07. 神と悪魔の戦いが始まる

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 加田葉介が、兄、草介の死を知ったのは、二日前の早朝だった。


 本来であれば、兄は何事もなくこの場へ戻って来るはずだった。けれども、三日前の深夜、組織は、兄が所持していた発信機の緊急信号を受信した。信号の発信地は、花岡郡筑紫山地の樹海。組織の人間が現地に到着した頃には、すでに兄は冷たくなっていたという。帰国の為に搭乗していた飛行機の上で、何らかの事態に巻き込まれ機体から身を投げたのではないか、というのが組織の見解だった。


 兄の凶報を聞きくも、当時、南部地方で行動していた加田葉介は、すぐに兄の元へ駆けつけることができなかった。そして、今、ようやくの対面。都内にある組織本部の地下の一室の中、ただ呆然と立ち尽くしていた。


 久しぶりに会う兄は、冷たく硬い、まるで別人の……、否、元が人間だったかどうかもわからないほど、哀れな様に成り果てていた。


「兄貴……」


 葉介は、掠れた声で囁いた。頭に巻いていた黒革のヘッドバンドを片手で剥ぐように脱ぎ去り、力一杯握りしめた。コンクリートが剥き出しの灰色の床に水滴が落ちる。


 それが唯一、流すべき涙の代わりだった。


 都内は、激しい雨が数日に渡って降り続けている。


 頭上から響く一定のノイズは、地上の激しい雨音がコンクリートのフィルタを通して変換されたホワイトノイズのよう。青白い蛍光灯に照らされた、コンクリート打ちっ放しの寒々しい部屋に止めどなく注ぎ込まれてくる。高い天井のこの部屋も、耳障りなノイズはすでに飽和状態だった。


 葉介は、遠のきかけた意識を掴み戻し、五感のアンテナをノイズのチャンネルにシフトする。そこでようやく、自分の髪も服も、全身が濡れていたことを思い出した。心の奥底からこみ上げてくる激しい怒りの感情によって麻痺させられていたはずの体感が、ようやく覚醒したのだろう。途端に、濡れしきった躰がひどく寒く感じた。

 

 都内の場末にあるこの場所は、これから世間に反旗を振るうであろう人間たちがひっそりと集うには、まさに絶好の場所だった。世界を代表する大都会の遥か地下、暗く湿った吹き溜まりには、胃液の混ざったアルコールや腐敗したニコチン臭、アンモニアのきつい糞尿臭が織り交ざって渦を巻いていた。更にそこに、人間ならではの粘性を感じる脂ぎった欲望が加わった異常な汚臭が、ねっとりとしたへどろの様に停滞し、充満していく。


 けれども、その臭いから逃げる者ばかりではない。腐臭を嗅ぎわけ、我先にと、音もなくすり寄ってくる者もいる。葉介も、その一人には違いなかった。


「草介は、素晴らしいリーダでした」

 後ろに立って、しばらく黙っていたレオナルドが口を開いた。


 二メートルを優に越えた青白顔のスキンヘッドから出たその声は、見た目とは相反して、どこかに微かな優しさを感じる。蛍光灯の光が照らした彼の顔は、干からびた紙粘土細工のようだった。「草介がいなければ、私たちA.G.I.Tはここまでは来らなかったでしょう」


 葉介は、その言葉を背中で受け止め、無言で頷いた。


「葉介。あなたも知っていると思うが、草介がイスリアを出国する際、すべて必要な情報と資料はこちらに送られてきています。一体なぜ彼がこうなってしまったのか。それはまだ分かりません。でも、準備はすべて整いました」


「ああ……」葉介は、辛うじて小さな声をひねり出すことができた。


「死ぬことが、怖い……ですか」レオナルドは、流暢な言葉で、彼の背中に淡々と語りかける。


「まさか」加田は振り向かずに、肩で笑った。「レオナルドは、怖いのか。死ぬことが……」


 しばらく葉介の背中を見つめた後、レオナルドは首を横に降って答えた。「私にとっては、生きることも死ぬことも、まだよく分かりません。もしかしたら、どちらも同じかもしれない。そう思っています」


 レオナルドの乾いた声が、雨音で湿らされたコンクリートの壁面に反響する。


「AGITに、死を恐れている奴なんかいない。俺だってそうだ」加田はゆっくりと言った。


「それと同時に、生きている奴もいない……」レオナルドは、葉介の反応を伺うように小さく呟いた。


「そう。だから、それを取り返すために、俺たちは戦うんだろ。違うか?」葉介はゆっくりと振り返り、レオナルドの目を真っ直ぐに見据えた。「支配された生は、自ら選ぶ死よりも劣る」


「やはり、あなたは草介の弟ですね」レオナルドは両手を広げ、微かに笑った。


「どうせ人間なんて、何があっても最後は死ぬだけだ」


「彼の口癖でしたね」


「ああ」


 葉介は兄の手を取り、握りしめていたヘッドバンドを兄の腕に巻きつけた。もう二度と動かなくなった兄の躰は、こちらの手が氷ってしまうかと思う程に冷え切っていた。あんなに暖かかった兄が、この世で一番冷たい存在になってしまった。


 最初で最後の肉親を失ってしまった……。


 逆に捉えれば、もう、これ以上失うものはない。


 つまり、その状況は、強い。


「唯一、個人に与えられた違いは、死ぬのが早いか遅いか……、それだけ」葉介は目を瞑り、生きていた頃の兄の顔を思い出した。「人生の時間の短長に価値の違いはない。長生きすることが人生の目的じゃない。仮に短い命だったとしても、行動し、何かを残せばそれでいい。兄貴はいつも、俺にそう言っていた」


「彼は、言葉通り、私たちに多くの物を残してくた。そう感じています」レオナルドは、頷きながら、野太い声で言い放った。


 すると、鉄製のドアをノックする音が聞こえたかと思うと、すぐにドアが開き、一人の女性が顔をのぞかせた。


 鴨志田結菜である。


 ウェーブの掛かった薄桃色のロングヘア。顎下まで垂らした前髪を、片側だけ太めの三つ編みにして、右耳にかけていた。一重のつぶらな瞳は少しだけ潤み、濡れている。か細い身体をスリックな漆黒の軍服に包み、悲壮な面持ちで口を開いた。


「葉介、レオナルド。もう全員揃ってる。ジンが待ってるよ」


「悪い、今行く」葉介は、彼女の顔を一瞥するとすぐに答えた。


 三人は部屋を出て、長い廊下を真っ直ぐに歩き、正面の部屋に向かって歩き出す。狭くカビ臭い空間に、軍靴の奏でる硬質な音だけが響いた。


 先頭を歩いていた鴨志田が、黴のような青銅色の錆に侵食された鉄の扉を開ける。蝶番ちょうつがいが苦しそうに、ぎぃと不快な音を絞り出した。


 扉の先の空間は広くて暗い、正方形の部屋だった。部屋の周囲を縁取る天井は、手を伸ばせば届きそうなくらい低い。部屋の中央は吹き抜け構造にくり抜かれていて、そこだけは天井が高い。その吹き抜けの真下には、入り口の扉と同じく深い錆によって青と赤に変色してしまった歪んだ鉄製のデスクが置かれている。周囲の暗い天井下とは対照的に、そこだけが、青白い蛍光灯に照らされて、闇に浮かび上がる熱帯魚の水槽のようだった。


 ブロック積みの壁際には、木製の大きな輸送コンテナが乱雑に置かれ、その上には、見知った面々が重々しい雰囲気で座っている。人数は二十人以上。全員が、普段は、都心部から離れた遠方の地で活動している中心人物だった。鴨志田と同じ漆黒の軍服に身を包み、水槽から逃げ出した深海魚のように深刻且つ硬い表情で俯いていた。全員が男。女性は結菜一人だけだ。


 扉が再び不快な音を立てて閉められた。


 葉介と結菜は、周囲の黒い視線を受け止めながら、吹き抜けの真下まで歩いた。


「お待たせしました、ジン」

 ジンと呼ばれた男は、デスクの上で組んだ両手の上に顔を乗せていた。結菜の声を聞き終えると、赤黒く血走った両の目玉をゆっくり持ち上げ、二人の姿を見上げるように確かめた。


「もういいのか?」空気を震わす、沈みきった低い声でジンが言った。


 葉介は、ジンの鋭い視線をしばらくの間受け止めてから、無言で頷いた。


「わかった」ジンはそう言うと、組んでいた手を解き、ゆっくりと立ち上がった。


 ジンの、細長くい体躯は、メンバの中でも比較的身長の高い葉介でさえ見上げるほどに大きい。薄闇の中でも、異様な漆黒のオーラを迸らせているようだった。そう感じるのは、着込んでいる軍服のせいだけではない。躰の奥底に抱え込む憎悪や執念、怒りや狂気といった、目には見えない歪んだ精神が、具現化されて表出された得体の知れない覇気のせいだ。


 組織のメンバは、ジンの纏ったこの黒い雰囲気とオーラには、いつも気圧されどこかで怯えている。皆口にはしないが、それは全員が共通して感じていることだった。



「草介が死んだ!」ジンは両手を広げて叫んだ。



 感情を押し殺した、けれども煮えたぎる気迫を声が、冷たく張り詰めた緊張の中に激しく打ち付けられた。


 周囲は、堰を切ったように騒ついた。


「本当に事故なのか?」

「あいつは政府に殺された! 」

「報復だ!」

「俺たちにやらせてくれ、ジン!」

「絶対に許せねぇ」


 周囲から、男達の怒号が湧き上がる。


 ジンは、片手を上げて場を制した。


 一瞬にして、怒号は鳴りを潜めて、再び冷たい沈黙が空間を支配した。


「感情的になるな」ジンは、自分を取り囲むように立つメンバを見回しながら、嗜めるように語気を強めた。「俺達は、この国に溢れかえる、イメージや感情でしか物事を捉えられない落ちぶれた愚民たちとは違う。現象に囚われ、一箇所に留まる訳にはいかないのだ。前進し、自ら考え、一線を画し、常にやるべきことを探し続ける必要がある」


 激しい声が、暗い空間に残響する。


 ジンは、振り上げていた片手を勢い良く振り下ろすと、聞く者が寒気を催すほどの冷酷な口調で告げた。「腐敗し切ったこの国に鉄槌を下す! それが、草介への、せめてもの手向たむけだ」


 葉介は、隣に立つ結菜が、ジンの声と覇気で体を徐々に強張らせていくのを、肌で感じていた。


「作戦は、予定通りのスケジュールで開始する。草介の死は、俺たちの行動になんら影響を与えない。それどころか、俺たちの攻撃性を高めるための糧にしろ、いいか」


 全員が、自らを鼓舞するように鯨波を上げた。


「草介の亡き今後、組織の全指揮はこの俺がとる。異論があるなら、遠慮なく、今この場で言ってくれ。自薦、他薦は問わない。」


 誰も動かない。

 誰も口をきかない。 

 ただ、鈍重な沈黙だけが空間に飽和していくだけだった。


 加田とともにこの組織を作り、長い間ナンバツーの座を保持していた彼の発言に、異論を唱える人間はいるはずもなかった。


「わかった」ジンは淡々と頷き、葉介に視線を送った。「それでいいか、葉介」


 心臓の奥まで突き抜けるようなジンの鋭い視線は、とらえた獲物をその場に縛りつけるような、凶暴な野生動物に似た威圧感が含まれていた。葉介は、視線を受け止めたまま無言で頷いた。


「この国を、取り戻す……」ジンは低く小さな声で呟き、声を張り上げた。「いいなお前ら!」


 全員が立ち上がり、腕を振り上げ、再び狂気と憎悪に満ちた鯨波を上げた。


 ジンは、扉前の暗がりでロボットのように立っていたレオナルドに視線を移す。

「レオナルド、報告を」


「はい」と頷き、レオナルドは一歩前に出た。


「緊急信号を受信したのは、三日前の二十二日、二十一時頃。本部から、現地付近で行動をしていた乾の部隊を派遣し、乾以下八名が急行。到着までの所要時間は約一時間。草介の死を確認後、遺体と大破した端末を回収し、付近に落ちていたそちらのケースを発見」レオナルドは、テーブルの上に置かれているアタッシュケースを指差した。「安全を確認した後、回収しています。撤収時、国防軍の者と思われる数名の一団と出くわし銃撃戦となりましたが、こちらの被害はゼロ。二名を射殺したと報告が上がっています。夜間であった為、恐らくこちらの姿は見られていないとのこと。以上です」


「わかった……」ジンは息を漏らし、目の前に置かれた小さなケースに目をやる。


「ジン、私からも補足があります」タイミングを伺っていた結菜が挙手した。


「何だ、結菜」ジンは目線で促す。


「今回の墜落事故に関しての情報です」結菜は、手元の携帯端末を手のひらに乗せて電源ボタンを押した。アルミ製のL字型ハンドルから、緑色のホログラムモニタが照射され、細かな文字情報が一斉に表示された。


「墜落した機体は、首都港南空港に二十二時到着予定だった、JAIL三二一便。搭乗者二百三十三名の内、二名の行方不明を残し、全員が死亡」そこまで言い終わった結菜は、小さく息を吐いてジンを見据えた。「死亡者の中に、愛咲誠一がいる事が分かりました」


 愛咲の名前が挙がった瞬間に、その場の全員からどよめきが起こる。ジンも、目を大きく見開き顔を上げ、鴨志田を見た。


「愛咲……、だと?」ジンの目が、驚愕の光を湛えて鋭く光った。


「はい」結菜は小さく頷いた。「行方不明者の内、一人は草介さんですが……、もう一名の詳細は不明です。それが誰なのか、本当に生きているのか、それともただの行方不明で死んでいるのか……、定かではありません。現在、政府と軍部より報道管制が敷かれ、これらの情報は公にはされていません。以上です」


 報告を聞き終えたジンは肘をつき、両手を顔の前で深く組み、しばらく黙り込む。


 周囲は動揺を隠し切れない様子で、方々で会話が始まる。


「おい、愛咲ってまさか」

「本当か?」

「マジかよ」

「やっぱり事故じゃねーんじゃねーか」


 ジンは再び片手を軽く上げ、周囲を制した。


「どうやら、草介は、俺たちにとんでもないものを残したようだな」ジンは、テーブルの上に置かれている小さなケースに手を伸ばす。


「これもすべて、神の采配か……」口元を斜めにあげ、不敵な笑みを浮かべるジン。


「珍しいな、お前が神だなんて」男の誰かが失笑を浮かべた。


「知らないのか? この国には、八百万もの神がいるんだ」ジンは、更に口元を曲げ、不敵な笑みを浮かべた。彼は滅多に笑わない。ジンが笑う所を、周囲はほとんど見たことがない。それくらい珍しい。


 彼は、ひしゃげてしまった黒いケースの蓋を、片手を使い、半ば破壊するような勢いでこじ開けた。


 破壊されたケースの蓋がテーブルに落ちる。 


 中には、黒紫色の、妖艶な光を放つ、


 子供の握りこぶし程の、


 いびつな形をした物体が収められている。


 ジンは、その塊を見つめ、呟いた。



「神と悪魔の戦いが始まる」

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