―10― 曇りなき空を進みゆく船の中で(2)
人は、いや特に女は、年齢を重ねることを嫌がり……自然な時の流れに抗おうとする者が大半であるだろう。
シミやシワなどもない、瑞々しい若さに満ち溢れた肌に――若い娘と形容されていた時代の肌よりも、より無垢で透明な”子供”の肌への回帰を目指し、身分の高い女は鏡を見て念入りな手入れを行い、日々鏡の中の老いゆく自分と対話し続け、そして、鏡などを手に入れることのできない身分の女は水を汲む際、その水面に映る自分の姿を見て、苛立ちとともに溜息を吐くのだろう。
だが、今、サミュエルの側にいる――ピッタリくっついているわけではなく、単に彼の看病をするためにこの部屋にいる魔導士ヘレン・ベアトリス・ダーリングにとっては、大勢の女が欲しがるであろうシミやシワが刻まれることなどないその不老の姿は、まさに牢獄であり、彼女を忌まわしい記憶よりがんじがらめにする呪いでしかないのだ……
ヘレンは自ら望んで、神人の肉を食べたわけではないのだから――
サミュエルは、その紫色の瞳をそっと閉じた。
彼は思い出す。
ヘレンの当時の”保護者”――非合法であり、べらぼうに値段が高く、そのうえ自分は性に対象になど到底することができない女のガキばかりを集めた娼館を経営していた、べらぼうに悪趣味なファッションセンスの中年男を。
――両手の10本の指全てにビカビカと光る指輪(小児性愛者向けの裏娼館は相当繁盛していたんだろう)をしたあいつは、俺とフランシスの隙を見て、神人の肉を盗んだ。(こっそり、失敬したつもりだったかもしれねえけど、即バレしてたんだよ。俺たちを舐めやがって)しかも、その肉をどうしたのかと思えば、お気に入りの”ガキ”に食わせていた。……で、キレたガキに殺される始末。あの男を”焼き殺した”時まで、ヘレンは自分の力をうまく放出することができなかったらしいが……虐げられ続けた女の怒りがヘレンの場合は魔導士としてのスイッチとなったのか。まあ、あの男はグログロで目をそむけたくなるような死体になっちまったけど、あの男の生き様にふさわしい最期だった……
そして、彼はさらに思い出す。
彼の場合は記憶の扉が音を立てて開き始めたというわけではなく、ズタ袋のような――そう大切ではない袋の中に無造作に押し込まれていた記憶のいくつかを強引に引っ張りだしてくるといった具合であった。
大切ではない、どうでもいい記憶たち……
――あれから59年……今も俺と行動をともにしているのは、フランシスとヘレンだけだ。俺たちと一緒にいることを選んだヘレン(ヘレンは俺もフランシスも幼女には興味がないことを本能的に感じ取っていたんだろう)は、フランシスに読み書きや魔術などを習い、今もこうしてここにいる。フランシスが「あなたは物覚えがいいですね。打てば響く方を教えていると私もやりがいがありますよ」と言っていたことも。一緒に神人の奴らを襲撃した奴らの大半は散り散りとなって、うち1人はエマヌエーレ国にいると聞いている。その”あいつ”は――絶対に”あいつ”は絶対に一種の病気だ。これから先、”あいつ”に再会することがあっても二度と手なんて組みたくないぜ……
そして、フランシス……本来のあいつは、160年ほど前に誕生している。そのうえ、あいつは俺やヘレンみたいな、神から選ばれし力を天から授けられて生まれたわけではない。それに加え、貧しい生まれであったらしいが、顔と身長だけには恵まれていたんで、旅一座に属しつつ、時々男娼のようなこと(というか、おそらく男娼でしかないこと)をして生計を立てていたと。
だが、ある日……同じ旅一座の男たちと山を越えて、日銭を稼ぐための次なる町へと移動しようとしていた時に…………
「そろそろ、戻るわね」
ヘレンの囁くようなその声と、扉へと向かう足音にサミュエルの意識は”今のこの現実”へと引き戻された。
「ヘレン……」
自分を呼び止めるサミュエルの、腹の底から絞り出しているようなその声に、ヘレンは「?」と振り返った。
「……フランシスは今、どこにいるんだ? 下(地上)に下りているのか?」
うっすらと目をあけたサミュエルの視界で、ヘレンが首を横に振る動きが見えた。
「今、この船は海の上を飛んでいるのよ。だから、フランシスもこの船の中にいるわ」
そして、ヘレンが次に続ける言葉をためらったのがサミュエルにも分かった。
”だから、大人しくしていて。面倒はごめんだわ”と――
もし、面倒――つまりは、体調が全快となった自分とフランシスが本気でやり合ったとしたら、この船は瞬く間に炎に包まれるか、または(俺はあいつに負けるつもりはないが)氷漬けになるだろう。
大海原の上に広がる大空での大面倒――
ヘレンや、あの目立ちたがりのガキ・ネイサンなどは自分たちを止めるほどの力は持っていない。
武闘の神に魅入られて生を受けたようなローズマリーも、神人の板を保持しているとはいえ、その神人の板を操り陸地まで無事戻ることのできる確率は低い。ヘレンとネイサンが、ローズマリーの肉体を支えて、曇りなき青空を飛び続けようとしても、ローズマリーが保持している筋肉の重さによって、全員が海にブクブクと沈んでいくかもしれない。
そして、”オーガストも去ったであろう今”、マリア王女の生首は船から放り出され、魂もろとも海の藻屑となるはずだ。
「サミュエル……フランシスにいろいろ言いたいことがあるとは思うけど、今は我慢して。せめて、エマヌエーレ国の大地を踏むまでは……フランシスには、理性を持った大人としての対応を……」
言いたいことを口に出したヘレンの言葉を聞いたサミュエルは、フッと口元を緩ませていた。
どっからどう見ても子供でしかない外見をしている女に、大人になれと忠告されるなんて、なんて滑稽な図だと。
「分かったよ。ヘレン」
そのサミュエルの言葉に頷いたヘレンは、床についている病人の神経を苛立たせないように、静かに扉を開け、この部屋を出ていった。
それから数刻後、いや数時間以上たった後だったのかもしれない。
サミュエルは、この身をほてらせる熱ではなく、喉の渇きと汗ではりつく寝間着の不快さによって、目を覚ました。
やっと熱が下がったか? 今は昼なのか、それとも夜なのか?
ベッドよりむくりと起き上ったサミュエル。
額より、ぬるくなった白い布(もしかしたらヘレンが数回これを交換に来ていたのかもしれない)が滑り落ちた。
喉の渇きはまだ我慢はできる、何よりも今のサミュエルを不快にさせているのは、汗で肌にはりついているこの寝間着だ。
着替えようとしたサミュエルが、上半身裸になったその時――
部屋の扉が規則正しく2回ノックされた。
「……誰だ? ヘレンか?」
サミュエルのその問いに、扉の外にいる者は一瞬、沈黙したようであった。
だが――
「私ですよ、サミュエル」
フランシスだ。
あいつが、今、扉の外に立っている。
「入ってよろしいでしょうか?」
フランシスは、極めて丁寧にサミュエルに入室の可否を問う。
「……どうぞ」
サミュエルも言葉だけは丁寧に彼に返したが、ケッという舌打ち混じりの苛立ちが存分に含まれていた。その苛立ちは、きっと付き合いの長いフランシスには確実に伝わっているだろう。
キイッという扉が開く音とともに、フランシスがその姿を見せた。
「おや、着替え中でございましたか。でも男同士ですから、このままでいいでしょう?」
上半身裸のサミュエルの姿を見た、フランシスは問う。
だが、サミュエルは何も答えず、鋭い光(いや、怒りか)を真っ直ぐに発する両の瞳をフランシスに向けた。
怒りを今にも放出させようとするサミュエルの鋭い視線と、それを余裕に満ちたまま受け止めるフランシスの視線は、ただ一直線に交わった。
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