第93話 シリア戦
日曜日。台風でも来れば良かったんだが
下北沢駅南口。こいぬの木。
大きな耳の垂れた白い犬が、俺に噛みつこうと血に飢えた目をして睨んでいる。犬は一体何十匹いるのやら、プラスチックかなんかの木にへばりついてだらしなく舌を伸ばしている。俺の味見をしようとしているに違いなかった。恐怖の
「どこ行くの?」
「にげ……
「? きじ?」
ククリに捕まった。奴は俺の腕にしがみつく。
「ふふっ……」
ククリは何度も笑った。気味が悪い。
彼女の服をよく見ると、群青ベースに白いストライプが入ったチェックのロングシャツをワンピースのように着て、トップスには淡いグレーのシャツを
ククリに腕を引かれて、俺はやたら四角く沢山の穴が空いた灰色の建物に入った。
北沢タウンホール、という名前だ。エレベーターに乗って4階へ。ついていくと屋上に出た。
「いい風だな」
「でしょ? 今ぐらいの気温だとここが最高なんだ」
木々や芝が植えられ、ベンチもあった。
「珍しい。貸し切りだー」
プチ公園ってとこだな。俺は芝生に寝転がった。
「うーん……」
俺は
「何すんだよ」
身をよじらせ逃げようとした。ククリは離さない。声音が変わる。
「今だけでいいから。恋人ごっこしたいの」
俺は断ったときのリスクを思った。そしてククリの希望に沿ったときのメリットを思った。
「わかった」
「へへ……」
俺はサングラスをずらして空を仰ぎ見た。
何て青いんだ。
喧噪の中の人工的な自然。
嘘にまみれた東京。目をつむって、見たくないものは見ないようにして。
「お前がアニメを観るようになったきっかけはなんだ」
「小学生のとき、CSで昔のアニメ観てたんだけど、私と同じ名前の女の子がヒロインのやつがあってね。まあ、感情移入しちゃって。それから。
夏にまたアニメ化されるんだけどね。まあ、私も大人になっちゃったから、楽しめるかどうかは解んない」
「大人?」
「うん」
「お前が?」
「うん」
俺はまた空を眺めた。
「今、笑ったでしょ」
「うん? ……いや」
「笑った。絶対笑った」
ククリは俺の首に腕を絡めて絞め上げる。そんなの全然効かない。
「ああ、苦しい。助けてくれ」
ククリは笑顔のままため息をついて、咳き込む演技の下手な剣を解放してやった。
「今期は何観てる?」
「最近はなんか質アニメしか受け付けなくなっちゃって。普通のはテンポが遅すぎるんだよねえ、退屈で。だから『兄につける薬はない!』と『僧侶が交わる色欲の夜に……』と『世界の闇図鑑』みたいなショートアニメしか観てないや」
「俺はRoom Mate」
「ああ、そう……」
今日も午後から試合がある。こんなことをしていていいんだろうか。
ククリはますます俺に体を密着させた。半分俺に乗っかっている。
嫌悪感、ではないな。恐怖に近い、か。ともかくそれを受け入れ
ククリからすれば。いや、ヴァッフェの選手みんなからすれば。今や剣は安全な生き物だった。男という生き物は自分を性的な目で見る。ミニスカートを履けば足に視線を感じるし、胸も、顔も。
でも剣は違う。
犬みたいに、無邪気に接することができる。まあ、尻尾を振って歓待してくれる犬ではないけれど。
異性として意識されていないことが、悔しい。
「乳首透けてるよ」
「おう」
剣は意に介さない。札幌生まれの剣は夏はずっとTシャツだ。ククリは剣の体を遠慮なく触る。
「すごいね。筋肉の塊」
「お前、俺のどこが好きだ?」
ククリは俺の顔をまじまじと見た。
「うーん……手かなあ」
ククリは俺の手を両手で掴む。
「この大きな手で触られたいなあ」
……要求されてる。仕方がない。
サッカー頑張れよ。俺は頭を撫で、頬に手を当てた。
「へへへ……」
ククリは楽しそうに笑った。
6月12日、夜。
俺が立ち上げたDiscordのサーバーに、今日はベルギーから参加者がいた。
「代表デビューおめでとう!」
「いやあ、なんだか遠い世界の人間になっちゃったなあ」
「鼻毛カッター」
フランはなでしこJAPANの追加招集を受けオランダに渡り、今はベルギーにいた。
「みんなも早く一緒にやろう」
「う……ん」
乾いた笑い。
「コーチ、代表戦の話、聞かせて」
フランは今なお成長していた。その姿を見ると、剣は息が苦しくなった。
「シリアが今、どんな状況か。知らない奴はググっておいてくれ。そしてどんな気持ちでピッチに立っているか、考えてみて欲しい。
彼らにとって7日の試合は大切なものだった。13日のW杯予選中国戦への準備になる試合だ。親善試合だったが観光のために日本に来たわけではなかった。FIFAランク77位だが強敵だった。闘争心高く、それでいて悪質なファールはない。
どうやらハリルの中で岡崎と乾の評価は高くないのだろう。スタメンには選ばれなかった。
おそらくハリルは乾のフィジカルの弱さを難点だと見ているのだろう。原口と乾を比較するとそこが際立つ。
だが乾には日本人随一のドリブルがある。試合後半にその力を見せつけることになった。
日本はシリアの出足の速さに面食らう。ボールを支配できないと日本の良さは出ない。前半はぐだぐだの展開。攻撃の形がつくれない。
後半、久保裕也に代わって本田。またもサイドだ……。本当に意味がわからない。
58分、ようやく乾がピッチに立った。
ドリブルは、戦術を超越することがある。守備陣に綿密に練られた約束事をぶっ飛ばし想定外の局面を突きつける。ドリブラーとディフェンダーの
日本代表としての経験は浅くとも、乾はその力を発揮した。チームとしての連携などできていなくてもドリブラーには関係ない。
左サイドの競争が始まった。攻撃力なら、乾だ。
63分、右サイドに浅野が入る。久しぶりに、本田が監獄を出ることになった。本田をサイドに縛り付けておくなんて、ベルカンプをビッグサンダー・マウンテンの絶叫レポーターにするぐらいの愚行だ。いや、その映像はちょっと観たいけど。
ミケル・エチャリは本田をこう評している。『時間を操れる』選手。
永里優季のtwitter。『本田のスルーパス、前半から見ていて思ったけど、相手のスピードと味方のスピードを計算して出している。パススピードで時間軸をコントロールしている』
本田は視野が広く、アタッカーが攻撃に移る最適なタイミングまで待ってパスを出そうとする。タメを作る。そんな狙いを持ったパスを受けるとフリーになれる。本田の真骨頂だ。
本田は右サイドハーフから右インサイドハーフに移り、右サイドへのパスという選択肢が増えた。パスが回り出す。次々に化学反応が起こった。懐かしい風景。
ザックJAPANのパスワークだ。
呆れることに代表の練習でも本田はサイドしかやっていなかったらしい。ハリルは本田をサイドの選手だと思い込んでいた。いや、今も思っているかもしれない。
思い返せばミランのセードルフ政権下時にサイドに移ってから、日本代表でも右サイドだ。そこから本田の運命は悪い方向に回り出している。
日本にはパスサッカーの文化がある。ミランとは事情が異なる。
森重を外して、昌子を起用したが痛みを伴う改革になりそうだ。正解かどうかは解らない。だが試す価値はあるかもしれない。この正念場で試す意味はよくわからないが。
倉田秋も今のところ凡庸にしか見えない。
もし日本にアリエン・ロッベンのような爆発的な突破力を持つWGがいれば3トップもいいだろう。
でもいない。
ならば、2トップにして2人の連携に期待すべきだと思う。幸い、日本は
もしかしたら左WGは乾が期待に応えてくれるかもしれない。だとしたら右WGは久保次第だ。7日の消えっぷりを見るに料理人、つまり食材を揃えてくれないと何もできないタイプかもしれないが」
そしてレイピアが声を挙げる。
「イラク戦の展望をお聞かせくださいな」
「左サイドだな。どちらを使うのか。俺なら乾だが、ハリルにはイラクを攻め倒す自信がないかもしれない。
岡崎の優先順位の低さも気になる。『相手が弱いから岡崎のプレスは要らない』という論理ならまあ理解できるのだが。
負けると厳しくなるのでハリルは前半は守備を重視するだろう。
ハリルはやはり速攻がやりたいようだ。酷暑には速攻がいいと言う。展開が速いバタバタする試合は疲れると思うのだが。選手はパス回しをしたいという報道がある。走るのは選手だからな。芝の状況も影響するだろう。幸いなことに開催地は中立地、イランの首都テヘラン。日本のパスワークを封じるため、わざと芝を不揃いにカットするなんてことはしないだろう。
ハリルは違うと言うかもしれないが、日本代表はかつてないハイレベルな陣容だ。低レベルなアジアで四苦八苦しているようではW杯本戦など勝てるわけがない」
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