第96話 先輩の力を借りて
「お前は、俺を振ったじゃないか」
刀は氷を崩す手を止めた。そして顔を上げて俺を見遣る。
「そんな積もりではなかったが」
「逃げたし」
俺の言葉に刀の眉が上がる。
「ではあのまま御辺に手籠めにされろと!?」
「声が大きい」
刀ははっと我に返って周りの客を気にした。膨れ上がった感情を
しゃくしゃくかき氷がほぐれていく。
「食べたらどうだ」
「……頂戴する」
さっき刀の手元に抹茶あずきが来たとき、あんなに目を輝かせていたのにすっかり空気が変わってしまった。
あれは俺の力じゃない。
お前が逃げてくれて、むしろ俺は助かっている。
「今、御辺は
「うん」
「何奴じゃ?」
「それが」剣は窓の外を眺めた。「名前すら知らないんだ。消息不明。ネット上では並ぶ者がいないほど有名人なんだがな。世界で最も加工され人々の玩具にされた人間だ。二年ほど捜索しているが何の手がかりもない。
まるでおとぎ話だよ。日本のどこかで……息を潜めているんだろうけどなァ」
指南役は、浪漫主義者なのだな。
「お前はどうなんだ?」
そうして、剣は刀の目をのぞき込んだ。刀は目線をそらす。
「よく……解らぬ」
刀は顔をピクピクさせ、何度も首を振った。
白に淡い藤の花が描かれた
俺は抹茶を口に含む。ああ苦い。ただ苦い。
「
と言われて刀はかき氷を口に含んだ。氷の粒が非常に細かく、口に入れた途端にふんわりほぐれる。刀は目を見張った。
食べている場合なのだろうか。でも
少し、落ち着いた。
好機逸すべからず!
明鏡止水。明鏡止水。
「正直に言えば。何か悔しいのだ」
剣は
「御辺が、もし誰かと
刀は左斜め下を向いた。
俺は羊羹をひとかけら口に入れ、口ん中を散々甘ったるくしてから抹茶を飲んだ。おお。
「お前さ、俺と初めて会った時のこと、憶えてるか」
「ああ、つい昨日のことのようにな」
わずかに、刀は笑った。
「不思議な心地じゃ。あの時は
苦くて、甘い。
「あの時、上から人々を見下ろすお前を見て、はっとしたんだ。うまくは言えないんだけど、お前は俺には見えないものを見ているように思った」
「見てはおらぬ。探していただけだ」
「だろうな」
二人は笑った。
「そもそも、今俺がサッカーやってるのも、お前に出会ったからなんだぞ?」
やはり刀は笑っていた。
冗談、ではない。自分の言葉が真実であることに、剣自身が驚いていた。
店の前に、行列が伸びる。刀に急かされて、仕方なく茶屋を出た。さて、今日は試合だ。もう行かなくちゃ。
家に戻ってきても、まだまだやるべきことがあった。来週にはB級コーチ講習会がある。
もう、警官と鬼ごっこする必要はない。一方で、寂しさも覚えた。
「ヌッ!」
一息つく。
そのときだった。
サッシがガンガン音を立てた。またもや三浦が逃走。
俺は頭を抱えた。
「あのなあ、男の家にホイホイ上がり込むんじゃない」
フランはベランダで靴を脱ぐと黙って入ってきた。
あれ?
「お前、今日試合だろ?」
「しばらく静養しなくちゃいけないって。オーバートレーニング症候群」
息ができない。
フランは遠慮なく、俺の家のすみずみを見て回った。何の意図があるかは判らない。
「……お前、食事はきちんと摂っていたのか?」
「ないわ。疲れてたから」
そうして、俺の前に立つ。
「甘えさせてよ。わたくし、弱ってるの」
「どうして休ませろと言わなかった」
「試合に出たかったのよ。それだけ」
あ。
俺の、せいか?
俺が、お前を干したから。トラウマになって。
「なんかもう駄目になっちゃいそうなの」
フランが俺に抱きついた。
フランは、また少し大人になっていた。
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