9

「――駄々捏ねてんじゃねえよ」


 氷みたいに鋭くて冷めた声。

 振り上げた右腕と、首を締める左腕を同時に掴まれた。


 それも凄い力で。


「っ、う」


 涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、前を見れば。

 苦悩の表情を浮かべていたはずの平井さんが、別人とも思える程の鋭く吊り上がった目で俺を見つめていた。


「平井さ……」


 一瞬だけ籠もっていた腕の力が緩んだ。

 彼女はそれを見逃さず、僅かな隙をついて左手を首元から引き剥がし、俺の両腕を力強く押し戻した。


 その反動でか、彼女が束ねていたシュシュが地面に転がり落ちて、艶のある髪が下ろされる。


 空気の流れが変わった。

 平井さんの纏うオーラが変わった。

 そして俺の中のなにかも、動きを止めた。


「そろそろ勘弁してやれよ、そいつに悪気は無かったんだから」


 腕を抑えたまま、平井さんは男勝りな口調でそう言った。


「もうこれ以上、此処に留まるな、死を受け入れて成仏しな」


 俺を通して、何かを鎮めるように語りかける。

 が、両腕にまた力が入る、抑えられた腕を振り解こうと強張る。


 それでも平井さんは両腕を離さずに捕まえたままだ。


 俺も感じる、怒りや、怨み、悲しみの感情が再び燃え上がっていくのを。


 だめだ……。自分じゃ、抑えられない。


「平井さん……」

「喋るなトーシロー」


 ぴしゃりと言われて口を開けたまま、黙る。


「そう、それでいい、暫く黙っとけよ」


 ついでに頭もカラにして余計な事を考えるなと無理難題を押し付けられ、俺は半分程はっきりしない意識の中、表情を堅くした。そんな無茶な……。

 すると彼女は、わざと抑えていた腕から手を離し、俺の額、こめかみ辺りをがっちりと掴んできた。


 男に掴まれているみたいに少しばかり痛みが生じて、突然のことで体がビクッと跳ね上がる。


 平井さん、一体なにを。


「怒りや、恨み、痛み、悲しみを捨てて、楽になれ。此処にいたらもっと苦しくなるだけだ。いいか、少しずつそいつの体から離れるんだよ……解放してやんな……お前の気持ちはあたしがちゃんと伝えてあげるから、ちゃんと供養もしてあげる、だから……離してあげな」


 また涙が大量に双眼から溢れて落ちていく。

 首が勝手に横に振られる。


 説得を、拒むというサイン。

 しかし彼女は表情を変えずに語りかけ続ける。


「我が儘を言うなよ。死んでしまったらもうどうにもならない、辛いだろうけど、それがルールなんだよ。此処はお前にとってもかなりよくない場所だ。そのうち自我が無くなって、この霊磁場に取り込まれてしまう。そうしたら、成仏できるものもできなくなる」


 それでもいいのか。

 脅し交じりのその問いに、俺の首はまた横に振られた。


「今ならまだ間に合う。成仏して、新しい生を受けなさい。この場に留まり、人をこれ以上怨んではいけない」


 そうすれば、痛みは全て消え、お前が受けた屈辱や悲しみも癒される。


 その言葉に対して、首がもう一度動き掛けたが、今度は、怒り、怨みという赤黒い感情よりも。


 悲しみという感情が一気に増して。俺の口からは嗚咽が零れ、もう涙袋が空になるんじゃないかと思うぐらい、しょっぱい涙が次から次へと頬を伝う。


 悲しくて悲しくて、仕方が無い気持ち。


 今までで一番強く感じた。


 そうしたら。平井さんはこめかみを掴んでいた手を離して、今度は俺の頭部に手を置いて優しく撫で始めた。


「そうか、お前、家族がいたんだなぁ……」


 頷くように縦に動く首。


「悲しいな、離れるのが辛いな……」


 口から呻き声が勝手に出て行く。


「家族を置いていけないと……でもな、お前がこの場で人を呪い、悪霊となってしまえば、残した家族のことも忘れてしまう、忘れたまま、ずっと此処から離れられなくなってしまう、それは、嫌だろう……?」


 また首が縦に振られた。


「だったら、成仏して、もう一度この世に生まれた方が良い。お前はこんな酷い死に方をしたんだ、望むならもう一度猫として此処に生まれさせて貰える、きっと」


 そうすれば家族と再会できるかもしれない。


「さあ、どっちがいい」


 平井さんは頭から手を退けて選ばせる。


 この場所に留まって悪霊になるか。

 こいつを解放し、成仏して、生まれ変わるか。


「っ……」


 いつの間にか、暴風の如く吹き荒れていた凶暴な感情は静まり。

 悲しみも薄らいでいた。

 強張っていた体からは幾らか力が抜け、激しく溢れ続けていた涙も、少しずつ、止まっていく……。


 鼻水を啜り、左の腕がよろよろと動いて、平井さんの腕を弱く掴む。


 少しの沈黙のあと、視界が真っ暗になった。

 目を閉じたのだ。


「ああ、分かったよ。……そうしな」


 暗闇の中、平井さんの声がしたと思ったら。


 まるで風船が空気を抜かれるように、俺の背中から腰にかけて、ゆっくりと中から外へとなにかが抜け出ていく感じがした。それと連動して、鈍っていた感覚が鮮明なものへと変わっていく。


 重苦しい鉛を括りつけられたような体は暫くして、気だるさを残し、俺の意志で動くようになった。

 意識こそ失わなかったものの、全てが終わり、長い長い夜が明けた時、俺は地面に力無く崩れ落ちた。


 俺の体から猫の魂が抜け出る前。目を閉じた時。


 いきたい……。と。


 そう確かに頭の中に聞こえた。


 ◆◆◆


 平井さんによって供養された白猫の死骸を、今度こそ埋葬してやり。

 俺達はコンビニの前に戻ってきた。


 日が昇りかけ、雑木林から暖かい太陽の光が差し込み俺達を照らす。やっと夜が明ける。


 長い夜だった、……それでも、いつだって必ず夜は明け、太陽は昇る。


 目の周りがヒリヒリして痒い、あれだけ涙を流したんだ、きっと腫れているに違いない。


 昇ってくる陽の光を受けながら、俺は隣に立つ平井さん、いまだキツい吊り目のまま腕組みをした彼女をちらりと見る。


「なに見てんだよ」


 噛み付くように睨まれた。

 ひ、平井さん……、さっきから思ってたんだけど。一体どうしたの……。

 でも、まあ取りあえず。


「ありがとう、ございました……。助けてくれて」


 すると平井さんは鼻を鳴らして笑い、何をするかと思いきや俺の胸倉を掴んで顔を強引に引き寄せた。


「勘違いすんなよ、新人。お前を助けようとしたわけじゃない」

「うぐ」

「あたしが此処に出てきたのはが危なくなったから、ったく厄介な霊媒体質が、無防備過ぎんだよ。今度から気をつけな」


 理解し難い意味深な事を言って彼女は俺の胸倉を解放する。


 そして。


「タバコ出せ」

「……は?」

「持ってんだろ、それから、火」

「え……は……?」

「もたもたすんなよ、早くしな」


 目がマジだったので、ビビった俺はバイクの座席の蓋を開けてそこから、セブンスターの箱とライターを取って渡した。

 そしたら火を点けろとか言われて、コンビニの前で俺はまるでヤクザの頭にするように、平井さんの煙草に火を点けた。

 隣を見れば、ぷはーっと、平井さんが煙草の煙を吐き出す。

 おい、なんだこの光景は。


「あの、平井さん……」

「あ?なに」

「どっか頭ぶつけました……?」


 それとも、首が締まった時にどこかをおかしくしてしまったのか。


 だってこんな平井さんは、平井さんじゃない。


「具合悪かったら、病院行きましょう……俺、責任持って連れていきますから」


 怯えながらそう言えば、彼女は煙草を咥えながらくくくっと笑って、哀れなものを見る目で俺を見た。一体何が可笑しいのか。


「おっまえ、まだ気がついてないわけ?」

「気がつくって……なにが」

「あたしのことだと思ってんだ、くっくっく……。違う違う、今のあたしは平井でも、だから」

「え……」


 この人何を言っているんだ。


「どういうことですか……」

「簡単な話、平井かなめと私は同一人物のように見えて、同一人物じゃない。まあ、お前とは前にも一回対面したっけな、そうそうあの時は確か、女に首締められてたんだよな」

「あの時って……」


 そうだ、覚えがあるぞ。

 平井さんと深夜に初めて対面した時、平井さんは今と同じ顔付きで、こんな口調で喋っていた。


 どうなっているんだ……、嘘を吐いているふうには到底見えない。


 本当に別人になり変ってしまったみたいだ。体は平井さんだけど、中身だけ違うみたいな。

 まるで、二重人格。


「ま、言っても訳わかんないだろうから後でかなめに聞いときな」


 煙草を吸い終えて、彼女は大きく伸びをした。


「あたし帰るわ」

「は!?」

「なに?まだ何かあんの、大丈夫だよ、今かなめ出してやるから」


 電話の相手を代わってやるみたいな言い方だが。


 どうやらこの人とこれ以上話せなくなってしまうみたいなので、俺は本来の平井さんとは思えない程恐い表情をする彼女を引き留めて一番肝心なことを問う。


「あの……、どうして、あの猫は俺なんかに」

「聞きたいの?」


 少しめんどくさそうな顔をされたが、彼女は説明してくれた。


「お前があの猫に狙われた理由は二つある、一つは、お前が無防備過ぎる霊媒対象だったこと。もう一つは、お前があの猫の恨みを逆撫でしたから」

「そんな……」


 っても前者は良いとして、後者は納得がいかない。俺が恨みを逆撫で?全く身に覚えが無い。


「それはあいつらが、あの暴走族達があの猫を轢き殺したんだ。恨まれるのは普通あっちなわけで……どうして俺が、関係ないのに」


 寧ろ埋葬してやろうとした側なのに。


「そりゃあ、あのヤンキー共の方が猫にとっては憎くて呪いたかった方さ、でもお前は自ら巻き添えになる種を撒いた」

「それって」

「お前、あの猫見てとか思っただろ」

「あ」


 思った。

 ほらね。と言うように彼女は不敵な笑みを浮かべる。


「余計な情、中途半端な哀れみがあの猫の怒りを買ったんだよ」

「でも、それは……」

「お前はよかれと思ってそう哀れんでやったのかもしれないけどね。正直そういう連中は、救えもしない奴に哀れまれたってなにも嬉しくないんだよ。食べることもできないのに、猫缶置かれりゃ、そりゃムカつきもするわ」


 悲惨な死に方。最後まで苦しんで、自分の内臓や臓物を目の前で見ながら体が冷たくなって死んでいく絶望感。

 そんな悲しみや苦しみが、人間ごときにけして理解出来る訳が無い。


 中途半端に情をかけてしまえば、それらの恨みを逆撫でするのと同じことになる。


「お前は変に情を掛け過ぎるところがある。でも今回はそれが仇になっただけの話、気をつけな、此処にいる奴らはみんな、死んだら厄介な存在になりやすいからな」


 情けが全て受け入れらないのは、生きてる奴も死んでる奴も一緒だと彼女は言う。


「まあそういう場面に直面したら、余計な情はかけず、次に無事に生を受けることを願って土に返してやればいい。それだけで充分さ。ま、次会う時はもう少しマシな男になっとけ、自分の身くらい自分で守れるぐらいにな。それから……かなめに色目は使うなよ、あたしに殺されたくなかったらな」


 最後におぞましいことを言い残して、彼女は目を閉じた。

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