第86話 網の目を抜けろ
ガキの女の体からは何か甘い臭いがする。俺が禁止したのでうちの選手達は基本的に香水を使っていない。のに、狭いミーティングルームに選手達がすし詰めになるとはっきりわかる。
「耐えがたい悪臭だ」
昔は、嫌いではなかった。今、俺の攻撃力は30%ほど下がっている。
「ホルモンが出てるからね」
「フェロモンだろ!」
モーニングスターのチョップがクリスに突き刺さる。クリスはボケてなどいない。かわいそうに天然物だ。俺は最近焼肉屋に行ってないことに気がついた。
ぼふっ。
クリスの頭から何か胞子のようなものが舞った。あっという間に部屋に飛散する。俺も含めほぼ全員が
「コーチ」
ショーテルが細長い手を挙げる。
「勉強すると眠くなるんだけど」
何人かがうなずく。
「人間は嫌いなもの、好きじゃないものをやろうとするとあれこれ理由をつけて逃避しようとする。まあ、何か自分の前にニンジンをぶらさげるしかないな。頑張った自分にご褒美をやれ。
勉強する前に炭水化物などの糖質をたらふく
練習が終わった後はできるだけ間を置かず糖質を摂って欲しい。というか体が甘いものを欲するはずだ。練習の前にもいい。持久力の素になる。タンパク質も必要だな。
試合の前夜から朝にかけては大量に糖質を摂ってくれ。パスタなんかがいい。試合後にはなるべく消化のよい糖質を摂るべきだ。体が疲労しているから負担が少ない飲み物なんかがいい。
さて。今日の講義と行こう」
俺はホワイトボードに向かった。
「カットラス。
カットラスはフリーズした。電源ボタンは見当たらない。
「たとえばだ。ここから東に1km、北に1km進んだところにある点Pに向かうとき、最も早く着くルートはどれだ。
①先に北に向かって東に折れる。
②先に東に向かって北に折れる。
③北東、つまり斜めに進んで点Pに向かう。
さあ、どれだ」
カットラスが両手で①。クリスが王者の風格で②。あとは全員が③で手を挙げた。
①と②は何が違うってんだ。となれば③に決まってる。鎖鎌は心の底から二人を軽蔑した。
「答えは③だ」
そして俺はホワイトボードに図形を描く。
「東に1km進んでから北に1km進む。そして出発地点と点Pを直線で結ぶ。さあ、これを何と呼ぶ。ティンベー」
「直角二等辺三角形」
「では、直角二等辺三角形の比は? マン・ゴーシュ」
「1:1:
「誰か
ククリが手を挙げる。
「
「
俺はペンを置いた。
「2kmと√2kmは結構な差になる。斜めに進むだけでこれだけの差が生じる。
つまり、斜めに走る選手は速く見える、ということだ。
サッカーでは時折ダイアゴナル・ランという表現が使われる。ダイアゴナルは対角線という意味だ。要は斜めに走るということだな」
剣はボードに二つ、赤いおはじきを置いた。左のおはじきに1、右のおはじきに2と番号が振られている。「カウンターのチャンス。赤が敵のDF」
二つ、青いおはじき。こちらにはAとBと書かれている。そしてボールのおはじき。
「青が攻める側。Aがボールを持っている。Bが左からダイアゴナル・ランでラインブレイクを狙う。
ポイントは赤の二人を迷わせることだ。1か2、どちらかがAの面倒を見て、どちらかがBのマークをしなければならない。もしBに二人マークに行ってしまったらAが空く。
Bは左下から駆け抜けようとしているのでまず左側にいる1がマークする。
Bは様々な工夫ができる。例えば1と2の目の前を駆け抜けて右に出る。Bのマークを1から2に受け渡すのがベターだが、意思疎通がうまくいってないとAかBがフリーになるかもしれない。1が付きっきりでBを追おうとしても1が2にぶつかりそうになってフリーになる可能性がある。
Bはどのように走れば1と2を混乱されられるか考えるべきだが、ダイアゴナル・ランは有効な選択肢だ。さっき言ったとおり効率的な移動ができるのでDFから見ると急に足が速くなったように見える。
敵味方がボックス内に密集するセットプレー時もダイアゴナル・ランは有効だ。敵同士の走りたいコースをぶつけさせ、いかに味方にフリーの選手をつくるか。たくさんの駆け引きができる。マンマークの場合、攻撃側が長い距離を移動すれば守備側も長い距離を移動しなければならない。他の選手を障害にしたり、ダイアゴナル・ランでマーカーを振り切ってフリーになりたい。
前にも説明したとおり攻撃側はイレギュラー、不規則的な結果である得点を求める。フリーというイレギュラーな状態の選手にボールが来てくれれば大きな得点のチャンスだ。
他にもある。
テニスは渾身の力でラケットを振って観客にボールを命中させてはいけないスポーツだ。コート内にバウンドするように打たなくてはならない。一般的にいいショットというのは速くて、ネットすれすれの高さを飛ぶ。
ではここで問題。テニスで強いショットを打つとき、アウトになりにくいのは、
「ストレートかと」
「ブッブー。クロスが正解」
今度はテニスコートを簡単に描く。
「テニスコート中央には、俺のショットをアホほど止めてくれたネットが
「クロスであろう」
一部の選手がはっとしたように目を大きく開く。
「今度はさっきと逆なんだ。斜めのほうが距離が伸びる。伸びた分、強いショットでも落ちてインになる確率が上がる」
手裏剣が不満そうに。「でも、テニスの話でしょ?」
「いんや」
俺は赤いおはじきをゴール前に4つ並べる。その手前に黒いおはじきを2つ置く。そしてボールのおはじきも。
「4人がラインディフェンスを布いている。そこに浮き球スルーパスを通そうとする。
決まれば鮮やかだが浮き球スルーパスは難しい。低すぎればDFに阻まれる。高すぎれば飛びすぎてGKに取られてしまう。
そもそも力加減が難しい。遅いボールを蹴ってGKより先に味方にボールを触らせる。縦回転をかけて、DFを越えた後に落ちるボールを蹴る。体勢十分でなければ狙いにくい。
問題は、DFラインとGKとの距離だ。
空いていればいいが、敵も危ないと見れば下がって、浮き球スルーパスを警戒する。その狭いエリアにボールを落とすのが難しい。
そこで浮き球スルーパスも、ダイアゴナルに出すのが効果的だ」
俺は目を
「DFラインが、テニスのネットとおんなじなんだね」
弓の声はいつもより高い。
「そうだ。
浮き球スルーパスの場合、ボールはDFを越えた辺りで勢いを失い、急激に落ちる。ダイアゴナルなパスのほうが、ボールが落下するまでの距離が取れて、成功しやすい。真後ろから飛んでくるボールよりトラップしやすいという利点もある。レーンをずらせばDFを惑わせることもできる。
さ、実践といこうか」
立ち上がり、グラウンドに出る。
「フランがいないところで、なんかフランに悪いですわ」
レイピアがつぶやいた。
パソコンをつないでる時は、いつもあいつが参加してるからな。
でもあいつなら。これくらいのこときっと本能で理解している。
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