―88― 襲撃(32)~いつもの覗き見~

 傷だらけの籠の中の鳥。

 サミュエルの瞳に映る今のヘレンは、まさに”籠の中に連れ戻され、開いたままの傷口から血を流している小鳥のごとき一人の女”であった。

 初めて出会った59年前より、背が伸びることも、乳房が膨らむこともないヘレン・ベアトリス・ダーリング。

 初めて出会った時から”変わらない”のは、サミュエルもお互い様ではあるものの、望んで神人の力を手にしたか、望まずに神人の力を手にすることになったかという大きな違いが彼らにはあった。

 いや、正確に言うなら、望んで神人の肉を食べたか、そうでないかだ。


――あの小児性愛者の野郎……”我が妖精 ヘレン”なんて刻んだ悪趣味な金のペンダントまでしてやがったな。両手の指10本に指輪をビカビカに下品に光らせて…………確か、ヘレン以外のガキにも相当に手をつけたって言ってたけど、ガキを抱く(犯す)時、”指輪がガキの肌に当たって痛がったり、痣ができたりすることも、また一興”とか、俺やフランシスでさえ、ドン引きすることまで言ってやがった。…………例の神人の肉をヘレンに食わせた時だって、逃げようとしていたヘレンを監禁し、数日飲まず食わずの状態で相当に弱らせてから、目の前に神人の肉を突き付けたらしいしよ。


 女としても人間としても虐げられ続けていたヘレンは、ついに魔導士として覚醒し、あの小児性愛者を殺した。

 あいつは死んだ。この世から、いなくなった。もう、あいつが自分に触れることはない。

 少女娼婦ヘレン・ベアトリス・ダーリングは、鳥かごより自由になった。自由になったヘレンは、サミュエルとフランシスの手をとった。

 ヘレンを加えたサミュエル、フランシスは、あらゆる面で三人三様とも言えた。だが、それぞれ違っていたからこそ、うまく縁を繋ぐことができたのか、こうして半世紀以上も時を重ね、今に至っていた。

 彼女たちの誰もが、59年前に”ヘレンの手によって1つの決着が着いた”と考えていたことは、まだ終わってはいなかった。あの男の魂は……ヘレンに絶大な苦痛を与え、彼女の生きる世界を”呪われた世界”へと塗り替えてしまった、あいつの魂の残り火はまだ燻っていたのだと――


 サミュエルは、ヘレンから目をスッと逸らした。

 女に生まれたが故に苦しむこととなり、今もなお苦しみ続けている一人の女から……



 次にサミュエルがチラリと目線をやったのは、枝分かれした第二のグループのもう片方であった。

 肉体だけでなく、魂年齢もガキのままの2人の青ざめ方もこれまた顕著であった。

 

 小生意気で、やたらいきがっている少年魔導士ネイサン・マイケル・スライ。

 ネイサンの顔には、”怖え……怖えよ……”と分かりやすいまでに描いてあった。

 だが、ネイサン自身のプライドによって、この場から逃げ出すことはできないのだろう。

 いつだったか、奴はアダムの家を吹っ飛ばそうともしたらしいが、殴る蹴る、剣で貫く貫かれるなどといった光景には、それほど免疫はないらしかった。

 魔導士ネイサンとしてなら、あの甲板で戦えるというよりも、海賊たちもアドリアナ王国の兵士たちをも蹴散らせるだろう。

 けれども、決してドンくさくはないにしても、単なる剣を持った15才のガキ・ネイサンとして、あの荒くれ者どもに対峙したとしたら、おそらく30秒以内にグサリと殺られてしまうのは目に見えていた。



――ま、俺も人のことは言えんな。中身は”それほど元気のねえ”ジジイだし、すぐに殺られちまうだろう。そもそも、カテゴリー違いの剣なんてモン、碌に握ったこともないわけだし……

 そして、サミュエルは、第二のグループの最後の1人へと、視線を移した。

 人形職人オーガスト・セオドア・グッドマン。

 この船にいる者の中においては、良い言い方をすれば(マリア王女への盲目的な愛以外は)一番、癖も灰汁もなく普通の者。悪い言い方をすれば、一番肝が据わっていないチキンハート。

 オーガストは最愛のマリア王女を両腕に抱きかかえたまま、目の前の覗き見のさざ波より顔を背けていた。だが、戦う男たちの剣が交わる音、怒号、呻き声――”間違いなく人の息の音が止まったであろう音”は、彼の鼓膜をブルブルと震わせ、肌をブワッと粟立たせているのだろう。

 人体解剖の場に居合わせて吐いてしまうような男が、この光景に耐えられるのはあと数分か、とサミュエルは考える。

 今にもこの部屋から逃げ出したい。それか近くの窓より、胃の底から溜まりに溜まって急きあがってくる吐瀉物をまき散らしたくなっている衝動を、必死で堪えているに違いなかった。


――あいつ、本来なら、戦いや策略などとは程遠い奴だからな。市井で平凡な真っ当な民として生きていくのが、あいつの魂には合ってるだろ。仮に神なんてモンがいて、ひとりひとりに社会における役割を与えているとしたなら、そのつもりでこいつをこの世に誕生させたんだろう。人を枠にはめるのは好きじゃねえが、あいつのあまりの場違いさに、つい”元通りの枠”へとはめたくなってくるな……


 

 残酷な光景に震えあがり、リバース寸前のオーガストがここに居続ける理由。

 それはサミュエルも、そして同じくオーガストと”彼の両腕の中に抱かれている者”へとチラリと目をやったフランシスも分かっていた。


 もし、あの船がペイン海賊団の手に”完全に”落ちてしまったとしたなら……

 勝者であるペイン海賊団の者たちは、間違いなく船の内部へとその手を伸ばすに違いない。船の内部には、マリア王女の本体がいる。

 野蛮で女に飢えているであろう海賊たちが、何人の並ぶことのできないマリア王女のあの美貌を前にしたなら……オーガストにとっても、現在”マリア王女の肉体の中にいる者”にとっても、身の毛がよだつ最悪の事態となってしまうのだ。

 そして、もう一つ、オーガストがこの部屋を去らない理由があった。

 それは……

 今、オーガストの両腕の中で、彼の最愛の者が、彼自身が作り上げた人形の頭部だけのくせに、美しき青の瞳を輝かせ、ほうっと覗き見のさざ波という”残酷動画”に見入っているのだから。

 王女マリア・エリザベスの瞳は、まるで毒蛇の鱗のごとくきらめき、唇は喘ぐかのように淫靡な動きを見せ、そのなめらかな白い頬はオーガズムの階段を着々を駆け上がっているがごとく上気していた……

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