コトノハ江戸草子 幻の海

九藤 朋

コトノハ江戸草子 幻の海

 白木造りの社は、闇夜にも白さがほう、と浮き立つようで、狐や狸、猫や蛇などがそれに惹かれるようにして集った。

 緑がざわめき、風が鳴る。

 

 江戸時代は元禄の頃。

 音ノ瀬家が営む社は近隣住民の尊崇を得ていた。

 それはかっと照らした日輪のようなものではなく、清かな月への思慕に似ていた。


 音ノ瀬社家の娘・澄は、寺子屋に通わずに社の神官などに読み書きを習った。

 遊び友達には油屋や絵草子屋、呉服屋の娘たちがいた。


 神社の境内などは童たちにとって、恰好の遊び場所だ。

 大きな楠も、本殿、拝殿、宝物殿、神楽殿も、きゃあきゃあ言いながら走り回っては大人に叱られるのが常だった。


 澄には一風、変わったところがあって、例えば手毬歌を歌えば鳥が群れ、病人を見舞って励ませば、症状が軽くなった。


 言葉に宿る音色と力・コトノハの恩恵を強く受けたのだ、と両親らは言った。

 音ノ瀬はそういう特殊な家系だったからだ。

 そしてそのことを周囲には伏せ、騒がれないようにと殊の外、気を配った。


 徳川の治世定まったとは言え、宗教や経済などの情勢は未だ不安定である。

 コトノハを悪用されては堪らない。

 澄も、その弟の加来も、コトノハに関しては他言無用と、きつく言い聞かされて育った。


「なぜかしら」


 十三になる澄は、桃色の丹後縮緬を愛らしく着こなし、神楽殿の端に腰掛け、脚をぶらぶらさせながら言った。

 隣に腰掛ける十一の加来は、姉を訳知り顔に見た。

 晴れ渡った青空の、初春のことだった。


「姉さん、世間知らずだからな。鬼より人が怖いって、知らねえんだろ」


「鬼なんて見たことないし。…いたとしたって鬼は鬼。人は人でしょう?比べるものではないわ」


「だからさ。比べるようなのっぴきならねえことを知らずに育ってるのが、幸運だって言ってんだよ、俺は」


「…あんたは賢過ぎて、時々、何言ってるのかよくわかんないわ」


 加来が、きっ、と澄を強い目で見た。

 こういう顔をした時の加来の言葉をおざなりにすると、あとでろくなことにならない。

 円やかな薄墨のような澄の目と異なり、加来の目は褐色を帯びた黒だ。

 そのぶん、鋭利な面差しに見える。


「見る人間によっちゃあ、コトノハ使いは、金の成る樹なんだ。いいかよ、姉さん。そう見なされたが最後、俺らは人間の仲間から爪弾きにされちまうんだ。それか、血の一滴まで利用される。だからコトノハは、隠し通さなきゃならねえ――――――――おい、聴いてるか?」


 澄は加来の額についた、白い梅の花弁を優しく手で払った。


「うん。聴いてる。大丈夫よ」


 ほんわりと微笑む澄に、しかし加来は、不安を抱かざるを得なかった。

 昔からどうにも地に足の着いてない風情の姉に、危機感というものをどう教え込んだものかと、加来は幼いながらも頭を悩ませていた。


 花弁が雪のように、ひらひらと流れた。


 その花弁に、澄が手を伸べる。

 白い掌に降りる白い花弁。

 雪と見紛うようで雪でなく。




 ―――――――――――――連れて行かれるかもしれない。



 加来の心を撫でたのは、真夏に被りついた瓜みたいに冷たい予感だった。

 茫漠として確かな根拠など無いのに。


 澄がどこかへ、行ってしまうと思った。









 そろそろ献花祭の時期が近づいてきた。

 満開に咲いた花を神前に献じるのだ。


 澄の好きな祭事だ。



 冬過ぎて花綻び、人々の顔も綻ぶ。



 今日も絵草子屋の娘たちとお茶や団子でお喋りに興じてから、頼まれていたお使いを済ませて社に帰る途上、「やすらえ花よ~」と唄っていた。


 花がゆっくり在るように、という意味である。


 やすらえ花よ、やすらえ花よ、と繰り返すと、不思議と心が和み、平らかになるのだ。

 優しくなれる気がして、澄は口ずさみながらのんびり歩いていた。


 本当は、そのようにして、風に乗りやすいコトノハを不用意に発することは禁じられている。


 春の陽気に緩んだ澄の心が、口を滑らせて止まなかったのだ。





 口を滑らせて―――――――それが、澄の人生を滑らせた。


 




 丁度、武家屋敷の並ぶ区画から寺社の領域に入る、川の流れに架かる橋の袂で、声を掛けられた。

 か細い水の流れる音より低く、若い男の声。


「待て、そなた」


「はい?」


 澄が振り返ると、歳の頃は十五、六かと思しき侍が立っていた。

 立派な身なりだが、従者の一人もいない。

 お偉い人の忍び歩きだろうか、と澄は考えた。

 彼は澄に寄るなり言い放った。


「私の、胃の腑の痛みが消えた」

「――――――はあ」

「そこで動けず、難儀しておったに。そなた、何をした?今、唄うておったな?何かの呪いか?」

「いえ、それは、その―――――――――」


〝コトノハは、隠し通さなきゃならねえ〟


 加来の言葉が蘇り、何とか誤魔化そうとするも、相手は必死の目で澄に迫る。

 切れ長の、涼やかな目元の縁は少し紅潮している。

 澄は呑気に、加来とは目の形が違う、などと考えていた。

 若侍はそれどころではない勢いだ。


「幼少より患わされていたのだ。そなたの唄を耳にしてそれが霧消するとは奇怪なり。一体、何の幻術だ」


 その時、ただ当惑して言い募っていた若侍が、今、気付いたように澄の顔をまじまじと見つめ、ふと顔を逸らした。


 淡い春霞と夕影が混じり合う刻限。


 顔を伏せた澄の髪に挿した櫛の蒔絵が、金色にちらりと光った。





 献花祭を待たずして、澄は音ノ瀬の社を離れることになった。


 例の若侍は大名家の三男で、その大名家が是非とも澄の身柄を貰い受けたいと申し出て―――――――――――実際は有無を言わせず命じてきたのだ。

 どうしてそうなったのかは解らない。

 社に恰幅の良い侍が何人も押し掛け、父と母を半ば脅すように説得した。

 父は怒号を上げ、母は泣いてくずおれた。

 それらの遣り取りが交わされる部屋の外で、加来は蒼ざめ、強張った顔で突っ立っていた。

 一度だけ、隣に立つ澄に、この莫迦野郎、と低く呻いた。



 そんな騒ぎの中でも、自分がいなくて献花祭が滞りなく催されるだろうか、と、澄は他人事のように思ったりしていた。


 そうこうしている内に、澄は城からの迎えの駕籠に乗っていた。

 何もかもが、一挙に突然に、激変した―――――――――。


 生まれて初めて入る城の中は、奥向きだの中奥だの色々と説明されたが、澄は呆気に取られるばかりで頭が追いつかず、ぐるぐると目が回るようだった。

 すれ違う腰元たちの視線も何やら痛い。


 やがて澄は城の奥まった箇所に設けられた座敷牢へと通された。

 太く固い格子の向こう、梅が侘しく描かれた行燈だけが置いてある。


「そなたはこれより先、ここにて起居し、我が藩の為にコトノハを紡ぐのだ」


 腰に小さ刀、薄い茶の堂々とした肩衣(かたぎぬ)を纏った押出しの立派な侍が、感情の読み取れない声と顔で澄に申し渡した。

 強引に促されるまま牢に入ると錠が掛けられ、男は去り、澄は薄暗い座敷牢に独りきりとなった。

 行燈に使われている油は菜種油のようで、魚油のような生臭さは無いが、心細さには大差無い。


 どうしてこんなことになってしまったのか。

 ただ自分は、花の永きを祈り、唄っただけなのに――――――――――。


(あのお侍様)


 やはりあの若侍が、こんなことになってしまった元凶だろうか。

 優しそうな人に見えたのに。


(父さん…。母さん…。加来)


 家守や蜘蛛が時折り、部屋の隅を通り過ぎる。

 行燈の灯に惹かれたのか、どこからか羽虫も飛んできた。


 心細くて不安で、それでも端坐の姿勢は崩さず、畳の目の数を数えるともなしに澄が数えていた時。

 ガシャリ、と錠の開く音がした。


「あ………」


 身を屈めて座敷牢に入って来たのは、川の袂で逢った若侍――――――城主の三男だった。


(こんなことになったのも―――――――)


 澄はふっくらした唇をきゅ、と噛み締めて彼を睨んだ。

 睨むと言うには、弱弱しい視線だったが。


 澄のその態度に、彼は斜め上を向き、下を向き、そして正面から澄の視線を受け止めた。


「すまぬ。…かような仕儀になるとは、私も思わなかったのだ」


「私をうちに帰してください!」


 後ろめたそうな若君の物言いに飛びつき、縋るように澄は叫んだ。


「それはならぬ。いや、私一人であれば帰したであろう。今のが、コトノハの力というものだな?我が城にも抱える呪術師はおるのだ。あ奴らが、そなたの力の増減を操っておる」


「そのような方たちがおられるのであれば、私など必要ございますまい」


「コトノハは呪術に定まりきらず特殊なもの、と聴いておる。そのほうたち一家丸ごと城中に留め置けという声もあるほど、その力は欲せられているのだ。だが、それではさすがに剣呑に過ぎる。番所に出張られても、ことを荒立てる。音ノ瀬の親族らも殊更に騒ぎ立てよう。そなたの家は遡れば朝廷の神祇官に属するとも聴く」


 沈黙が降りた。畳に積り、互いに、次に発する言葉も見出せぬまま。

 やがて若君が、その沈黙を、そ、と動かした。


「償うべくもないが、せめてもの侘びだ」


 そう言って差し出されたのは、澄がそれまでに見たことのない、豪奢な打掛だった。

 海のような群青の絹に、金糸銀糸が勇壮に踊り、大小、様々な花が白い色のものを中心に刺繍されている。

 目に綾な打掛は、薄暗い座敷牢を春の海にした。

 花の舞う海にした。


「乳母が、娘であればかような物を好むだろうと言うので…。そなたは確か、花を唄うておったし」


 澄は、手に重みのある打掛を見ながら、若君の言葉を聴いた。

 彼のコトノハの温もりを、耳で捉えた。


 それだけのことなのに、ささくれ立っていた心が凪いだ。


「…胃の腑は、もう、痛まれませんか?」

「たまにな」

「その節にはお出でください。微力ながら、コトノハを若君様に処方致しますゆえ」


 若君が驚いた顔で澄を見る。


「良いのか?親元より引き離した、私が憎いであろう、孤独に貶めた私が、恨めしいであろう?それが道理ではないのか」


 澄はコトノハを慎重に手繰り寄せた。

 今、己の心にあるものを。

 靄のようなそれをコトノハで象り、若君に伝えねばならないと思った。


「…私を孤独に貶めた貴方様もまた、孤独におられるように思えましたので」



 たかが小娘一人の胸の内を慮り、慰めようとする。

 高貴な出自でありながら己が所業に気を咎め、着物を手ずから運んできて詫びる。


 安穏と生きてきただけの人ではないのだ、と澄は考えた。

 現状をどう嘆いても、始まらない。

 ではこの寂しそうな若君にコトノハを処方するくらい、しても良いのではないだろうか?


 澄のコトノハを服用した若君は、ぎこちなく表情を動かし、右手で口元を覆った。

 切れ長の目元の縁が、また少し紅潮している。






 それから、春が去り、夏が去り、秋が去り、冬が去り、また春が来た。







 澄は風も感じられぬ座敷牢で、四季の歩みに寄り添えることもなく過ごした。


 入れ替わり立ち代わり訪れる、壮年の武士たちの命令に、澄は従った。


 藩の繁栄を祈れ。


 河川舟運では我が藩が最も先んじるようにせよ。


 麻・木綿・絹を集荷させよ。


 蝗(いなご)が領内の稲を食い荒らすのを防げ。



 澄は命じられるまま、唯々諾々と従ったが、そのような大事において、己のコトノハがどこまで効能を果たしているのか疑問でもあった。


 命令の中には、奥方様の麗しくあられるようにせよ、などという、首を傾げてしまうようなものもあった。


 さる藩に生まれた嫡男を呪殺せよ、との命令だけは、泣いて拒んだ。


 澄がコトノハを処方したとて、何ら影響は無いかもしれないが、万一を考えると恐ろしくて堪らず、それ以前に、人を呪う、という行為が、澄には出来なかったのだ。



 

―――――――――人の強欲とは何と浅ましく、恐ろしきものか。



 鬼より人が怖いと言った、弟の加来は、そのことをずっとよく承知していたのだ。


(…お可哀そうな若様)


 このような、鬼の如き人間ひしめく巣窟で生まれ育った。

 大名家の三男が、恵まれた状況ではないことは、澄にも解る。

 難しくて微妙な立場だ。

 胃の腑の痛みも或いは、そうした背景によるものではないか、と澄は考えるようになった。


 澄を捕えた彼自身が、別の者に囚われている。

 捕え捕えて。

 


 ―――――――もがく浮世の悲しきことよ―――――――



 


 底冷えのする春の夜。


 澄は群青の打掛を頭から羽織り、虚しさと悲しさに咽び泣いていた。

 突如、錠が開く音に、びくりとする。


 そこにいたのは若君だった。

 澄は顔を覆ったが、泣いていたことは知られたようだった。


 若君はそのことには触れず、行燈の横に腰を下ろした。

 若君が来る時はいつも、良い匂いがした。

 澄はその匂いが好きだった。

 決して口に出しては言わなかったが。




「爺がな」




 やがて若君が言った。


「私に婿養子先の話を持って参った」


「はい」


「相手は、水運が整えられ盛んになるに従い、交易にて力をつけてきておる雄藩の姫らしい」


「おめでとう存じます」


 澄が辛うじて言うと、頭に被せていた群青の打掛が取り除かれた。


「誠、そう思うか」


 若君は、逸らすことを許さぬ強い双眸で澄を覗き込んだ。

 芳香が立つ。

 息が止まりそうだ。

 群青で面を隠すことを許されない。


「澄。それは、そなたの偽りなきコトノハか?」


 間近で見る若君の顔は、初めて逢った時より輪郭が鋭くなり、疲れて見えた。


(…お可哀そうな若様)



「偽りなきコトノハか?」


「…いいえ。私は偽りを申し上げました。ですが、真を告げたところでどうなりましょう?私はこの檻に囚われ、生涯を終える身でございます。せめて―――――――――、」


 澄が言葉を切ると、ばらばら、と畳に涙が散った。

 白露などと評するには、痛ましさと激しさの勝る涙だ。


「せめて、お慕い申し上げる御方の、行く末の幸を祝福したい。そう思うだけです。それしか出来ぬ私に、もう何もお求めくださいますな。どうぞこの穢れた檻より去られ、永の幸福を得られてくださいませ。光溢れるほうへとお進みください」


 澄は、これまでの一生にないほど、激しく泣きじゃくった。

 平生を装う気力すら無かったのだ。


 澄は泣き続けた。

 若君は黙って傍にいた。

 やがて行燈の灯も心許なくなってきた。

 薄暗がりが、全き無明と化そうとしている。


 そうなると、互いの息遣いや体温だけが明確に際立つものとなった。


 見える光。

 見えぬ闇。

 見えぬ光。

 見える闇。


 闇にいるゆえに、明瞭に互いの心が座敷牢に灯っている。

 手を伸ばしたのは、若君からだった。

 澄の髪に触れ、額に触れ、それが予め定められた流れであったかのように、澄の体躯を包み込んだ。


 ど、ど、ど、ど、と、恐ろしい速さで二つの鼓動が鳴っている。


「私には解らぬ。光とは何だ?穢れとは何だ?そなたは清い。藻屑と化しそうな清さだ。そう仕向けてしまったのは私だ。そなたから奪ったのは私だ―――――――――」


「それでは」


 澄が泣きながら、くすりと笑う。


「奪われた中から、私の心をお返しください」


「返さぬ。私も奪われたゆえ、返さぬ」


「では、囚われ者二人ですね………」




 そこから先は言葉も無くて、ただ、お互いをよすがとする全てのように抱き締め合っていた。

 固く固く固く。

 艶めいた触れ合いではなく、存在に齧りつき合う。

 勾玉の二粒が重なり合って円を成すように。

 血流の見分けがつかなくなるぐらいに。

 寄せては返す波と波のように。











 翌朝。


 座敷牢には、澄の姿も若君の姿も無かった。

 群青色の打掛だけが畳に這い、その周りにはさらさらとした白砂が広がっていた。

 青と白砂で鮮やかな座敷牢の中が、まるで海辺のような様相だ。

 白砂には所々、小さな金の粒が混じり、光っていた。




 澄が最期に処方したコトノハが何であったのか、知る者は無い。

 




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