第57話 フランベルジュ奪還作戦 前編

 仕事を終えるとエロスは薬局に寄った。

「すみませ~ん」

「はい」

「睡眠薬下さい」

「あー、処方箋がないと出せないんですよ。買えるのはこういうね、睡眠改善薬……」

「なるべく強くて抵抗できずに眠っちゃうのがいいんですよ」

 店員は目をしばたたかせた。

「あの、用途は何です?」

「あの……昏睡レイプに使おうと思って」

 エロスは頭を掻き照れたように言った。




 俺は胸の奥に溜まった重いものをはき出すように、深くため息をついた。


 どうしてこんなに世知辛い世の中なんだろう!


 あの店員、こっそりポリスを呼びやがった。

 おかげさまで今日も俺は逃走劇を演じるハメになった。


 小雨が降り出した。

 俺のマンションの手前で電話が鳴る。

 電話に出ると、おっさんBは沈痛な声でフランの移籍を告げた。

「今すぐフランに電話したい。連絡先を教えてくれ」

「それが……フランベルジュの家には電話がないんです」

 !? 

 スマホを見遣る。九時を回っている。

「どうしようもない緊急時には大家さんに連絡して繋いでくれとは言ってるんだけどね……」

「今がどうしようもない緊急時だ!」

 教えて貰った電話番号に掛けると、陰気そうな声の婆さんが出た。しばらく待つと「出払っているようだ」とぶっきらぼうな返事が聞こえた。


 今来た道を駆け戻る。

 俺は、フランを傷つけていたのかもしれない。

 彼女は、毎日俺にお小言こごとを言う。俺も奴を遠慮なく面罵してやった。奴にもかすり傷の一つや二つは付いていたのかもしれぬ。

 

 深更だったがクラブハウスは、まだ灯りが点いていた。

 オリオンが中天に上り、食い入るように雄牛を狙っていたがその右肩は真っ赤に染まっている。

 おっさんBがくぐもった声で電話していた。その側でおっさんAが微動だにせずに立ち尽くしている。

「フランの契約は、どうなっていたんだ?」

「怪我など特別な事情がなければ毎月更新されます。辞めようと思えばいつでも辞められる状態でした。移籍金は取れません」

 おっさんAが呪詛でも唱えるように言葉を吐き出す。

「なんで……あれほどの逸材、日本に二人といないぞ!? どうして長期の契約にしておかなかったんだよ!」

「もう彼女には十分厚遇を与え、投資してるんですよ。それに加えて弱冠十四歳の女の子に気前よく給料を渡せる程うちの経営が楽だって思ってるんですか! 基本的に赤字でやってるんですようちは!」

 俺は口を閉じた。そのまま大きく息をはき出す。大きな鼻息が漏れる。

 

 そうだよ。俺が今すぐにでもラケットを握ってコートに立った方が余程客を呼べる。そんなの無理だけどね。

「あいつは、違うんだよ。真性のクラックなんだ。特別なんだよ」

「あなたこそ、そのクラックを試合で使わなかった。このことは今の今まで言いたかなかったけどね! あなたの起用にも原因はあると思いますよ!」

 俺は薄く笑う。両手を軽く持ち上げて。そっぽを向く。

「その通りでごぜえますよ」

 おっさんBが受話器を置いた。

ほこを収めてください。悔やんでも仕方ない。悔やんでも悔やみきれないけど……」

「フランの家に行く。住所をくれ」

「何があっても来ないで欲しいとフランは言ってました」

「知るかよ。メタルスライムが逃げだそうとしてるのに、指をくわえて見ている気か?」


 

 スマホはイケボで告げる。

「あと十メートル前方だぜ。もうすぐお前とお別れなんて……頭がおかしくなりそうだ……」

 あれ、だろうか。

 ビニール傘を持ち上げ、観察する。

 匂い立つような裏路地に、車が通りがかった。フロントライトに照らされた屋根は波板のトタン葺きで、もともと鈍色だったのだろうが錆びて全体的に赤茶けていた。所々、釘が屋根から飛び出しているのが見える。

 靴に何かが当たり、スマホで照らすと、雨樋あまどいの残骸らしきものが落ちてそのまま朽ちていた。降りしきる雨は欠けたモルタルに浸食し、中の木まで腐っているように見えた。

「着いたぞ……。お前と一緒にいられて、楽しかったよ。またすぐ、会いに来いよ……」

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