死神少女5
手放したと思っていたナイフを、ロハンは握っていた。
それはまるで、爆発のような一瞬だった。
信じられないような動作でロハンは立ち上がり、駆け出した。身体が前のめりになって倒れるんじゃないかと思うぐらい前へ突き出しハンスへと迫る。
この時のロハンにはハンスという男しか見えていなかった。
最初に出会ったときから、ハンス・ハルトヴィッツには嫌な予感がしていたのだ。この男は神を信じない。どれほど脅そうが、何をしようと決して自分の意志を曲げることはない。あの階段で出会った時からただただ敵対視していた。異質なのだ。本来なら神官学校にいるべきではない、自分とはまるで違う知識と思考を有す男。もしかしたら何よりも神という存在について知り尽くしている可能性のある相手――
──自分より、強い。
(いや……いや!)
強い弱いの問題ではない。要はこの男が消えればいいのだ。
そのロハンにハンスが気付き振り返った。驚愕に満ちた顔だ。その顔を見てロハンは笑う。自分に説教をたれた男をこの場で殺せるのだ。選ばれた筈の自分を、どうしてただの人間が説教する。──僕は決して悪くない。僕は神に認められた正義だ。悪は貴様の方だ、ハンス・ハルトヴィッツ!
目前まで迫るロハンと、ナイフ。
そして、両者の間に割ってはいる女性の姿が、刹那、一枚の絵のように凍り付く。
次に動きが甦った時、ロハンは女性の胸に肩をぶつけ、その衝撃で女性の身体がくずおれた。
「……あ?」
最初に呟いたのはロハンだった。
「レテーナ……?」
「これで、もう止めてください、ますよね……?」
ロハンの頬に弱々しく触れ、そうして自分の顔に引き寄せ、その頬に紅い手を触れさせる。
黒と白の世界に混じった異色が広がる。しかし闇に飲まれ、黒い液体にしか映らず、実に現実味を欠いていた。
「あ……あ?」
「なにしてるんだッ!」
怒鳴りながら、ハンスは自分の上着を脱いで、シャツの両腕の部分を切り裂いた。それを結んで一本の布にする。
「どけ!」
ロハンをどかし、レテーナの傷口を見やる。彼女の指がロハンの頬から離れ宙を彷徨う。
いまだ深く刺さったナイフを安全に取り除くには、この廊下という場所はあまりにも頼りない。というよりも不可能だった。──安全には。
意を決してナイフを引き抜くしかないと判断し、ハンスは上着を脱いで傷口に切り裂いたシャツを押し当てる。できるだけ出血を防ぐためだ。
「くそ、医者がいれば」
毒づきながらも出来うる限りのことをするしかなかった。ゆっくりとナイフを引き抜く。女性から苦痛の声が漏れる。その度に血が噴き出した。アンナが悲鳴を上げる。それに構わず続けるしかなかった。こんなところで人が死ぬなんて、絶対に見たくはないからだ。
ナイフが全て引き抜かれたと同時に、彼女の腹部を包帯代わりにしているシャツでぎゅっと縛る。
「医者まで!」
叫んでから、彼ははっとして言葉を止めた。
この町は夜になると一切の機能を停止させる。それは深い霧のせいでどんな灯りだろうと闇に吸収されてしまうからだ。
医者を連れてくる?
この闇の中を駆け抜けて? 窓の外を見てみる。先程より霧が濃くなっていた。無理だ。ゆっくりとならまだしも、走って道路を行くなど、よほど事細かに道を記憶していなければできる芸当じゃない。連れてくること自体は不可能ではないが、それまでに相当時間を費やすことになる。
その間、レテーナが無事でいる保証などどこにもなかった。
「ちくしょ……医務室まで運ぶ!」
「いえ、いいんです」
彷徨っていた指先がロハンの頬に触れ、レテーナは笑った。
「私の命で、ぼっちゃんが元に戻ってくれるなら……安いものです……」
「レテーナ?」
ロハンは目を見開いたまま、抱き抱えた女性をじっと見ていた。レテーナというよりもその先にある空気を、初めて目にする異物のような驚きを双眸に点していた。
「僕は?」
「ぼっちゃん……どうか、愚かなことはなさいませぬよう……」
「僕は」
指先が、少年の頬から離れる。
「……ロハン」
声を掛けてみても、一切の反応がない。
「助かるかどうかはわからない」
「僕は」
痩せ細り、身体中に傷を負った少年の両目は一点に定まっておらず、小刻みに震えていた。
「僕は、なんでこんなことをしてしまったのだろう……」
「なんだよ! 今更そんなこと言ってもしかたないだろうが! お前が今できることを考えてろよ!」
半ばやけくそ気味に怒鳴る。焦りが怒鳴りとなって発せられたのだ。急がなければ彼女は死ぬ。しかしケープ市を包む真夜中の霧は無情にも晴れてくれそうにない。
「……そうか」
ロハンはふらりと立ち上がって歩こうとする。何かが煩わしそうに右手で目の前の空間を振り払う動作をしながら、窓の側に立って、いきなり上を見上げた。
彼の視線は虚空を彷徨うようにふらふらとしている。
「レテーナが、死んじゃったよ」
「死んでない。まだ決まってない」
「僕は、人を刺したんだぞ。わかるんだよ。あいつを刺した時も、あの女を刺した時も……そして、レテーナを刺した時も、無我夢中だった。先が見えてなかった」
破った服からきんと冷えた空気を直に感じ、ハンスは身震いした。
──前に、同じような状況と出会った時を、思い出す。
「ロハン、お前、まさか……」
「僕がこれからやるべきこと? そんなの、わかるわけないじゃないか。ああ、わかったんだよ。僕が無茶をしても、レテーナだけは味方だった。レテーナだけは……レテーナ……」
自分の唇を人差し指で触ってから、彼は一筋、涙を伝わらせた。一滴が学校の廊下へ落ち、そうして飛び散った。
「なら、僕もレテーナと同じ処へ逝こう」
『ぼくは死にたいのです!』
恐怖がそこへ足を踏み入れた。
朗々と謳う。詠う。そして、死を謡う。
暗闇の中から、より黒く彼女は現れる。
ハンスは不思議に思う。何故、あの時その存在が少女だとわかったのか。暗闇と同化した何か。人間を超えた何か。本当の恐怖を服のように纏う触れてはならない存在がいる。
鋭く長く、巨大な鎌を持つ小柄な少女。月の光に照らされながらもなお闇が彼女を包む。
──死神が訪れた。
神官学校を卒業し、そうして進むことのできる神教官府からさらに進んだ聖都市の奥深くに真世界への道があり、その先に絶対なる神がいる──神官学校だけではなく、神教官府が唱える教えの内容はおおよそそのようなものだった。
だが、実際はどうだろうか。この存在はここにいるではないか。ケープ市に傲慢な神はおらず、ただ静かな闇の如き恐怖の象徴だけが人間を見守っていたのだ。
廊下の闇から姿を現した少女。いつからそこにいたのかは誰もしらない。たった今その空間に顕れたと彼女の口から語られれば、そう信じるだろう。それだけの存在と価値と理由が彼女にはある。
少女は小さく詠っていた。彼女が死神へと変貌するときに詠っていたのと同じ、死を予感させる歌。
くらりと眩暈がした。廊下に汗がぽたりと垂れる。頭が再び頭痛を激しく訴えてくる。忘れていた身体の不調が蘇り、ハンスの内側から毒を広げていくようだった。全身を不快感と痛覚が走り回り、両足で立っているのも辛かった。
「私が誰だか、わかりますね?」
氷のように冷え切った空間の中で、彼女は告げた。
「ええ、わかります」
ロハンは素直に答える。あまりにも素直すぎた。
ハンスの身体は動かなかった。
孤児院の時とは違う。今度は本当に魂を狩る気でいるのだ。二日前と同等の強烈な殺気は見る者全てを金縛りにし、辺りの温度をどこまでも下げる。死神の瞳から逃れる術はなく、人はそれに恐怖するか、歓喜する。
故に、彼女は死神。
全能なる神が人間の望みを具現化したその姿。
「テース……」
万人が一目で死神と悟る彼女の心を、皮肉なことにハンスは知ってしまった。
「だから、だから俺が……」
金縛りは解けない。いくら力を込めようとどれだけ歯を食いしばろうと、心の奥を鷲掴みにされ、動けなくされてしまったのだ。
神の前において、人などは塵芥に過ぎない。──その塵芥の願いを叶える神に逆らえるはずがないのだ。
「ああ、僕に、死をもたらしに来てくださったのですね」
祈ってから、ロハンは平伏した。
本当の神を前に、彼はどうしようもないほどにその信者と化していた。
「貴方は望みました。だから私はここにいます」
魂のみを狩る巨大な鎌が振り上げられる。
「もう一度だけ聞きます。──貴方の望むものは、なに?」
「僕の望むものは」
(ダメだ)
それ以上喋ってはいけない。
望んではいけない。その望みを口にすれば、その瞬間に彼女の鎌がロハンの心臓を刺し、魂を狩り取ることだろう。
(そんなことさせるわけには……!)
金縛りを解こうともがく。無理に腕を動かそうとすれば激痛が腕を襲い、足を動かそうとすればその足が痙攣してしびれが走る。口もまともに動かせない。通常通りに機能しているのは両目だけであった。
「僕は──」
恍惚とした眼で死神を見上げるロハン。
「死を、望みます」
「わかりました」
死神が鎌を振り下ろそうとした時だった。
その刹那に金縛りが解けたハンスが、一気に駆け、ロハン体当たりをし、二人でもみくちゃになりながら廊下を転げていったのは。
「……ッ」
目を開いて、死神はハンスを視線で追う。
「動けた……」
信じられなかったが、動けたことに感謝する。感謝する相手は誰でも良かった。だが、それだけで事態が好転したわけではない。相手は死神だった。こうして対峙しているだけでも恐怖で心が引き裂かれそうだったが、それでも彼はそう言ってみせる。
「駄目だテース、それはやっちゃいけないことなんだ。確かに俺は君に比べれば非力だろう。けど。これ以上罪を重ねさせないことぐらいはできる」
──違います、これ以上罪を重ねないことに意味があるんです!
ハンスの言葉とレテーナの言葉が頭の中で重なり、ロハンは呆然とハンスへ顔を向けた。
「だから俺は、ロハンを助ける」
「無駄です」
死神は囁いた。
「もう、彼は望みを口にして、音にして、私へ伝えてしまったんです。いくら貴方が逃がしたところで、決定した未来は変わらない」
「変わらないんじゃない。変えるんだよ」
震えながらも彼は笑ってみせた。
「ロハンの未来だけじゃない。テースの未来もだ」
ロハンの腕を掴み、力ずくで立ち上がらせ、走らせた。
「無駄です。逃げられません」
死神が告げる。しかし、その言葉を信じるわけにはいかなかった。だからこそ足を動かし、立ちすくむアンナの手を握り、走った。レテーナも抱えて行きたいところだったが、意識を失っている彼女は死神を見ることはない。だからこそ何もされないとハンスは知っていた。
(知っているだと……違う、思い出したんだ)
走って逃げて死神から離れられるとは到底思えなかったが、それでも今のところ離れるしかない。良い案なんて思い浮かばなかったからだ。
迫り来る気配を背中越しに感じる。
振り返る余裕はない。
(とにかく離れるんだ)
学校の廊下はとにかく長い、一端端までいって、階段を駆け下りようと思っていたのだが──
廊下の先から、冷気を感じた。
ハンスの足が止まる。急に止まったせいで、その背後を人形のようについてきていたロハンが背中にぶつかった。「うわっ」という悲鳴がしたが、気にしていられなかった。アンナからは声が聞こえなかった。小さな少女が震えているのを、自分の手は克明に感じ取っている。
廊下の先。闇の世界から、より一層の人型をした黒が、わざと足音を立てて歩いてきた。
「だから逃げられないと告げたのです」
無表情の死神が大鎌を振り回す。その尖端が壁に当たっているはずなのだが、どういうわけか壁をすり抜けていた。
「ごめんなさい。貴方も──私をまた見てしまったから、まともでいさせるわけに、いかなくなりました」
小さく呻きながら、ロハンの腕を掴み、もう一度全力で駆け出した。
今度は反対側に。
本気で走ればそうそう追いつかれない自信はあったのだが、しかし──
「気付いてください」
自分の真横に少女の顔があった。今度はそれだけの言葉だけを発し、鎌を振るってくる。ハンスは前のめりになりながらもなんとか伏せ、すぐさま駆け出す。二人を掴んだままなのはもう奇跡に近かった。
死神に背中を見せるのは、死を隣り合わせにして食事をするものだとハンスは思った。その背中が警戒音を鳴らす。ハンスは本能的に片手でアンナをしゃがみ込ませ、もう片方でロハン共々廊下に転がった。
死神の鎌がハンスの頭上を恐ろしい速度で吹き抜けた。しかしすぐさま回転した鎌の柄に横腹を打ち抜かれ、ハンスは息を吹き出す。動けなくなったのを見計らったのか、死神はロハンへその両目を動かした。肋骨が折れたかもと危惧するような衝撃に打ちのめされながらも、ハンスは手を使わず両足で立ち上がり、真正面から死神に抱きついた。
脇腹が痛む。それだけでなく、頭痛もさらに酷くなった。卒倒しそうな痛みの中、視界の隅に黒き少女を捉えていることだけでかろうじて自我を保つ。その恐怖と絶望、または希望となる少女の強烈な印象は意識を少なからず覚醒させてくれた。
黒衣装の少女が鼻先にいる。
少女は驚いている様子だった。本当にわずかだが、氷のような表情を変えていたのだ。
少女だけあって、体重はそれほどない。ハンスは少女を抱え上げるようにして足に力をこめて走り出した。少しでもロハンから離れるための苦肉の策だった。予想外の事態に最も困惑しているのは死神だろう。
死神は柄の先を掴み、その先の部分でハンスのこめかみを一撃した。衝撃で眩むハンスの腕を振り解き、今度は死神から距離をとった。
「驚いた。私にここまでする人がいたなんて」
ぐわんぐわんと音がする頭を軽く振って、意識をはっきりとさせてからハンスは身構えた。
「俺はどこまでも抵抗するつもりだからな」
「抵抗するのなら、今度は本気で」
鎌の刃が、月光を反射する。
「本気で、貴方を──」
「俺を相手にしていたら、ロハンが逃げちまうな」
「逃げません。あの人は私のところへ来ます。魂を狩られに。現に今」
彼女の左手がハンスの真後ろを指していた。
「そこにいます」
振り返る。虚ろな眼をしたロハンがそこにいた。
「ロハン……」と、その名前を告げる。ロハンは一度だけハンスを見て、それからまた死神へ視線を戻した。
「ハンス・ハルトヴィッツ。一つだけ訊いていいか?」
「なんだ」
「レテーナは、助かると思うか?」
それは何を意識してだろうかと、彼の双眸から答えを読み取ろうとして、諦めた。数秒間だけ静寂が訪れる。
「──急いで手当をすれば、うまくいけばな」
「そうか……」
彼は小さく息を吐いた。
「現世においで頂いた尊き神に申し上げます。レテーナが助かるならば、僕は、死ぬわけには、参りません。ですが、もし僕の言葉で盟約が結ばれたならば、この命、喜んで差し上げましょう」
「ええ、そうですね」
校舎の窓が突如開く。誰も触れていないのに開いた窓から、一羽の鳥が飛び込んできて、そして死神の肩に留まった。
「まだ貴方は死を望んでいますから、私はそうするつもりです。安心なさい。彼女はまだ死にません」
ゆっくりと死神が歩いてくる。
ロハンの心に何かの希望が生まれたことぐらい、先ほどの言葉で察することができた。
レテーナは死なないと死神が口にしたのなら、死なないのだろう。とかく死神の口から死なないと言われたのだ。それなのにロハンは死んでもいいというか。
「ハンスさん」
死神となった少女が、初めて少年の名前を呼んだ。
「ドリスさんは生きているんですよ」
数日前の夜に魂を狩られた男の妻が、生きている。その男は妻が死んだと思いこんだからこそ死を望んだというのに、実は生きている?
「ドリスさんだけじゃない。そこにいる彼に刺されたあの男子生徒、本来なら死ぬ程度の傷ではありませんでした。けど、ロハンさん、貴方が彼に私のことを教えたせいでこうなってしまったんです。私は死神なんです。世界には唯一の神しかいないのです。人はその神を望み、そして死神がこの世界へ遣わされた。その神を見た者から、神を信じる者へ伝われば、自ずと神を望むようになる」
「それだけで……死ねるもんか」
「言葉だけでは死ねません。けど、その人が私を信じて、私を呼べば話は別でしょう」
少女はゆっくりと歩き、ハンスの真正面で立ち止まる。
「それは」
「コールさんを思い出してください。人は、自分が死んだと思いこめば、その人は死んでいることになるんです。今の彼がそうだとは思いませんか?」
死神は薄く笑ったようだった。──少なくともその瞬間だけ、ハンスの眼にはそう映っていた。
「死が悲しいなんて、とっくにわかっているんです」
ハンスを手でどかし、死神は言う。
その手が汗ばんでいた。極度の緊張か、それとも違う何かか。ハンスだけは彼女の心を悟り、そうして彼女が自分の横を通り過ぎたその直後に動き出した。
「けどこれが、私の存在理由だから」
鎌が振り下ろされる。
空を斬ることも、魂の器である肉体を斬ることもなく、ただ魂だけを狩るその鎌が。
テースの肩からファイリーが翼を広げて飛んだ。
鎌は魂を貫いた。
一人の人間に一つしかないその魂を──
そして、振り下ろされた鎌の先にいる人間を眺め、テースは目を見開いていた。
「あ……?」
誰の呟きかはわからない。その呟きが何を意味しているのかもわからない。
鎌に胸を貫かれたまま、ハンスは苦しそうに鎌を掴む。
「ハンス、どうして……」
ロハンが不思議そうな顔をして訊いてくる。
「だから、テース……俺は……お前には二度とこんなこと、させたくないから……」
根本にある力が抜けていく感覚を、はっきりと自覚していた。これが魂を狩られるとことかと心の中で呟き、顔を上げる。もう助からない。これで死ぬ。魂を狩られるのだ。それでも良いのかもしれないと、ハンスは頭の中だけで気軽に呟いた。彼女は他の誰でもない、自分に助けを求めたのだ。それで救えるのならば、いいではないか。
失われた力を取り戻そうと手を伸ばすが、しかし力の実体を掴むことはできなかった。
仕方がないので、その手を前方へ伸ばし──
目の前の少女を抱きしめる。
「君は、今まで俺に助けを求めてた……ロハンだって、やろうと思えばもう狩れていたはずなのに、躊躇っていた──俺がいたから?」
「……わたしは」
その鎌をほんの少しでも動かせば、心臓を引き裂き、ハンスの魂は完全に狩り取られてしまう。
死神は鎌を引き抜かなかった。
「致命的なこと、たくさんしたよなぁ……今までずっと、死神としてやってきたんなら、どうして痕跡を残すようなことしたんだろうなって……ずっと考えていた。思えば不思議だったんだ。今になってアンドレアフさんみたいな記者に気付かれるなんて……やっぱり、わざと……」
「動かないで、喋らないで」
「わざと、気付くようにしたんだ。俺に」
幾つもヒントはあった。ある時から残していた。死神は人の意識を操れるのに、最近は中途半端にしか操作をせず、何人かがその死因に疑問符を抱いていた。その一人がハンスであり、アンドレアフだった。
「……テース」
ハンスの右手が彼女の金髪を撫でる。
「はは、死神なのに、悲しそうな顔をするな……そうか、やっぱりテースは、人だったんだ」
「……」
死神は首を振る。左右に。
「私は人では」
「人だ」
ハンスは断言した。
「だって、人らしいじゃないか」
少女は初めて、表情を変えた。
「孤児院で子供達が待ってる。トランプ、しようって──ペーター、リカ、ごめんな……」
テースの髪を撫でていたその手が、だらりと垂れる。
「お兄ちゃん!」
アンナの声が遠くに聞こえる。今は誰も死んではいないだろうか。もっと早くテースという少女に出会っていれば、旅の神父も、コールも死なずに済んだかもしれない。彼らが望んだことだとしても、それを止められたかもしれない。もう手遅れではあったが、それでもまだ一人救えたのだ。
ただひたすらに無言のまま、テースは彼の胸に刺された鎌を引き抜いて放り投げた。物質に触れるはずのない鎌がカラカラと音を立てて廊下を転がっていく。
「死なせない」
呟く。強い意志のこもったその声に、アンナは驚いた。
「どうやって……」
死神の鎌に貫かれた人間の魂を、どうやって呼び戻すというのか。
「私が彼を死なせない。彼は死んではならない。彼を待つ家族、友人がいるから。だから、死なせない」
「でも、それは」
それは、死神の行為ではないと、アンナは呟く。
テースによって抱きかかえられたハンスは、ただ寝ているように思えるほど、穏やかな表情だった。
「自分から望んだ死じゃないなら、きっと、できる」
その方法が後に最悪の結果しかもたらさないとしても、
「七年前と変わらない言葉をくれた」
決して少女は躊躇わなかったことだろう。
「ハンスさんはただひとり、私を人間だと言ってくれた人だから」
ハンスを仰向けに寝かした。
(本当に、寝ているよう)
死神は少しの間だけハンスをじっと見つめ──
彼の唇に、自分の唇を重ねた。
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