―43― ”まだ”穏やかな船内にて起こったある事件(25)~レイナ、そしてルーク~

 兵士隊長パトリックの優しい言葉と微笑み。

 やや厳つい肉体と形容できる彼から放たれている優しいオーラに、レイナの緊張の糸はほんの少しだけ緩み始めたが……


「あ……ありがとうございます」

 レイナは、固いトレイを胸の前で抱いたまま、パトリックにペコリと頭を下げた。

 ”もしかして、ディランさんたちから聞いたのですか?”や、”本当に皆さんにご迷惑をかけて申し訳ないです”といった言葉も、レイナの喉元まで出かかってはいたが、いざ口から言葉を紡ぎ出そうとすると難しかった。

 家族でもない、友達でもない、自分とはある程度の距離がある大人の男性、しかも鍛えられた肉体の長身の男性を前にしているレイナの緊張の糸は緩み始めたままの状態で、固まってしまったようだ。

 それに……

 目の前のパトリックのその言葉や微笑みは、15才の少女の魂に対してではなく……もっと幼い子供を対象にしたもののようにレイナは思わずにはいられなかった。



 レイナが知っているパトリック・イアン・ヒンドリーのプライベートな情報――「兵士隊長であること」以外の情報は、年齢は年はおそらく38才か39才で自分の魂とは年が二回り以上離れていること、既婚者でまだ幼い3人の子供がいるらしいとの2点のみであった。

 パトリックの顔立ちはまずまず整っているはいるが、美しさよりも精悍さの方に彼の容貌の天秤は傾いていた。そして、レイナから見るパトリックは、どこか古の大樹を思わせる存在感を放つ男性であった。

 精悍でありながら、やや面長で古風な顔立ちのパトリック。

 ルークたちなら、この世界の今の時代の服装も似合っているし、レイナの元の世界における若者の流行の服装を身に着けて髪もセットしたなら、それほど違和感は感じないだろう。

 時代に風があるとしたなら、パトリックはどこかルークたちとは数世紀以上離れた時代に生きている者のごとき雰囲気を醸し出していた。

 パトリックの今現在の兵士としての服装も、全く似合っていないというわけではないし、彼の佇まいからは凛々しさと力強さを感じさせる。だが、彼はダークブロンドの長髪であることもあり、レイナがうっすらと覚えている映画に出てきたような古代ギリシャ人系統の服装の方が、より彼にしっくりとくるような気がしていた。

 


 当のパトリックは、レイナが緊張しながらもパトリック自身をより魅力的に見せる格好について心の中で考えているなど、当たり前だが読み取れるわけがなく、言葉を続けた。

「……まだ、この世界での慣れないことばかりだと思うけど、何か困ったことがあったら、必ず周りの者に言うんだよ。自分一人で判断して動いちゃいけない。これからは、特にね……」


 そのパトリックの言葉に、我に返ったレイナの胸はドキリとしたというか、またしてもツキンと痛み、心臓の鼓動がより早くなったような気がした。

 パトリックもやはりディランと同じく、「レイナが明らかに見えている危険を回避するどころか、その危険の中に自ら飛び込むような迂闊な行動」を優しい言い方ではあるが咎めているのだ。


「は、はい……本当に申し訳ありませんでした……」

 レイナはもう一度、さらに深々とパトリックに頭を下げた。

 実を言うと、レイナは自分自身は超絶賢いわけではないが(高校受験に失敗したわけであるし、中学時代も成績は上位であったも他の生徒から群を抜いていたというわけでもない)、決して愚かではないかと思っていた。

 けれども、生きていくうえでの賢さや危険を回避する能力は、今の自分はあまりにも低すぎると……

 仮に自分の魂ではなく、現代日本に生きていた他の15才の少女がこのマリア王女の肉体に誘われていたとしても、自分などよりもずっとしっかりした考えを持ち、異世界で積極的にコミュニケーションを取ることができる少女は多数いるはずだ。それに、状況に応じて、適切な判断を”一人で下すことができる”聡い少女だっているだろう。

 パトリックは、レイナにはそれが無理だと思ったから「自分一人で判断しちゃいけない」と忠告してきたのだ。

 やはり、自分自身は選ばれて、この世界にやってきた魂ではない。


 でも、そんなことは言い訳なんてならない。

 自分は今、ここにいる。

 自分の意志で、”希望の光を運ぶ者たち”とこの船に乗り、旅立つことを決めたのだ。

 パトリックのいう通り、これから先は本当に何が起こるか分からない。

 自分の魂と”マリア王女の肉体”だけでなく、周りにいる者に被害が及び、巻き込んでしまうことは絶対に避けなければ……



  優しい笑みのまま、レイナに頷いたパトリックは彼女に軽く手を振って、その場で彼女と別れた。

 

 レイナは、まっすぐに食堂に戻り、その後、船室フロアの掃き掃除に従事する。

 だが、パトリックは、”船内の事務室”へと向かった。

 事務室という呼び名が正しいかどうかは分からないが、肉体ではなく、頭脳を使って仕事をする者のテリトリーである。

 そこには、アドリアナ王国側からこの旅路に向けて持たされた”文書”も、保管されているのだ。



 パトリックは、なぜか、その文書を――乗船者たちの名簿や危険な海域が記された地図、ならびに悪名高き海賊たちの人相書きの幾枚かを――再度確認しておこうと思ったのかは、自分でも分からなかった。 

 確かに出港前にはいろいろとあったし、乗船している者(船医と兵士たちの一部)には多大な不安を感じるが、万全の体制が整っているこの船自体は計画通り、様々な危険を避けたより安全なルートを予定通りの日数で進んでいるには違いない。

 穏やかな波に乗り、順風満帆に進むこの船の後方に”エマヌエーレ国のものらしき船の姿”が見えると、一人の航海士が教えてくれた。

 おそらくエマヌエーレ国の貴族が、帰国の船路を辿っているのだろう。

 不安をもたらす要素は極めて少ない。なのに、湿気のようにじっとりとした不安の影は、パトリックの中から消えそうになかった。

 魔導士でもない彼の第六感が何かを伝えようとしているのか?

 このことは、パトリック自身が、陸の男であるということも関係しているだろう。船に慣れきっている海の男たちとは違うため、情けなくも神経過敏になっているだけかもしれないが……

 


 エヘンと咳ばらいをし、喉の奥のつっかえをとったパトリックは、念のために扉を2回ノックすると……事務室の中からは、ダニエル・コーディ・ホワイトの声が聞こえた。


 「失礼します」と扉から姿を見せたパトリックに、ダニエルは即座にバッと立ち上がり、異世界からやってきた少女・レイナと同じぐらいに深々と礼儀正しく頭を下げた。


 今、この事務室には――窓から眩しい太陽の光が差し込んでくる事務室には、丸いテーブルの上に航海日誌と年季の入った様々な文献を広げているダニエルしかいないようであった。

 そこにパトリックがやってきたことによって、ダニエルとパトリックの2人だけとなった。


「少しばかり、お邪魔いたします」

 そう言ったパトリックに、ダニエルは直立不動の姿勢のまま、「は、はいっ」と答えた。

 

 国王と王子から直々の宣旨を受けた”希望の光を運ぶ者たち”のうちの1人であり、言っちゃいけないが他の者たちに比べるとあまりにも不健康そうなダニエル・コーディ・ホワイトが、すでに貴族の身分を捨て、平民へと下っていることはパトリックも当然知っている。

 ダニエルとパトリックは同じ平民の身にはなっているが、今現在は、職業やその役職や収入、そもそも年齢自体、パトリックの方が上である。

 だが、今年39才のパトリックは、今までの人生の半分以上を高貴な身分の王族――それこそ、平民の自分にとっては雲の上の存在に仕えていた。どうしても、生まれながらに高貴な血の人間を前にすると、敬語になってしまっていた。


 そのうえ――

 このダニエル・コーディ・ホワイトは、パトリックが今も忘れ得ぬ美しきエヴァ・ジャクリーン・ヤードリーが産んだ子供なのだ。


 いや、あれから20年以上の歳月がたった彼女の名は、エヴァ・ジャクリーン・ホワイトだ。彼女は首都より遠く離れたアリスの町で2人の息子を産み、自分は首都シャノンにて3人の娘を成した。



 パトリックは思う。

 自分があの美しき人の姿をもう一度”見る”ことは二度とないであろう。だが、彼女の血が流れた子供が今、人智を超えた存在なども絡みあった不思議な巡り合わせによって自分の目の前にいるのだ……


 と、非常に意味深なパトリックのモノローグであるが、パトリックとダニエルの母・エヴァが、人知れず思いあっていた身分違いの恋人たちなどといった特別な関係にあったわけでは決してない。

 彼らは言葉を交わしたことすらないし、そもそもエヴァはパトリックのことすら覚えてはいないであろう。パトリック自身もそれは充分に理解していた。


 


 パトリック・イアン・ヒンドリーは、全体的な雰囲気を掴み、そのさらに細部まで目がいく、繊細な観察眼と記憶力の持ち主であった。

 つい最近――アドリアナ王国より”希望の光を運ぶ者たち”とともに出港しろとの命令が下った直後に与えられた休暇に、城外に建てたマイホームに帰った時も、妻の髪型や紅の色、そして部屋の装飾の変化にまで鋭く気づいた。

 妻には「あなたって、本当に男の人にしては、良く気づくし、良く覚えているわね。隣の旦那さんなんて、奥さんが髪型を変えて1週間後にやっと気づいたっていうのに……」とまで、言われてしまった。

 パトリックが上司から紹介によって娶った妻との結婚生活は、まさに「亭主元気で留守がいい」といったところであろうか。

 たまの休暇にしか、パトリックはマイホームに帰ることはできなかったが、充分なほどの給料を王国からもらい、首都シャノンの城近くに一戸建てを構え、妻が髪型や紅を変えたりするほどの余裕もあり、3人の可愛い娘たちは(平民基準ではあるも)金銭的には何不自由なく元気にすくすくと育っている。

 娘たちの年齢は、上から8才、6才、4才だ。

 パトリックと妻の愛の結晶は、規則正しく2年ごとにこの世に誕生した。

 休暇中のパトリックは、その可愛い娘たちに、そのダークブロンドの長髪を三つ編みにされたり、シニヨンにされたり、リボンをつけられたりと、いろいろと遊ばれてはいるが、それもまた家族の愛しさがさらに胸に染み入る時間であった。



 愛妻と愛娘たちを残してアドリアナ王国を発ったパトリック。

 その彼が、まだ17才と青き若さに満ち溢れていた頃、首都シャノンの城内にて、当時の王子であり今は国王であるルーカス・エドワルドの妃選びの舞踏会が開催された。

 その舞踏会に、彼と同じく17才のエヴァが、妃の最有力候補の1人として、彼女の父や兄の1人とともに参加していた。

 その時に、冴え冴えとした青い月明かりの下で見たエヴァ・ジャクリーン・ヤードリーの美しさは、今もパトリックの胸に色褪せることなく、蘇ってくるのだ…… 

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