第124話 脅迫
チャイムが鳴る。
久しぶりに弓が剣の家にやってきた。今日も犬耳犬しっぽを装備している。
俺は弓をトップチームに上げていない。
弓の技術は優れている。だが弱者であるヴァッフェは守備から入りたかった。相手のチームより地力で勝っていれば浜松にはその正確なキックを活かして
「弓ね、最近解ったことがあるんだワン」
剣は半開きの目を弓に向けた。
「コーチはね、わざと変な人を装って、弓たちの反面教師になろうとしたんだワン」
「おおよくわかったな」
「へへ~」
弓は頭を俺の体にこすりつける。隙あらば舐めようとする。犬だから何をしても構わないと考えている。俺は全力ではねのける。女と取っ組み合いなんて多種多様なシチュで数多く経験しているが、弓のような身体能力に難のある選手でさえ油断ならない。
並の女じゃない。
似たような感覚は猫やスローロリスにも感じることがある。
猫なんぞ何代も人間にエサをもらって生きる自堕落な生活を続けた結果、甘え上手でお行儀良く尻尾はモールみたいに自由自在、可愛らしい
しかし不意に野生動物の片鱗を見る。それに畏怖を覚えながらも頼もしくも感じる。
猫を嫌いな人は一定数いる。確かに猫はちょいとひねくれている。自尊心が高いのかもしれない。気取っている。
でもまあなんというか、そのツンデレなところがいいのだ。ふと、飼い主に見せる愛情は何物にも代えがたい。
弓はツンデレではない。デレデレだ。確かに犬だ。このように勝手に拡大解釈して勝手に俺を美化してにこにこしている。なんだか胸くそ悪くなって俺は床にごろりと寝転がった。と、弓がわふわふ言いながら絡んできた。犬は人にアグレッシブに迫ってくる。だから犬が嫌いなんだ!
人間の舌はつるつるしていた。三浦とは違う。
「これは何だワン? モザイクアートぁ?」
テーブルの上に小さなマットがあってその上に細かく砕いた卵の殻が散らばっている。剣が丹念に金槌で砕いた物だ。
「ああ、それはな……」
剣はマットを持つと自分に向かって傾け、そこに口を近づける。卵殻が口に吸い込まれていく。それから剣は水を飲み干した。
「ゆで卵を食った後、殻もこうやって飲んでしまうんだ。尖ってるから空腹時には飲むなよ。胃が傷つくからな。サルモネラ菌は
だから肌がピチピチなのかぁ。弓は再び剣に飛びつく。
「お前な、俺はちょいとアレだから違うが、一人暮らしの男の家なんかにホイホイ上がり込むなよ? 何されるか解らんからな?」
弓は急に
プロジェクターはスクリーンにエレメント横浜とアニマーレ仙台の試合を映し出した。エレメントは試合をネット配信している。剣はソファーに腰掛ける。
エレメントの攻撃はそのほとんどが中央に位置するクラウンエーテルを介して行われる。仙台はもちろんクラウンエーテルにマークを付け、ボールを奪おうとする。
「背中に目があるみたいだワン」
クラウンエーテルはするするとスペースを見つけて動き、ダイレクトでパスをつないでしまう。寸暇を見つけると首を振ってこまめに周囲の状況を確認し、正確な技術でボールをはたく。選手は相手に連動して動き、あっちが立てばこっちが立たず、どうしてもフリーの選手ができてしまう。
「将棋だ」
王手を掛けられると相手は王手を切る手段しか選べない。それと同時にカウンターを成立させるのは困難だ。
サッカーも決定機をつくってしまえばそこからのカウンターは時間がかかる。DFには戻る時間が生まれる。攻撃の選手がアタッキングサードまでゴールを運んでくれれば守備の選手には時間ができる。
仕方なく仙台はブロックをつくって守勢に回った。でもそうなると仙台には怖さがない。横浜は攻撃に専念できる。
詰将棋だ。
アップダウンと肉体的接触が少ないサッカーになり、よりサッカーIQが求められる勝負になった。
横浜を見ていると基本的な技術がいかに重要かを痛感させられる。低い位置でボールを奪われない自信がある。技術があれば大胆にラインを上げる選択肢が現れる。パスやトラップをどのように楽しく練習させられるか、ずっと腐心しているテーマだ。
弓はおずおずと剣の隣に座り、ゆっくりと剣に寄りかかった。剣は試合に夢中で気に
ああ、幸せだなぁ。
でももっと幸せになりたいなぁ。
ねえ、コーチぁ。おぼえてるぁ?
「コーチは弓に初めて話してくれたとき、可愛い名前だなって言ってくれたんだワン」
「まあ、お前以外物騒な名前ばかりだからな」
そのときからずっとコーチに夢中なんだぁ。
後半35分、フランがピッチに現れた。剣は顔がこわばる。
フランはボールを追うのに疲れた仙台に軽々と復帰弾を叩き込む。
「虐殺だな」
「頭をかきむしるボッKING☆の姿が見られるからスタジアム行ってみようかな」
「何しでかすかわからん。楽しみだわ」
俺はデスクを殴りつけ、タブレットの電源を落とす。
闇の中に取り残された。
弓は家に帰している。三浦が食い物をよこせと食器をガリガリ引っ掻く音だけが剣を慰める。
その日、松葉杖を突いたグラディウスが陣中見舞いにやってきた。手術は成功したという。
「何の力にもなれない。申し訳ない」
「さっさと治せ。お前の後輩達は優秀だ。ポジションなくなっちまうぞ」
練習場に、何か異物が紛れ込む。
それはみるみるうちに膨らんで、見えない壁になって選手達を二つに分けた。
誰もはっきりとは口にしない。でも、選手達はあの試合からはっきりと顕在化した名状しがたい居心地の悪さを感じた。
ミーティングルームに家からプロジェクターを持ち込んで選手達に映像を見せる。
「横浜の
知恵比べじゃ勝てない。リトリートした相手なんて横浜は慣れっこだ。引いてしまったら強くタックルにいけなくなる。だからその前で止める。
ゲーゲンプレスで行く。フォメは5-4-1。gegenとはcounterと同じ意味だと思って構わない。
守備は一度下がってから行う。相手がハーフウェイラインより自陣に入って来たらボールを奪いに行く。相手が顔を上げる暇を与えず次々と襲いかかれ。そのとき、相手のゴール方向に向かってスプリントしてプレスするよう心がけろ。
そうして、スピードに乗ったままカウンターに移る。手数は掛けるな。横浜の選手は皆、フィジカルは弱い。体でぶつかっていけばこちらに利がある。
ボールを取り切れず、アタッキングサードに入られてしまったらリトリートして2ラインの壁を作ってブロックで守る。2ラインの間は極力狭くすること。1列目が突破されたら強く当たって止めろ。ファールになっても2列目が整っていればカードは出ないことが多い。2ラインの効用だ。
もし、試合終盤で負けていたらマンツーマン(ディフェンス)に移行。全員が全員絶対に担当者から引き離されるな。
お前らは将来有望な選手ばかりだ。通用する力は備わっている。次の試合で、自分の力を証明して欲しい」
とは言ってもなあ。相手は正真正銘常勝軍団横浜エレメント。さすがにハードル高いよ。ショーテルは小さくため息をつく。
剣はそんな様子を目で追ってまばたきした。そうだ。数多くの先人達がこういうとき何をするべきか、歴史に掲示している。
「俺は次の試合に勝てなかったらサッカーを辞める」
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