―35― ”まだ”穏やかな船内にて起こったある事件(17)~レイナ、そしてルーク~

 軽薄、陰険、そして女性蔑視の船医・ガイガーから渡された、というよりも服の中に猥褻行為同然に放り込まれた鍵。

 レイナは、その鍵を今から下の船室にいるスミスという名の兵士――レイナ自身、顔や背格好と名前が一致しない、つまりはまだ覚えていない兵士へと、届けなければならない。


 レイナは思い出す。

 ルークたち7人と一緒に首都シャノンから港町にまでやって来て、この船に乗った若い兵士も十数名はいる。だが、その十数名の中にスミスという名の兵士はいなかったように、レイナは記憶していた。

 おそらく、スミスなる兵士は、港町にて待機してルークたちに合流し、ともにこの船に乗った兵士であるだろう。

 

 自分の手の内にあるこの鍵自体がどこの鍵なのかも知らないし、分からない。それにガイガーが、どういった理由で自分にこの鍵を託したのかも分からない。女性蔑視をしている彼が、”何かにイライラしていたかで”たまたま廊下を歩いていた自分にその矛先を向けただけかもしれない。


 けれども、あのガイガーとこうして鍵の共有をしていると思われるスミスも、非常に失礼ではあるも、ガイガーと似たり寄ったりの女性観を持っているのではないかと、レイナは危惧せずにはいられなかった。

 類は友を呼ぶ。

 朱に交われば赤くなる。

 この場合、どちらがより適切な諺かは、まだスミスの顔も分からず、実際の人となりも知らないため、不明である。

 スミスは自分が危惧しているような、ガイガーのようにいやらしい人物ではないかもしれないが、気が重く”苦しい”としか言えない状況であった。

 レイナは、再び、自らを奮い立たせるように、大きく、そして深く、深呼吸をした。



 下の船室フロアへと――

 空いた方の手で手すりを掴みながら、”17才の少女にしては”体重が軽い部類に入るであろうに、たまにギシッと軋み音を立てる階段を下りきったレイナ。

 緊張と恐怖。

 いや、レイナを襲ったのは、それだけではない。


 船室フロアへと下り、小幅で足音を立てないように、数歩踏み出したレイナは反射的に鼻を押さえていた。

「う……」

 鼻を押さえてしまっただけでない。レイナの口からは、呻きみたいな声が、漏れてしまった。


 船室フロアは、独特の匂いに包まれていた。自分が先ほどまでいた階上の船室フロアとは、全く違う匂いである。

 この独特の匂いであるが、鼻がもげるような悪臭というわけでは決してない。

 レイナは、つい鼻を押さえてしまい、つい呻きを漏らしてしまっていたが、しばらく経てば……あと数分もすれば、鼻もわずかに慣れてくるのではと思えるような匂いであった。


――何だろう? この匂い……

 鼻からそっと手を離したレイナは考える。

 これは肉の匂いだ。でも、調理で使う肉などの匂いではない。

 この肉の匂いには、熱が含まれている気がする。でも、それは炎による熱ではない。


「!」

 天からの閃きのごとく、この独特の匂いに対しての解答がレイナの脳裏に下りてきた。

――これは男の人の匂いだわ……

 そう、まさしく、若い兵士の男だらけのこの船室フロアに漂っているのは、”男の匂い”であった。

 若々しい雄の肉体、剣を手に荒ぶる闘志と情熱……まあ、あえて言葉として形容するとしたなら、こういう表現になるのかもしれないが、今、レイナの鼻孔を震わせているのは、”元の自分の肉体とも、そして今自分がいる肉体とも”違う性を持って生まれた数多の肉体が放っている匂いであった。



――お父さんもお兄ちゃんも、わりと綺麗好きで几帳面だったから、同じ家で15年間暮らしていても、2人からは男の匂いを感じたことはなかったわ。いや、”家族を異性として”見たくはない”から、お父さんやお兄ちゃんから男の匂いなんて感じずにいてよかったけど……お父さんはお父さんだし、お兄ちゃんはお兄ちゃんだもの。


 スミスのいるらしい船室を目指して、そろりそろりと抜き足差し足で(どうか”知らない兵士の人”と鉢合せしませんようにと)廊下を歩くレイナ。

 彼女は、自分の兄を完全に性的対象として見ていた”この肉体の持ち主”とは違い、近親相姦には嫌悪しか感じない性分であった。


――若い男の人が何人も集まって、寝泊まりをしているところでは、こんな匂いがするのね。ううう……怖いよ……一刻も早く、上に帰りたい……

 手の内の鍵をグッと握りしめたものの、心では早くもべそをかき始めたレイナ。

 そんな彼女が、さらに前へと自身を奮い立たせ、そっと一歩を踏み出した、その時――




「……レイナ?」

「ひゃっ!!」

 突如、背後から自分の背にかけられた声に、レイナは飛びあがってしまった。いや、飛びあがっただけではなく、変な声まで出してしまった。


 振り返ったレイナの瞳に映ったのは、慣れぬ男の匂いに包まれ、心の中でべそをかいているこの状況の救いとも言える存在であった。しかも、その存在は1人ではなく、2人であった。


 ディラン・ニール・ハドソンとトレヴァー・モーリス・ガルシア。

 希望の光を運ぶ者たちのうちの2人。そして、今のレイナにとっては、救いの光を自分の心の差し込ませてくれた2人。

 彼ら姿にレイナは、思わずほっと大きな息を吐いてしまっていた。



「何してんの? こんなところで……」

 先ほど、レイナの背後より声をかけたディランが問う。

 彼の数歩後ろより続く、トレヴァーも不思議そうな顔をしていた。

 むさくるしい男だらけのこの船室フロアの廊下で、上の船室フロアにいるはずのレイナの、光輝く美しい金色の髪とほっそりとした後ろ姿があった。

 何かの用があって、レイナはここに”1人で”下りてきたことは間違いないとは思うが、非常に不思議な光景というか、おかしな光景であると彼らは思った。

 非常に下品な例えではあるが、今のレイナの姿は狼の群れに迷い込んできた羊を思わせるものであった。

 



「あ、あの……実は……」

 緊張と恐怖と男の匂いに震えていたこの状況にあって、どちらも穏やかで優しい性質であり、普通に話ができる間柄であるディランとトレヴァーに逢うことができた。

 思いがけない幸運に感謝し、胸を撫で下ろしたレイナは、自分がこの船室フロアに来ることになった数分前までの経緯を彼らに話した。

 もちろん、ガイガーの女性蔑視の言動や猥褻行為については話さなかったというか、男性である彼らに話せやしなかったが……



「船医のガイガーが?」

 レイナから一連の経緯を聞いたディランが、トレヴァーと顔を見合わせた。

 顔を見合わせたディランとトレヴァーは、互いに言葉には出さずとも、同じことを考えていることが分かった。


 自分たちがこの廊下にて、レイナを見つけたのは単なる偶然であった。

 でも、この偶然がなければ――自分たちが自室に戻ろうとするタイミングが今より数分ずれていれば、そしてレイナがこの船室フロアに下りてきたタイミングが今より数分ずれていれば――レイナが”酷い目”に遭っていた可能性がある。

 本当に、今ここで自分たちがレイナを呼び止めることができてよかった。

 あの船医・ガイガーの「スミスに鍵を届けてくれ」なんて、単なる口実であるだろう。ガイガーは、不良兵士スミスに博打で大負けしたとの噂を聞いている。だから、ガイガーはその穴埋めとして、スミスにレイナを”あてがう”気であったに違いないと……

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