襲撃

―49― 襲撃(1)~囚われの船~

 パオロ・リッチ・ゴッティは、鏡で確認しなくても自分の頬が腫れ上がっているのが分かっていた。自分の顔がどうなっているのか知りたくても、彼は自分の顔を自身の手で触れることもできなかった。

 彼は”自分の船”の一室にある柱に後ろ手で縛られていたのだから……

 鼻の下や顎にこびりついた血を綺麗な水で洗いぬぐうことなど、もちろんできるわけがない。今や完全に乾ききっているその血は、ゴッティの浅黒い肌をひりつかせる不快なものであった。


 ”自分の意志で満たすことができない”喉の渇きとともに、ゴッティは咳き込んだ。

 咳き込んだ時、奥歯がぐらついたのがゴッティには分かった。

 歯は何本か砕かれ、折れてもいるのだろう。

 だが、目は潰されてはおらず、鼻も”かろうじて”折れてはいないとだろうと……

 そもそも、目など潰されていたら、自分が今こうして感じている痛みなどではすまないはずであるし、自分の両の瞳は”外道どもに荒らされて尽くしたこの船室内”の状況を、残酷なほど鮮明に映し出していたのだから。

 

 

 数本の酒瓶が床に転がっていた。

 飲み残しの酒は酒瓶の口よりだらしなく床へと垂れ流され、そしてあろうことか”あの外道ども”の吐瀉物と思われるものまで床に残留していた。もちろん、”あの外道ども”が咀嚼したであろう肉の骨や、果物の残骸も転がっている。

 侍女たちがこまめに清掃し磨き上げていた清潔な船室――いや、この”ゴッティの船そのもの”は、いまやこのうえなく不潔で禍々しい空間へと変わっていた。



 そして、船室の窓の外には漆黒の闇が広がっている。

 漆黒の闇。一面の暗黒。

 それは、ゴッティにとって今は真夜中であるという事実を突きつけるだけではなく、永遠に夜が明けることない暗黒の世界に迷い込んだかのごとき光景であった。

 朝日が昇ることがない世界。

 闇に包まれし世界。

 どれだけ神に祈ったとしても、救いとなる希望の光など、今自分がいるこの暗黒の世界に届けられやしないだろう。



 けれども、ゴッティは祈った。祈り続けた。

――どうか助けてくれ、この状況から救い出してくれ、私は無理でもせめて妻と娘だけは……!!


 瞳を閉じたゴッティの目じりより一筋の涙が流れ、腫れ上がった頬へと流れていく……

 ゴッティの脳裏に、自分たちがこの暗黒の世界へと、囚われてしまった”あの日”の光景が蘇ってきたのだ。




※※※




 命の恵みのごとき陽の光に包まれ、母の囁きのごとき穏やかな波の音に抱かれたこの船は、ゴッティたちの自国への帰路を、爽やかな追い風とともに駆けていた。

 自国へと――エマヌエーレ国へと戻る。

 エマヌエーレ国の大地へと下りたち、自分たちの城の門をくぐり、自分たちの部屋のベッドでゆっくりと眠り、旅の疲れをとるであろう帰宅の日は、予定どおりにいけばあと4、5日後かと予測されていた。



 何事もなく無事にこの船旅が終わることを、神に約束されたかのような穏やかな波の音に耳を澄ませながら、船内の廊下を歩いていたゴッティ。

 だが、突如、頭上より――おそらく甲板にいた侍女の1人より発せられたであろう甲高い悲鳴が響いてきた。

 ゴッティは、”まさか、誰か海でも落ちたのか?”と、急いで甲板に向かおうとした。

 「海賊だ!」と従者の誰かが叫んだ声が、叫び続ける侍女の悲鳴と重なりあい、ゴッティの耳に届けられた。



――海賊!? まさか……!?

 海の悪党である海賊という存在は、ゴッティも船旅に出るにあたって充分に承知していた。

 だが、まさか自分たちが海賊に遭遇するなんて、まさか自分たちの身にこんなことが起こるなんて……

 これは夢か? それもとびきり禍々しい悪夢のプロローグか?

 自分がいる”ここ”が現実とは思えなかったゴッティであるが、甲板より響いてくる悲鳴と”怒声”に我に返った。

 その”怒声”は、明らかに一人の男が発しているものではない。



 海賊”たち”は、今すでに、この船の甲板にいるのか!? この船内への侵入は絶対に防がなければ……!! と、従者の男たちに指示を出すために駆けだしたゴッティであったが、時はすでに遅かった。


 海賊たちは真新しい血で汚れた剣を手に、すでにこの船内へと入り込んでいたのだから……


「旦那様! 早くお逃げください!」

 叫んだ執事の背中を、海賊の男は一撃で叩き切った。

 何十年も我が家に仕えていた、それこそゴッティ自身が生まれる前より家に仕えていた何の罪もない善良で温厚な執事の苦悶の死に顔。そして彼の肉が薄くなった背中より吹きだした血しぶきは、まるで赤い花がパッと咲いたように、鮮やかなものであった。

 禍々しく恐ろしいこの現実の悪夢は、悪夢にあってはならない美しさまでもを孕んでいた。 


 

 後ずさったゴッティの背中に、またしても甲高い女の悲鳴が聞こえてきた。

 悪夢はゴッティに、執事の死を悼む間も一切、与えなかったのだ。


――今の声は……娘だ!

 今、聞こえた悲鳴、いや絶叫は、確かにゴッティの愛娘の声であった。

――どこだ? どこに……!!

 娘を、そして娘とともにいるであろう妻を守ろうと、ゴッティが振り返った時、拳が右頬を砕いた。

 突然の衝撃に壁に盛大にぶつかったゴッティに間髪入れず、もう片方の頬にも拳が飛んできた。

 拳は2回では終わらなかった。

 

 殴りつくされ、ついに床にどさりと倒れた動けなくなったゴッティの腹部に、強烈な蹴りが一発お見舞いされた。

 ゴッティは、胃の中のもの全てを、いまや彼自身の血が飛び散っていた床に吐き出した。

 ゴッティの霞み始め、グラグラと揺れ続け定まらぬ視界に最初に映ったのは、4本の足であった。


「……ジム、こいつが、このセレブ船の”キャプテン”ってことでいいんだよな?」

「多分、そうだろ。旦那様って呼ばれていたしよ。つうか、俺たちが後ろから忍び寄ってることにも気づかないなんて、ドンくせえおっさん」

 ジムと呼ばれた男の笑い声。



――貴様ら、一体どこから侵入した? なぜ、私の背後にまで……?

 血にまみれた唇で喘ぎながら、ゴッティは自分を見下ろす4本の足の主を――2人の海賊の姿をこの目に焼きつけようと、顔を上げ……


 


※※※



 その時であった。

 ”あの日”からの暗黒の世界の始まり、そして今もなお暗黒の世界にいるという現実を証明を残酷に突きつけるかのように、ゴッティが柱に縛り付けられ囚われているこの部屋の扉の向こうより、乱暴な”複数の足音”が響いてきたのだ。


 この部屋に向かってくる者。

 それは決して自分の妻や娘などではないし、従者たちでもない。

 もともとこの船に乗っていた男は、自分以外はすでに海賊たちに殺されているのだから。


 乱暴な足音の持ち主たちは、手ではなく足で、乱暴に扉をバアンと蹴った。

 荒々しくけたたましい音を立てた開いた扉は、哀し気な軋み音までも発した。


 紫がかった黒髪に榛色の瞳の鋭く険のある目つきをした若い男。そして、その黒髪のより頭一つ分は背が高いであろう赤茶けた髪と栗色の瞳をした男が、扉に向こうにいた。

 そう、この2人の海賊こそ、”あの日”のゴッティが苦痛に喘ぐ視界でとらえた2人の海賊――ジムとルイージであった。

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