた。むしろ、視界に入れるのを避けるようになってた。
だって、先輩を見ると、嫌でも思い出してしまうから。
あの世界においてきた、ルイスさんを。彼に対する、私の感情も。
先輩は悪くない。悪いのは全部、私自身。
「そこらにいる女共と同じ、ただの背景だと思ってた。けど、久我からの視線がなくなって、初めて気になった。他の奴らのときは、一度だってなかったっつーのに」
「え……?」
迷惑なだけだったと思うのに、違うの?
私の視線がなくなって気になるって……。
「どうして、ですか?」
真剣な表情の先輩と、視線が
先輩がこんなに真剣な目をしてるのは、以前見学したバスケの試合の時くらいしか見たことがなかったはずなのに。
それなのに何故今、彼の視線の先に私がいるのかな?
「あんたはもう、俺じゃない誰かを好きなんだと思うけど。絶対にいつか、また俺に振り向かせてみせるから」
「!?」
それは間違いなく、宣戦布告だった。
明るく爽やかな憧れの先輩像の外面を
「覚悟しろよ? すぐにまた、夢中にさせてやっから」
ルイスさんにも以前、似たようなことを言われてたような。
――『覚悟しろよ?』
そう、彼の部屋で話した時。あの時の言葉が、ふいに脳内で再生された。
今の先輩と同じ表情を、あの時のルイスさんもしていた。
「……期待せずに、待ってます」
きっと、ルイスさんへの恋心を消すのは難しい。
すぐには消えないだろうし、消したくなんてない。
だけどこの痛みを、ずっと背負っていくのには苦しすぎて。溺れるみたいに、呼吸すらできなくなりそうになる。
しんどくて、何かにすがりたかった。
もう終わったことだって割り切れて忘れられたら、どんなに楽なのかな。
このまま先輩に流されたほうが、絶対に気持ちが軽くなるはずなのに。それをしてしまうと、ルイスさんと過ごしてた日々も、全てがなかったことになってしまいそうで。
…………だけど。だけどそう、いつか。
私に彼のことを忘れさせてほしい。
覚えてるだけのままだと、
――だから、ここから改めて。もう一度、始めましょうか、先輩。
私達二人の関係を。
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