第二部~天に背いて~
第八章「痛みの対価」
食事もろくろく摂らずに、憔悴した顔で部屋から出てきたアレキサンドラだったが、そうしてみれば濃い闇のような影が長い廊下の向こうを通り過ぎるのが見えた。
「マッ、マグヌス宰相殿!」
彼は、アレキサンドラなどよりよほど憔悴しきっていた。顔は土気色で、まるで黒い影そのものと同化しておしまいになってしまったのかと思われる。
「なんと……おいたわしいお姿に。無理もないことだ。最愛の弟君を失ってしまわれたのだから……」
そう思うと、胸が締め付けられる。同時に、一命はとりとめたものの、彼女のような素人にはわからない理由で昏睡状態にあるという母のことが思い出されてならなかった。
そして自分の手を見下ろすと、しばらく前にはきれいに手入れしていたはずの指が、芯から冷えて、神経質に震えた。
マグヌスは月光に向かい、救いを求めるかのようにつぶやきを漏らした。
「止めるはずだった。止められるはずだった……マグヌム! 我が弟よ! 死んでしまったのか? 夜闇に紛れて私を苦しめるのか?」
大きく両腕で円を描くようにしてまじないの仕草をして、弟の姿を探しているようだ。だが心は乱れたまま、魔術は発動できなかった。
大きく泣いた。その声は聞こえなかったけれど、苦悶にあえぐように、身を折ってがくがくと地に伏し、爪を立てるようすは、とても一国の名宰相の姿には見えなかった。
……老いた、と言ってしまってもおかしくなかった。
……老いてしまわれた。最愛の者を失ったあまりの心痛のため。
アレキサンドラは嗚咽を禁じ得なかった。必死で口元を抑え、あふれる涙をこらえようとしたがかなわなかった。
それは罪を犯した者の悔恨の涙だった。
「こんなはずじゃ、なかった」
もうすぐすれば、家に帰れるはずだった。
あの、暖かい暖炉のそばで、母の特性のおかゆを食べさせてもらいながら、髪の毛の手入れに余念を入れず、のんびりリラックスしていたはずなのだ。
だが、現実は違う。
……甘い想念を捨てろ、アレキサンドラ。
ここはまだ舞台の上。
戦いは、深い戦いの痕は、罪の跡はまだ残っている……
「なぜだ。なぜあのとき、戦うことばかり追い求め、宰相殿のことも考えずに彼にとどめを刺そうなどとしたんだ」
そしてふと、あの剣(つるぎ)のことを考える。
なぜ、あのとき現れた?
まるで正義は我にありと言わんばかりの周囲の状況で、ひるみもせず猛々しかった宰相マグヌスの弟……何より彼が愛した存在を、断罪せよと命じるかのように。
「まさか……試したのか? 神はひとを赦せという。我々にそれができるかと、試されたのか?」
まるで神のような存在に、断罪の剣を握らされ、さあ、とばかりに飛び込んだ。あれは間違いだったのか?
「違う……ちがう。試されたのは……ボク独りなんだ……ボク独りだったんだ!」
そのまま彼女は悲鳴のようにアーッと声をあげて、くずおれた。
しかしすぐ立ち上がり、自分の部屋に飛び込んだ。そこにはサフィール王子の後ろ姿があった。
あまりに殺風景な机の上に、ヒナギクをおいて、わかったのか、と一言。
「やはり、女性が剣など使うものではないね、あとあと後悔するのがつらい」
あれから、なんどかサフィール王子からの伝言等、いくつか受け取ってはいたが、恥ずかしくて目も通せなかった。
だが、今の王子は別人のようだった。一見するとはにかんでいるようにも見えるが、彼もやはり後悔の苦しみに耐えているのであろう。
その微笑みは悲しげに見えた。
「どうした、
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